投稿者「rin」のアーカイブ

オープンキャンパスと人生と

 今日の,日曜日に職場でオープンキャンパスを催した。この一週間は,そのための準備というか,用意というかで費やされた。日頃の活動の積み重ねが数字として出てくる。いやはや,たくさん来校した。頑張りすぎじゃないかと思うくらい。手前みそながら,全国の短期大学における志願者数(自己申告にもとずく)ランキングでベスト20に入ったのは伊達ではないのかも知れない。
 けれども,私自身の,この落ち着きない日々はどうしたことか。せっかくの夏休みだというのに,勉強に費やす暇がない。というか,そのための余力が手元に残らない。なんだか全体的にお疲れモード。
 そこで,ちょっと人生について考えてみたりもしたのだ。このまま職場に居続けたとして,私自身はどうしたいと考えているのか,私の周りはどう変化していくのか。いまの自分には,普段考えている以外に,どんな蓄積があり,どんな能力が備わっているのか。そういうことを考え始めてみたところなのである。
 私は,21世紀に入るところで,いまの職にこだわらないで前進したいと抱負を述べていた。そして,そのことを意気込みとしてだけではなく,本当の実行に移す時期なのではないかと感じ始めてきた。
 「何かを成し遂げようとするには,必要なことはすべて進んで実行する自発的な態度が必要である」。これは私が好きな書の一冊であるマイクハーナッキー『成功の扉』の言葉だ。守りに入ったら何かを成し遂げるのは難しい。自分自身にもう一度,違った賭けをしてみようかと思うのである。

義務教育改革案

 ネタ探しの一環として,久しぶりに文部科学省サイトを覗いたら,河村大臣の名前で出された「義務教育の改革案」が掲載されていた。意見を募集中だという。大臣名の案とはいえ,もちろんこれは省全体としての方向性を表している。
 1. 義務教育制度の弾力化
 2. 教員養成の大幅改革
 3. 学校・教育委員会の改革
 4. 国による義務教育保障機能の明確化
 以上,大きく4つ,それぞれについて改革案項目を挙げている。説明によれば,先進各国において「国が教育の目標を設定してその水準の確保に責任を負い、その達成のため、国が必要な教育投資を惜しまず行う一方で、教育の実施はできる限り地方・学校の創意工夫を生かすようにしている」ことに倣い,その考え方のもとでこの改革案を提示するのだという。
 当然,これらを逆から,もしくは裏側から読み取る必要もあるだろう。文科省としては,実質的なコントロール力を確保しておきたいのが基本であるから,地方や学校の裁量を認めつつも如何に手綱を握りしめておくかという点がポイントになる。教員養成の改革は,その一つと考えられるだろうし,ここに書かれていない事柄も大いに関係してくる。たとえば教科書検定については何も触れていないが,それが大きく影響することはご存知の通りである。学習指導要領が実際的に最低基準となるからには,教科書の在り方はますます問題になる。
 また義務教育の国庫負担金問題や教職員定数問題は,言わずと知れた大問題だ,注視しなければならない。

放電終了

 お盆休みのおかげで,家の中に缶詰する時間を過ごせている。もちろん近所に買い物に出かけたりするが,ほとんど家の中で掃除と資料整理に明け暮れている。不精ヒゲもだいぶ伸びた。
 放電期間もそろそろ終了。次の仕事のための充電を本格的に取りかからなくてはならない。毎日暑くて,クーラー使わない派の私としては,大変過ごし難くて困るのだけれども,そうも言ってられないからせめて除湿だけでもかけてしのがなくてはならない。
 なんだか結果的には,昨日今日とあっという間に過ぎ去ってしまった。そうそう,「マツケンサンバII」のCDを手に入れたという成果は残っているな。マイブーム中。

月面着陸問題

 本屋に出かけたら,副島隆彦『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店2004/1600円+税)が目に入った。昨年,テレビで話題となった問題である。昨年末の特番を途中から見た記憶もあるので,興味を持っていた。それに著者である副島氏の英語関係の本は,勉強させてもらった経験もあるので,どれどれといった感じで手に取ったのである。
 米国宇宙開発「アポロ計画」の一つとして世界中の人々が記憶にとどめる35年前のアポロ11号月面着陸。その科学史と人類史に残る偉業とされる出来事は,大嘘であったという論がある。それは当時から疑われていたらしい。ここにきてテレビ番組として扱われたことによって,その疑念が広がり始めたという。この本は,それらを踏まえて,著者の示す4つの論点において議論を挑もうとする書である。そのほか,当時の記録や映像について徹底的に疑念を表明し,人類は月面着陸していない証拠を提示していく。

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環境整備

 仕事に取りかかるためには環境整備と資料整理が欠かせない。というわけで,お盆休み週間に入って取りかかるのは「そうじ」。ありがちなパターンだが,独り暮らしゆえ仕方ない。
 狭い家の中,仕事で使うものと,生活で使うものが混在している。それをより分けるのはなかなか難しい。その上,昔懐かしいものが出てくると,思わず手が止まってしまうから,この手の作業は時間がかかるものなのだ。
 おかげで少し家の中も見通しが良くなったか。ものが多いのは相変わらず。一部は,職場に持って行くしかないな。

夢の後味

 今朝見た夢は,あまりいいものではなかった。旧友たちが登場したり,あるいは現在の職場の人たちが出てくる夢など,知人が集団で出てきて一緒に過ごしている夢は幾度か見る。ただ,あまり幸せなシチュエーションになった記憶がない。今朝のは,高校時代の友人と偶然電車内で出会うのだが,彼の名前を呼んでも彼は反応するどころか,明らかに自分を避けていたのである。それも,出会ったことをとても都合悪そうに思っている顔して,二三言葉を投げて,そのまま無視して携帯電話で話をしている。それも途中から聞かれてまずいと思ったのか,中国語を話し始めるのだ。
 それ以外にも旧友たちが登場するが,なぜだか余所余所しい。こちらは「元気ぃ!ひさしぶりぃ!」とハグハグするのを期待していても,そうはならないから不思議である。それからむなしく目が覚めて,朝一番で落ち込んでみたりする。自分の夢なのに自由にならないのももどかしいが,なにか精神的ストレスでもたまっているのだろうかと不安になってしまう。夢の中くらいは幸せでいたいものだ。
 そのあと,まったく関係ないことを思い出して,インターネット検束して時間を費やしていた。気が済んだところで,授業準備をするために部屋の文献資料の整理に取りかかる。いまのうちに蔵書目録を作り始めた方がいいかも知れないとぼんやり思う。
 実家に日本教育学会・第63回大会のプログラムが届いていた。今年は北海学園大学(北海道札幌市)で8月26日から27日に行なわれる。プログラムによると大会史上初めて北海道の私立大学で行なわれるとのこと。実行委員会の皆さんも気合いが入っているらしい。国際公開シンポジウム「21世紀における教育改革の展望と新しい教育的価値」とか,いろいろな領域の課題は興味深い。昨年は早稲田であったというのに行けなかった。今年も難しいかな。
 お盆の時期といえば,各省庁から予算関連のニュースが飛び込んでくる頃でもある。もうちょっと元気出して,フォローアップしよう。

お盆閉館

 昨日から職場もお盆の完全閉館となった。こういうのは珍しいらしいが,田舎の短大ゆえ長年そういう習慣になっている。おかげでこの期間が唯一自分のために使える夏の束の間であり,授業準備やら,自分の研究・勉強やらに専念できる。といっても今年は宿題が多すぎて,それどころでもなくなりつつあるけれど‥‥。

今日のいろいろ

 球技大会やサマーセミナーといった行事も一段落したが,同時並行している仕事はたくさんあって,成績漬けもその一つだ。出欠記録や提出課題を整理しなければならない。真夜中の職場に残って独り寂しくやっている。
 今日は備品のデジカメ修理をするためにメーカーのサービスステーションに寄り道をしてから出勤。以前にも個人で利用したことがあったので,勝手知ったる‥‥という感じだ。最近ではメーカーと運送業者の提携が進んでいて,修理品の回収や返送なども含めて短期間に修理を完了するサービスが当たり前のようになっている。けれども,どの程度の修理代が必要なのか見積もりたいときには,せっかくのサービスでもなかなか難しいものがある。そういうときには持ち込みできるサービス拠点が近くだと便利だ,
 結局,たいした故障でもなく,部品代より技術料が高いという修理結果となった。まあ,とにかく立て替えをして備品修理もできたのだから,よかったよかった。
 それから職場に到着したら,駐車場のところで卒業生に会った。数週間前も校舎の中で再会したのだが,母校の図書館に来て,いろいろ調べものや職場での準備をしているとのこと。しばし立ち話に花を咲かせた。教え子がこうして活躍していることが,僕にとってはとても嬉しいことだ。

担任馬鹿

ultra-e
 指導担当としてクラスを受け持っている。短大にクラスなんてものがあることに,驚かれる方もいるかも知れないが,それほど珍しいというわけでもないと思う。とにかく一クラスを受け持っている。通称は「クラス担任」となっているが,もちろん高校までのそれとは大いに異なり,受け持ち授業がないと顔を合わす機会はなかなか無い。会うのは,何か書類の提出をさせるときやハンコを押すときくらいだろうか。担当しているクラスは(説明は省くが)第三部に属するため,3年間担当するのだが,それゆえなかなか会えないのだ。
 それでも私は教え子には恵まれているようで,学生自治活動に積極的に取り組む学生も多く,疎遠になりがちな担任だというのに,親しく接してくれる。まあ,枯れ木のような存在でも担任は担任なのか。
 昨日,球技大会があった。1年生から3年生まで(全員ではないが)揃って,ドッジボール大会をしたのである。担当クラスは3年生。上の学年ほど参加者数が少ないが,少ないながらもクラス一致団結して試合に臨む。
 実は,この日のためにクラスの学生たちが手作りのTシャツを用意していた。うちのクラスだけのお揃いのオリジナルTシャツだ。しかも嬉しいことに担任の分もつくってある。というわけで,私もそれを着て,ドッジボールの試合に参加。だって人数少ないからね。
 いやはや,久しぶりに派手な運動をしたので身体のあちこちに筋肉痛。しかし,それよりなにより担当クラスの学生たちと楽しい時間を過ごせたことが嬉しい。クラスの学生に限らず,普段はやんちゃで人を振り回す憎たらしい娘たちだが,基本的にはいい子たちばかりなので,その点で私は幸せなのだと思う。

研究法の文献

 先日の仕事に絡んで,研究法に関する資料を家の中で集めていた。自分の手持ちは十分でないのかも知れないが,とにかく山積みにしてみたわけだ。ところが,これぞという本がない。というのも,研究法なるものは,専攻する分野ごとに異なるため,学際的な立場で研究方法を鳥瞰する試み自体が少ないからだ。
 たとえば理科系と人文系の研究の在り方を想像してみればいい。それぞれの違いもさることながら,細かい分野や領域毎に異なった研究の実態があることくらいは容易に察しがつく。
 そのため,研究法に関する情報は,専攻領域の研究活動の中で個別的に伝承される傾向が強い。独立した文献としてまとめられている場合もあるだろうし,あるいは専攻研究の中に「研究方法」として埋め込まれているものを個別に吸収していくという場合もある。つまり,まず「研究領域または対象」があり,それに付随して「研究法」があるというわけだ。
 逆に,ある程度ジェネラルな情報提供をしようとすると,論文の書き方という水準の話にとどまらざるを得ない。そこで「論文の構成」に絡めて「研究過程」の話へとつながったにしても,仮説やら分析・考察が云々という表面的な話が出てくるくらいしか言及できないのである。

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