基本法改正をめぐる態度について

 「教育に貢献したい」と書いたシミが乾かぬうちに,「教育基本法改正お疲れ様」と書くとは無責任にもほどがある,そう思う御仁もいるかも知れない。皆さんの心証が悪いのは仕方ないと覚悟はしている。
 月曜日だから「AERA」なんかを立ち読みしに行くと「教育基本法「改正」で立ち上がった面々」なんて記事があり,いままで反対抗議活動をしそうに無い人たちのことを取り上げたりしている。
 研究者はこの問題に対して何もしてこなかったのかと問えば,答えはNOである。緊急出版された教育学関連15学会編・共同公開シンポジウム準備委員会『教育基本法改正案を問う』(学文社2006)に記録されているように,自分たちのフィールドで議論を積極的に展開してきた。その情報伝搬の努力が十分だったかどうかは問われなければならないが,高みの見物をしていたわけではない。
 教育基本法の改正というのは,本来ならば国民投票が行なわれなければならないほど国民の行く末を左右する行為である。この国が法治国家である限り,私たちは制定された法に従わねばならず,善悪を裁く場合にも法が根拠となる。私たちの日常生活では意識されないとしても,それは日常生活の根本を変えているという点で,きわめて危うい行為なのである。(教育基本法自体は理念法だが,それに基づいて改正していくその他の法律が問題となってくる。)
 分野は異なるが,たとえば「大規模小売店舗法」(1998年制定)とその後それを廃止して制定された「大規模小売店舗立地法」(2000年制定)によって日本全国に出現した「巨大ショッピングセンター」が,各地域の商店街を風化させ,地域社会を壊してしまったのと同じようなことが起こると考えれば分かりやすい。
 車があり購買力も高い大多数の住民にとっては,利便性が享受できるし,効率化や合理化によって安い買い物も出来る。税収や人材雇用の面でも地域活性化という前向きな変化に見えるだろう。
 しかし,車を運転できない人,遠い距離を移動するのが辛い高齢者などの人々にとって,郊外ショッピングセンターは,便利でも何でもない。あるいは何かしらの事情でショッピングセンターが撤退したら…。そういうことに関する想像力が初期のショッピングセンター戦略にはまるでないのだ。(ちなみに,2006年に「都市計画法」「中心市街地活性化法」が改正されて,出店の規制が強化された。まちづくりを重視した出店が必要になってきたのである。これ,テレビの請け売りね。)
 教育の分野でも,こうした「住みにくい日本」が広がっていくことになりかねない,という危機なのだ。そのことに関しては,たぶん誰も異論無いだろう。とにかく大問題であることに関しては,私だって同意する。
 ところが,困ったことに私たちは「住みやすさ」のようなものに対する理解がどんどん衰えている。ある論者は,世代間戦争といった物騒な言い回しも含めて,特定の世代の富裕層によって他の世代が騙され続けているのだと分析したりする。若い世代には教育程度を低めることで騙し,高齢世代には老化をいいことに騙し…。
 もしもこの消費社会日本で快適に過ごすことが「住みよい」ことならば(というかそれ以外の選択肢を選ぶことはとても難しいのだが…という風に思いこむことさえ私の頭が悪いせいかもしれない),私たちは(きっと誰かがしてしまった)妥協の選択を引き受けなければならないところに来ている。「あんた達みたいな階層や世代が悪いのだ」と特定の相手を批難することは出来なくはないが,そんな議論の効果は糠に釘。
 これは因果応報なのだと思う。私たちはその選択をしてきたし,それを許容してきたのである。だから私は自分の勉強不足を悔やむし,自分の教員や研究者としての力量のなさを反省する。その上で,未熟さを乗り越える取り組みを続け,何か変えられる機会が得られるように虎視眈々と準備を続けるしかない。
 私がこうした問題を生真面目に書きたくないのは,気持ちがどんどん暗くなるのは当然として,情けなくなってくるからである。これは人の問題なのだ。人の問題だからこそ,どうしてこんな事態を招いたのかという情けなさを感じる。
 この情けない感情は,人のやる気を削いでしまう。だから私は,茶化して誤魔化すか,人に多くを期待しないことで中和するかを選びがちなのである。ショウは終わらない。だったら,自分のやる気を失って立ち止まるわけにはいかない。所詮は駄文である。飲み屋調子で綴って,次への鋭気を養おう。不謹慎とはいえ,そういうことである。
 日本には,教育だけでなく,たくさんの問題が渦巻いている。それらはほとんど全部つながっているのだが,それぞれへの取り組みの哲学がバラバラで,何やってもまともな効果が出ないでいる。要するに,この国で生まれると,人生の中で様々なジレンマを抱えて生活することを余儀なくされる。そして死のうにも死ねず,苦しい老年を過ごさなければならないかも知れないのだ。
 中学生や老人が社会制度としての殺し合いゲームをするという設定の小説がある。まさかそんな法律が可決されるわけはない,あくまでも架空の物語と笑っていられる時代ではなくなった。様々な悪法が成立し,教育基本法までもが改正されたのだ。そんな世の中では,新・教育基本法の理念にそぐわない教育者や研究者から資格を剥奪することは簡単である。必要ならば,あらぬ罪(「電車内で痴漢をした!」)をかぶせて社会的な信用を奪うことさえ出来る。
 こんな暗い想像さえ膨らんでしまうのは,健全ではない。確かに暗いニュースばかりではあるけれども,だからといってスポーツニュースに逃げ込むのではなくて,嫌味や皮肉も躊躇しないで問題について知ることである。そこから始めるしかない。

基本法改正をめぐる態度について」への2件のフィードバック

  1. たなぽん

    拝読しています。
    「逃げずに問題について知る」 大切なことだと思います。

  2. りん

    コメントありがとうございます。
    右往左往したような駄文ですが,今後もこっそりお楽しみください。
    先輩かな?なんとか元気です。

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