投稿者「rin」のアーカイブ

防災対策少しずつ

 「阪神淡路大震災から10年」とあちこちで唱えられる。当時,私は大学生だった。翌朝,友人達が取っている新聞を寮の玄関で眺めたことを覚えている。大変なことになったなと思った。
 さて,東南海地震がいつかやってくるぞと警告を受け続ける愛知県民の私にとって,このところの災害ニュースの数々は,いよいよ対策をしなければならないという危機感を抱かせる。昨年の地震のときには,とりあえず周りにある着替えやラジオなどを詰め込んだ即席簡易非常袋を準備して,いまでも玄関に置いている。先日は,本棚と天井の間に挟み込む突っ張り棒を購入し,転倒防止するようにした。研究者は「本の下で死ねたら本望」と言うのは格好いいが,ホントに死ぬのは冗談じゃないので,少なくとも時間稼ぎのためにも付けた。
 この機会に,少しずつ防災対策をしようと思う。

成人の日

 新春気分もすっかり抜けてきて、今年の事柄がいろいろ始まっている。北海道では日教組の教研集会が行なわれて終わったし、センター試験に向けた受験生や関係者の準備も進んでいる(そういえば私もその手の仕事がある)。そして学生たちは、成人の仲間入りを象徴する「成人式」に参加するため、朝も早くから美容院へと出かけていたことだろう。
 統計局の「統計トピックスNo.10」によれば、新成人となる昭和59年生まれの人口推計は150万人。一緒に掲載されているグラフからもわかるように、今後は年々減少傾向にあるとのこと。これに関して、若い世代の人口だけでなく日本全体の人口が減っていくことが経済を縮小させ、世界における日本の競争力を懸念する論がある。また一方で、少子化結構、日本経済は別に人口に関係なくそこそこに適応していく、という考えもある。ああ、いろんな要素をごちゃ混ぜました、すみません。
 まぁとにかく、新成人の皆さん、おめでとう。 何が「おめでとう」なのか、実のところよくわからないが‥‥。

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『ケータイ・リテラシー』

 情報メディア教育の分野で論議の主役に躍り出ようとしているのは、「ケータイ」こと携帯電話だ。一般の人々から見れば、何をいまさら感があるケータイだが、教育の分野における議論は驚くほど浸透していない。そして困ったことは、議論参加者もしくは対象者間における認識の格差が大きい、そういう話題であることだ。たとえば皆さんは「e-learning」というならば「ああ、聞いたことはある」という程度に認知してきていると思うが、先進的な取り組みを志す先達者たちの間では「m-learning」の可能性が模索されている。これはケータイなどのモバイル端末を教育利用で活用してしまおうという実践なのだが、まだ一般的に認知されているとはいい難い。
 それにしても、実際の教育現場でケータイはとても厄介な存在である。メディアとしての可能性を見いだす立場からは、その道具性ゆえに使い方や接し方について「教育をしっかりすべき」であると論じられるものの、もたらされうる現実について詳細に検討することは少なかった。下田博次氏は『ケータイ・リテラシー』(NTT出版2004/1600円+税)で、たくさんの資料を駆使してケータイのもたらす現実を記述している。ケータイ周辺の問題点を明らかにしようとするとともに、現実的な解決策を模索している。
 下田氏の本においても、結論的には、ケータイなどを代表とするIT技術が活かされた社会の中で、どのように子どもたちが生き、また私たち大人が関わっていくべきなのか、具体的に取り組むべきことは何か、を示している点で議論の大まかな方向性がこれまでのものと異なるわけではない。しかし、下田氏の論は、単にケータイというメディアの特性だけでなく、若者たちの文化や心理の領域を丁寧にたどろうというところに特徴があり、それをもって私たち大人が取り組むべきものを考えようとしている。たとえば子どもたちが大きな関心を抱く「性」文化の問題も扱っているが、こういう議論はすべての論者ができているわけではない。
 それにしても私たち(一般読者)は、ケータイにまつわる言説について、光と陰を語られ、子どもや社会への接し方を考え直した上で、実践することを求められている。それはたとえば利用料金を薄く広く徴収して莫大な利益を上げるビジネスに対して、いちいち抗するといったことも含まれていると思う。小さな実践を積み重ねるという忍耐強さもまた鍛えなくてはならない世の中になってきた。それも子どもたちではなくて、日々の事柄に巻き込まれて慌ただしい大人たちが、である。

語りつづける

 昨年からゼミの学生達とともにインターネットラジオ番組への挑戦を試みていた。ひとつの表現形態としてのラジオ番組を経験してもらおうという目論見であったが,私の多忙が災いしてペースを作り出せなかった。この辺はゼミの運営方法について私自身がもっと熟達しなければならないことだ。
 この数日,収録してありながら半年以上も寝かせていた音源を編集する作業に明け暮れた。インターネット上でなんとか公開。これで気になっていた事柄が少し減った。一人一人が保育所実習で経験したことを語った「実習報告トーク」は,独りしゃべりということもあって,それぞれの個性というか,色が出ていて興味深い。
 「語る」ということは,想像以上に難しい。「しゃべり」は出来ても「語り」になるには,それなりの要素が必要な気もする。おそらく他者性との関係から考えることが出来そうなのだが,それについてはもう少し落ち着いてから考えてみよう。なにしろ,気になっている事柄があれこれ積み上がっているので,思考に腰が入らない‥‥。

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Back to Basic

 新しい年が始まった。私は元旦からトラブルに巻き込まれて,穏やかさを味わう暇もなく慌ただしい2005年を過ごし始めている。いや,本当に死ぬかと思った出来事だった。今年一年は,堅実に歩まなければ‥‥。
 そんな元旦を過ごして,今年をどんな年にしようかと思案していたが,やはり「基本に戻る」ということにした。思うに,職場の事務仕事を優先させたここ数年の間は,教育・研究方面について充実させることが出来なかった。むしろ貯金を使うが如く,元金を減らしてきたことは明らかだった。基本的な勉学に力を入れて取り組むべきであると痛感する。
 それから,生活改善をするということも引き続き大きな課題だ。身体的にも精神的にも健全であることは大事だと思う(もちろん,何が健全かは人によって異なるとはいえ‥‥)。たとえば,広島県尾道市・土堂小学校校長の陰山英男氏は,「睡眠不足と学力低下の関係性」について注目しているが,これも生活実態の如何が知的作業に与える影響を指摘した論のひとつだ。物事が積み重ねの上に成り立つのであるとすれば,各段階において見直しの余地があるのも当然で,生活実態に着目する論も必要だし,教育内容や方法について論じる必要性なども等しくあるべきなのだ。
 というわけで,私自身の仕事が知的活動であるとするならば,もうちょっと自分のライフスタイルに配慮すべきだろう。昨年末より,事ある毎に教師問題に触れる理由も,そんな意識があるからだ。ま,この辺は自分の生活のことなので,地道にやっていくほか無い。
 スマトラ島沖地震・津波は,テロや戦争以上の大惨事をもたらした。自然の恐ろしさという基本事項についても私たちは今一度認識すべきだろうし,環境という基盤の異常な変化についても何かしらの哲学と行動を求められている。年明け早々のトラブルを経て,生きられる時間と使えるエネルギーの有限さに改めて気づくとともに,自分が取り組むべき事柄を精選するための努力が必要だと思った。

謹賀新年

 皆様,あけましておめでとうございます。旧年中は,大変お世話になりました。慌ただしい一年ではありましたが,いろいろな経験のできた年でもありました。新しい年は,その経験を踏まえつつ,さらに良い年にできればと思います。
 教育らくがきも,もう少し教育にかかわる/かかわらない様々な思考を展開するという本来の色を取り戻すべく,私自身の精進を続けたいと考えていますので,気楽な気分でお楽しみいただければと思います。
 2005年も教育フォルダ・教育らくがきを,どうぞよろしくお願いします。

年も暮れる

 なんだかんだと大晦日を迎えるところまできてしまった。年賀状も短い追伸を書き終えて、やっと郵便局に渡した。家の中の整理も同時進行。要らないものは実家に放り込んで(ズルをしている気分だけど‥‥)、それでも溢れ返る文献資料の分類や置き場に頭を悩ませる。これらを買わなかったら、もう少し生活に余裕があるのかなぁと思ったら、なんだか悲しくなってきたが、仕方ない。そういう職業選んだんだから。こりゃ嫁のき手がないのは幸いなのかもしれない。こういうので夫婦喧嘩するんだ、きっと。
 それでも、手つかずのところをひっくり返すこともしたので、だいぶ片付いたようにも見える。少なくとも玄関や廊下に出ていた荷物を一掃したおかげで、やっと玄関くらいまで人を招くことができるようになった。その代わり部屋は大変な状態。奥の方へ招いたら、すぐ化けの皮がはがれてしまう。人を泊めることもできないぞ、これでは‥‥。愛知万博が近いから、誰かが訪ねてくる可能性も多くなるし、なんとかしなければ。
 ところで、この教育らくがきのweblog版なのだが、ここも少し考えた方がいいのかもしれない。更新できないのは、慌ただしさもあるから仕方ないが、いまいちしっくりこない。見栄えの方も、もう少しフォントの大きさやレイアウトのバランスを工夫した方が良さそうだ。また来月あたりに作業しよう。

見て見ぬふり‥‥

 「見て見ぬふり」をすることについて,昨今の私たちはあまり良いイメージを持っていない。「問題や悪事を黙って見過ごす」というような風だろうか。見て見ぬふりは,どこか後ろめたさを連れてくるのかも知れない。
 ただ,私たちはこの言葉や態度の持つ上品な側面について,もっと焦点を当てるべきではないかと思う。それは「細かいことは大目に見る」とか,「相手の試行錯誤や七転八倒を余裕を持って受け止め,むしろ大局に心を馳せて場を包む」とか,「知っていることを隠して,知らぬふりをすることで生まれる出来事を楽しむユーモア」といったニュアンスのものだ。
 ところが,私たちは目まぐるしい情報過多社会のなかで,こうした余裕を維持しづらくなっているのではないかと思う。特に,知的好奇心や欲求,情報消費の文脈において,「知ったことを知らずに振る舞う」ことは難しい。たとえば私がこうして駄文を書き続けている(この行為自体も別角度で論じられなければならない問題だが‥‥)中で,バランスを欠いた不適切な内容が続くようになったとき,それを知った人々は,「見て見ぬふり」をすることは出来ないのではないか。
 実は,私立小学校における通知表改ざん問題などの記事を見ていて,こうした「見て見ぬふり」の問題が頭に浮かんだ。もちろんそれが事件自体の本質ではないものの‥‥。

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年賀状準備

 2年連続で年賀状を出しそびれ,皆さんとご無沙汰をしていた。ちょうど職場の入試業務に関わるのと重なっている点にやり切れなさを感じるが,まあ,何をか言わんや。とにかく今回は年賀状を出さなくてはと思い,鋭意準備中なのである。

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2005:教育問題

 職場も本日をもって年内の業務を終える。しばらくは自宅でゆっくりと時間を過ごせそうだ。この時期にやらねばならない事柄は多い。けれども,とにかくプライベートな時間がなかったために自宅の研究環境が酷く混乱中。これを整えることだけに年末年始は費やされそうだ。文献資料の配置などを再構築しなければならない。ああ,今年も年賀状が危うい‥‥,三年連続出しそびれか?!
 2004年の教育時事を振り返るべきところだが,まだ教育新聞の整理も出来ていないし,今年一年は動向追跡をすっかりさぼってしまった感もあるので,おいおい記録していくことにする。それでも2005年に向けて注目が拡大する話題はいくつかあげられるだろう。たとえば先日の学力調査結果に関連して文部科学大臣の「ゆとり教育見直し」なる路線転換発言と称されるものなどだ。(ところで,「ゆとり教育」という言葉は文科省によって正式に使われただの,使われていないなどの議論はもう片が付いたんだろうか。どうしてこうも教育議論や言説は,積み上げ的なやりとりが出来ないのかと思う。)
 それから,昨今の教師問題は,2005年に本格的な議論へ発展しそうな気配である。それは教員養成・教師教育に限らず,免許更新制導入,教員採用定数・給与,教職倫理,ライフサイクル,メンタルヘルスなどの問題にいたるまで,あらゆる問題を含みうる。これらは新しい問題ではなく,長いこと個別にくすぶり続けてきたものばかり。いよいよそれが焦点を結びそうなのである。

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