これを書く時点で15個の金メダルを獲得した日本のオリンピック選手団。めでたいムードが漂っている様だが,違った方面に目を向けてみれば,そこで進行している事柄に気が滅入ることだろう。
このところ,哲学や思想,社会学といった社会科学分野では,「自由」という鍵語が注目を集めて盛んに議論されていることはご承知のことと思う。おうおうにして鍵語とは,それが危ぶまれたり失われたりすることで話題にされるものでもあり,そういう意味で私たちの社会は「自由」を失いつつあるのではないか,「自由」が危ぶまれているのではないかと推察される。
回りくどい言い方をやめて,現実を見れば,私たちが深刻な状況に投げ込まれていることは一目瞭然だ。所得による生活の余裕度格差は広がる一方だし,私たちの生活リズムはせわしなくて落ち着かない。めくるめく新商品の登場ゆえに購入できるモノの選択肢が極端に減っていることや,グローバル展開する日本企業の日本市場における消費者を馬鹿にした扱いは目に余るものがある。
教育の現場はどうだろう。マスコミが流布した教育世論によって教育改革と現場は振り回され,教師にとっても子どもたちにとっても学校は不自由な場所になってきたと見えないだろうか。たくさんの要望がひしめき合って身動きとれないかの様に。
旅行はどうだろう。思い出の天然温泉が水道水だったなんてこと,私たちは聞かされて幻滅しなければならなくなった。海外旅行も昔に比べれば遥かに覚悟を必要とする。いま世界は何が起こってもおかしくない。
テレビ報道は,物事の真実をどれだけ伝えているだろう。社会保険庁がグリーンピアで莫大な損失をし,野球観戦やミュージカル劇などのレクリエーションに浪費しているとワイドショー的なニュースは報道するけれども,戦争の問題や原発事故の真相について徹底して追求する姿勢はない。アメリカのマスコミの酷さに比べればかわいいのかも知れないが,あまりに頼りなさ過ぎ。つまり私たちの「自由」の代弁者どころか,私たちを「不自由」にする手先になっている。
著作権問題にしてもそうだ。結局は業界の利益が優先される結果となっている。なにしろ消費者の代表として協議の場に者が居ないのだから,そりゃ蔑ろにされるに決まっている。こういう方面についての努力を他人事の様に見ていたら,情報教育への取り組みも早晩底が抜けてしまいかねない。
そして義務教育費国庫負担金(約2兆5000億円)のうち,中学校教員の給与部分(約8500億円)が縮減され,地方自治体が(住民から徴収なりして)負担することに全国知事会が賛成した。国と地方との文部施策に関するパワーバランスが背景にあるため,誰かが「不自由」さを味わうわけだが,教員の給与や雇用に影響を与える問題である以上,現場にとっては「不自由」さが強まるのは確かだ。
教育の動向を追いかけていると,否応なくこうした諸々のことが見えてくる。これらをカッコに入れて,自分の研究に邁進するのが「研究者」稼業であることは理解している。ただ,私自身,この世の中でどう生きていくことが「クォリティ・オブ・ライフ・インプルーブメント」に繋がるのか見えないのだ。それが見えないにもかかわらず,私は教育の目指すべき方向性を考える材料を手にしているといえるのか。
オリンピックの感動は,巨大な利権の上に成り立っている。私たちはその部分についてはあえて目をつむり,せいぜい「開会式当日までに会場工事は終わるのでしょうか,間に合うのでしょうか」という,どうでもいいことに気を払う。それが私たちの社会なのだとやり過ごすのもいいだろう。世の中の問題は,何もオリンピックが全てではない。しかし,そんな風にして少しずつ「不自由」が隙間を埋めていく。
こういう現実を次代の子どもたちにどう提示すればいいのか,正直なところ困っている。