ZAKZAK社会欄(9/22)にて「“学習達成度”診断なのに事前練習させる」の記事。仙台の小学校で民間の標準学力検査(CRTテスト)実施にあたって,1)事前練習させたことや,2)テスト結果を保護者への報告無しにWebページに掲載したことが,取り上げられていた。
1)事前練習をさせた件は,現場に身を置く立場に訪れる脅迫にも似た心理状況がどうしてもそうさせてしまうのかも知れない。一斉学力テスト反対闘争の時代(S36〜頃)にも,そういう出し抜きが地方で多発したことを問題とした部分もあったわけだし,歴史の教訓をもっと周囲の人々が理解してあげないといつまで経っても現場はやりにくい。
2)情報公開が求められている昨今,とはいえ簡単お手軽というわけにはいかないようだ。個人情報保護法が来年から施行されるのもあって,この辺はさらにシビアになるのだが,しかし,そうなればなるほど情報公開を避けたい心性も生まれる。ケース・バイ・ケース,その度毎に情報の公開と保護とのバランスをどうするのか,という問題だが,現場はいちいち議論している余裕がない。その事情を察して,問題発見→即批判・処罰ではなく,問題発見→改善勧告や問題解決支援といった姿勢で関われないものだろうか。
記事の事例は,穏やかに進行したのか,総非難を浴びて学校関係者もぐったりなのか,記事からは読み取ることは出来ない。少なくとも私たちは学校が問題を多く抱えていることを承知しているのだから,うまくネゴシエーションして,共に問題解決に取り組む者になりたい。
投稿者「rin」のアーカイブ
大学広報が注目する番組
かつて「小便少女もいる」というトリビアを皮切りに深夜帯から放送が始まった「トリビアの泉」も,すっかりお馴染みの人気番組に成長している。深夜時代からゴールデンに移った現在に至っても,計算された番組作りと,独自の面白真面目なセンスが堅持されている点で,この番組の評価は高い。あとは外部要因によって視聴率が低迷する時期が来るまで,根気強く続いて欲しい。
ところで,その番組カラーが堅持されているとは書いたが,「トリビアの泉」における外部とのタイアップネタが増え,この番組の持つ「PR機能」が強調されすぎていることに違和感を持つ視聴者もいるかも知れない。もっともそれもこの番組の当初からの目論見であったわけだし,NHKのプロジェクトXの暴走は問題外としても,民放番組としてはそれこそが収益増進手段である以上,仕方ない。視聴者としてはメタ的な視点から楽しんでしまうしかない。
むしろ最近,この番組のPR機能に注目しているのは,大学広報関係である。なにしろ「確認のVTR」に登場する大学の先生や専門家は,大学の顔として茶の間の前に登場するのである。そして大学の名前が紹介され,専門研究がPRされ,番組の演出に協力することでユーモアと親しみのあるスタッフを有しているとイメージづけられるのであるから,大学広報的には有り難いことこの上ない。
ご存知のように国立大学も今年から独立法人化し,私立大学などと同じ土俵でPR合戦をする時代となった。そこで,旧国立大学としての権威性によって,こうした番組からのオファーを勝ち取れば,CMを制作するよりも効果抜群かも知れない。もちろん,もとをたどれば,トリビアというニッチな知識や研究を支えることの出来る幅広く奥深い研究支援環境を確保維持していくという,高等教育機関としての基本を押さえていることが大事なのは明らかである。
番組制作者側も,その辺については先刻承知のようで,過去のトリビアと同じようなコメントが必要な場合でも様々な大学の様々な先生や専門家に振り分けている点,長らく見ていて感心してしまう。
とはいえ,トリビアごときを確認するために大学が存在しているとか,その程度としか見られないように,大学教育や研究もどんどん前進しなければならないよなぁと思う今日この頃。
天動説支持は理科嫌いのせい?
ニュースで「小学生の4割が天動説」などと取り上げられているのは,今日から岩手大学にて行なわれている日本天文学会の年会で,研究発表される内容がもとになっている。プログラムの中の「天文教育・その他」セクションの1番手がそのグループの発表である。次には「小学生の7割は月の満ち欠けの理由を知らない」という同じモチーフの発表もあり,なかなか興味深い。
細かい検討は出来ないが,この2つの発表要旨から見えるのは,学習指導要領を上方に据えた教育内容のヒエラルキーを前提にした問題意識と,発展学習プログラムによる現実的な教育実践の必要性を前提とした問題意識の違いだ。もちろんどちらもあり得べき態度である。どちらも国立天文台の縣氏がメンバーなので,あえて異なるアプローチで書いているのだと思われるから,詳細は発表を聞いてみないとわからない。
「理科嫌い」への懸念は,あちこちで聞こえるので,そろそろ言葉自体が腐らないように使う側も慎重でなければならないと思う。ただ,思うに天文知識を発揮する場面が,日常生活にほとんどないことの方が,この問題の核心にあるのではないか。あるいは,学校で学んだ知識を隅や忘却のかなたに追いやるような,めまぐるしい消費生活が原因かも知れない。
集中講義を終えて
「カリキュラムデザイン」という授業が終了した。4日間の集中講義で,朝から夕方までを過ごした。終わってみればあっという間だし,振り返ってみれば大した内容を盛り込めていなかったのかも知れないと思う。
それでも学生にとっては新知識が短期間のうちに流れ込んでくる,めまぐるしい4日間だったようで,カリキュラムデザインがなんなのかをまとめることについて不安が残っている者も多かった。そりゃそうだ。私の講義実践が及第点だったとしても,受講生が専門家へ華麗なる変身を遂げるには,4日間はあまりに短い。半期の授業だって,難しいというのに。
講義をやり終え,少し気心の知れかけた学生たちと別れてから,教務課に終了の挨拶をする。そしてここからは独り反省会。学生たちのコメントを読んで一喜一憂する。ある程度割り引いて考えながら,とりあえず自分を労ってみるのだ。
最終日は昼食抜きで学生たちと過ごしていたので,帰路で食事をとる。帰宅してからしばらくして,案の定,眠りに落ちてしまった。目覚めたとき,あたりは真っ暗。映画『ボーリング・フォー・コロンパイン』のテレビ放送を見て,ニュースを見て,これを書いている。明日は本務校で朝から面会やら会議やらの連続。その用件の多さに不満があるわけではない。心落ち着かないことが,悩ましい。満たされる気持ちを何から得るべきか,きっと自分自身で見失っているのだろう。
集中講義は,体力勝負であると思う。同時に,知的精神力の挑戦でもある。若い世代の学生たちと限られた時間で関係づくりをし,知的に切り結ばなければならない。それはそう簡単な事じゃないことを,次第に広がる年齢格差が自覚させてくれる。それでも,互いに苦労を乗り越えた4日間は,わりと充実感をもたらす。一期一会,そういう言葉が素直に当てはまる,それが私の集中講義だ。
集中講義中
月曜日から明日まで,集中講義を担当している。朝から夕方まで,しゃべりっぱなし(?)の6時間。帰ってくると,パソコンの画面を見ながらウトウトしてしまう。身体はとっても疲れているみたいだ。講義しているのは「カリキュラムデザイン」。教職課程の授業なので,内容のバランスが難しいものの,理屈っぽい授業になんとか付いてきてくれているようだ。明日が最後。果たしてうまく決着つけることが出来るのか,いまからもう一度悩まなくては。
第2土曜日と911
本編で触れたが,10年前の第2土曜日に「信大YOU遊サタデー」という活動が始まった。準備の段階を入れれば,すでに6月には実行委員会が結成されていたので,それを記念日としてもいいが,私の中では「第2土曜日」に意味がある。
そして時差の違いがあるけれども,9月11日という日付は,「アメリカ同時多発テロ事件」発生日としていまだ記憶に新しい。正直なところ,この日付を聞くたび,ちょっとした抵抗感が生まれる。事件にかかわった人々にしてみれば,大変な感情が発生するのだろう。
事件からは3年。私がNYを訪れてから2年。いろいろな思いを抱いてきた日々だったが,状況は芳しい方向に動いているかと問えば,素直に「はい」とは言えない。相変わらず悩んだふりはしているけれど,自分自身何も取り組めなかったではないかと空しくなる。そんなことさえも日常的に成り果てている。
そう思うなら,自分の気持ちに正直に動いてみればいい。そう思った。なんか,ポカンとそう思える瞬間もやってきた。実のところ,こうやってブログに駄文を書くことでは追いつかない現実が展開しているので,書いたところであんまり意味ないが,まあ,痕跡として。とにかくめまぐるしい日々だ。
講義!講義!講義!
この夏は,たくさんの事柄が縦横無尽に私を取り巻いて,悩ましい夏となっている。ここ数週間は特に深刻な感情を私にもたらして,本気で転職の準備を始めたのであった。生来の成り行き任せな性格ゆえ,いこかもどろか迷い続けているが,とりあえず私の気持ちに急ブレーキをかけたのは,非常勤講師先での補講授業だったのだ。
要するに,私は授業のない夏休みに加えて,研究も落ち着いて出来ない校務の繁忙さに,すっかり気が滅入っていたのである。久しぶりに教壇に立つ時間が訪れて,やはりこの職業が性に合っているのかも知れないな,と感じられたわけだ。教壇に立つことに喜びを感じるなんて,仕様のない奴だと思われるかも知れないが,私にしてみれば職業的整合性のもとで尽力できる安心感があったのだと思う。
来週は集中講義。4日間連続で「カリキュラムデザイン」の講義なのだから,水を得た魚のごとく,自分なりの授業づくりを展開したいと思う。うまくいかないと,これはこれで落ち込んでしまうけれど‥‥。
金こそすべて
これを書く時点で15個の金メダルを獲得した日本のオリンピック選手団。めでたいムードが漂っている様だが,違った方面に目を向けてみれば,そこで進行している事柄に気が滅入ることだろう。
このところ,哲学や思想,社会学といった社会科学分野では,「自由」という鍵語が注目を集めて盛んに議論されていることはご承知のことと思う。おうおうにして鍵語とは,それが危ぶまれたり失われたりすることで話題にされるものでもあり,そういう意味で私たちの社会は「自由」を失いつつあるのではないか,「自由」が危ぶまれているのではないかと推察される。
回りくどい言い方をやめて,現実を見れば,私たちが深刻な状況に投げ込まれていることは一目瞭然だ。所得による生活の余裕度格差は広がる一方だし,私たちの生活リズムはせわしなくて落ち着かない。めくるめく新商品の登場ゆえに購入できるモノの選択肢が極端に減っていることや,グローバル展開する日本企業の日本市場における消費者を馬鹿にした扱いは目に余るものがある。
スランプ期
相変わらず書店に寄る。いろいろ見ていたら,細木数子の占い本が目に入った。いろんな種類があったが,一番売れていてギネス記録もされているという文庫サイズのシリーズを手にしてみた。
細木氏の六占星術によれば,私は今年から「大殺界」。つまり今年を入れて3年間くらいは運が下降し,あまり調子のよろしくない時期が到来するという。この期間は,とにかく運気が下降するので何かやろうとしてもダメらしい。おとなしくじっと耐えることが大事だという。
この頃の憂鬱な気分と反動としての思いつきは,この大殺界なる時期にも関係があるのかなと,立ち読みしながら妙に納得してしまった。ただ,これから3年間もスランプが続くと思うと憂鬱だし,それを理由に「不調です」というのも恥ずかしい。
肩の力を抜いて,冷静になってみよう。静かに物事をすすめていけば,それはそれなりにうまくいくはずだ。時間をかけてゆっくり進めば,全体としては低運気だとしても,何とかなると思う。それにしても恐るべし,細木数子‥‥。
そうだ ヨーロッパ、行こう
よろめいた気持ちを慰めるには,書店で粘るのが一番。教育関係の棚をさらっと済ませて,語学の棚へと向かった。思うに第二外国語としていくつかの言語に手を出したことがあったが,何かにエネルギーをとられて十分取り組めたとは言い難かった。せっかくだからもう一度勉強したいし,これを機会にいろいろな言語に触れてみたいと思ったわけだ。
それで,前から気にしていたフランス語はどうだろうと思って,一冊入門書を購入。そうしたら,いろいろ想像はふくらむもので,来年あたりにヨーロッパを旅してみてはどうかという気持ちが出てきた。「そうだ ヨーロッパ、行こう」
昔ほどに海外へ出かけるのは安心できる世の中ではないけれど,ならばますますいまのうちに出かけておきたいと思う。教育にしても哲学にしても,その歴史を考えるとヨーロッパを避けて通ることができない。そのヨーロッパに生きているうちに足を踏み入れなければ。
そうと決まれば,目標に向かって,まずは語学。ちょっと楽しみになってきた。