語りつづける

 昨年からゼミの学生達とともにインターネットラジオ番組への挑戦を試みていた。ひとつの表現形態としてのラジオ番組を経験してもらおうという目論見であったが,私の多忙が災いしてペースを作り出せなかった。この辺はゼミの運営方法について私自身がもっと熟達しなければならないことだ。
 この数日,収録してありながら半年以上も寝かせていた音源を編集する作業に明け暮れた。インターネット上でなんとか公開。これで気になっていた事柄が少し減った。一人一人が保育所実習で経験したことを語った「実習報告トーク」は,独りしゃべりということもあって,それぞれの個性というか,色が出ていて興味深い。
 「語る」ということは,想像以上に難しい。「しゃべり」は出来ても「語り」になるには,それなりの要素が必要な気もする。おそらく他者性との関係から考えることが出来そうなのだが,それについてはもう少し落ち着いてから考えてみよう。なにしろ,気になっている事柄があれこれ積み上がっているので,思考に腰が入らない‥‥。


 教育について「語る」という行為,そのことについて教育らくがきでも随時考えてきた。教育論議が不毛になるのは何故かといったテーマについては,ここ数年で本も出てきていることから一般の人々の間でも気にされ始めているといえる。ただ,教育についての語りはあまりにも幅が広くなりすぎて,それを追うことも大変だが,それらが活かされる場面もなかなか無いのが実情だ。
 たとえば教師へのインタビューをまとめたものとして知られている森口秀志編『教師』(晶文社1999)を始め,別冊宝島系のムックなど,いろいろと存在しているが,これらを踏まえて議論するのは,せいぜい大学/大学院ゼミのレベルにとどまるのだろう,現場から得られたものを現場に返す手だてに乏しいとは,なんとも悲しい話である。
 実は,この『教師』という本の朗読を録音してインターネットに公開してみてはどうかなと密かに考えている。もちろん,計画しているわけでもないし,実際にやるとなるとクリアすべき権利処理は多いだろうから,実現は難しいと思う。けれども,せっかくの書物に注目を集めるには良い方法ではないかと思っている。
 ご存知のように,洋書の世界ではaudible.comというサービスに見られるように,書物の朗読音源の販売がビジネスとして成立している。iPodなどのポータブル・オーディオ・プレーヤーを使えば,これら朗読音源をたとえば通勤中などに楽しむことが出来る。ラジオを楽しむように,書物の朗読を楽しむ。その際に,教育の語りに触れてもらうというのは,是非実現したいことなのである。
 ああそうだ,それなら自分の原稿から実験的に始めてもいいかもしれない。躓いた企画「教育フォルダ・ラジオ」を復活させるチャンスかな。アイデアはいいのに,私に足りないのは時間と一緒に馬鹿みたいな試みを楽しんでくれるパートナーかも知れない。