投稿者「rin」のアーカイブ

資料漁りとセミナー

 前々から参加しようと申し込んでおいたセミナーが土曜日に開催されるので,再び状況することになった。今回は平日移動なので,東京大学の図書室に行って調べ物。到着したのが4時で閉館の5時まで1時間しかないが、あらかじめ狙いは定めて資料をコピーしていた。

 夜はホテルにチェックインしたあとで書店に出かけて目ぼしい文献があるかどうかを眺めて過ごした。それから新しいワイヤレスキーボードを購入した。iPadで文章を入力するときに使うためである。

 宿題がいろいろ溜まっているので頑張らないと…。

誰かいますか

教育情報化の歴史を整理し直す必要を改めて感じたのは、国の事業に関わり始めたから。物事は積み重ねで進むのだから、関わる以上、それまでの流れを理解しておくことが大事であろうと考えたからだった。

最近、朝日新聞が紙面上で教育情報化について大きく連載しているのが一部で話題になっているが、あの程度のことでも一人で調べようするとなかなか大変だったりする。まして、全体像を把握するのは難しい。

さらに、歴史過程の連続性や整合性を検討し始めると、その作業には悲哀のような感情がつきまとい始める。いくつものミッシングリンク。繰り返される挫折。見慣れたいつもの顔ぶれ。取り残された学校現場。いつまでも続く海外への羨望と視察。拡がっていく温度差と格差。

正直なところ、この歴史に対する反省なしには、ビジョンだとか何だとかも虚しく響くだけに思える。教育情報化においては20世紀の総括が終わってないし、だから21世紀の学びは来るはずはないし、多くの人々が19世紀の旧態に依存せざるを得ないことを許しているのだろうと思う。

非力だとは承知の上で、私自身はできる範囲で過去を整理する作業を眈々と進めたいと考えている。もちろん私が直接的に関わったものなど何もないのだから、本当なら私には資格はないが、この転倒具合こそがこの領域の不幸の一つなのだから仕方ない。

だから私は、次の時代を任せられる若い世代の人を見つけたい。誰か真正面から教育情報化に取り組みたい若い人はいますか。私たち上の世代を乗り越えていく人、誰かいますか。

安全なインターネットを子ども達に

 これは良い動きだと思う。日本のテクノロジー関係者も追随してみたらどうだろうか。

Apple, Google & Facebook join coalition to create safe Internet for kids in Europe
http://thenextweb.com/insider/2011/12/01/apple-google-facebook-join-coalition-to-create-safe-internet-for-kids-in-europe/

ヨーロッパに大手テクノロジー企業を含む28企業が集められ、子ども達に安全なインターネット環境を提供するための連合を組んだとのニュースである。

いつまで生きるか

 2011年11月30日は作家マーク・トウェインの生誕176周年だそうで,Googleはいつものように偉大な故人にトップページのイラストを捧げている。

 Googleのイラストをニュースのネタにしているところは多いが、「ゆかしメディア」の記事は興味深い逸話を紹介していた。

 マーク・トウェインは1835年に生まれたそうだが、その年はハレー彗星が巡ってきて観測された年だったそうである。面白いことにトウェイン本人は「自分はハレー彗星とともに地球にやってきたので、ハレー彗星と共に去っていくだろう」と言ったのだとか。

 そしてその言葉通り、次にハレー彗星が観測された1910年に亡くなったという。実際は享年74歳ということになるが、ほぼハレー彗星の周期(76年)というわけだ。

 こんなエピソードを聞いて,あらためて自分の死にゆく時期がいつごろになるのか考えてみたりする。

 途中のアクシデントが無いとして,80歳まで生きるとすると残り40年間。つまり,2051年頃まではこの世に留まる可能性があるということだ。

 2050年前後は,もう気力も体力も失せていることだろうから、迷惑をかけない程度に生活できればと思う。

 2040年くらいは,人生の後片づけと引き継ぎをする覚悟をしないといけないだろうから、まあ,自分の人生と向き合って,ああだこうだ考えることにしよう。

 2030年くらいは,上の世代として下の世代を見守り育てていく必要があるのだろう。自分のことだけ考えてるわけにもいかない。

 2020年くらいは,自分の関心を中心に据えられる最後の時期だろうから,ここで踏ん張って燃焼しないといけないかも知れない。

 2010年は,ああ,闇雲に慌ただしいだけの日々だったな…。

 2050年代には,どんな世の中になっているのか。

 1970年代に生まれた人間にとって,2010年代でさえ摩訶不思議な時代だと思える。それほどではないとしても,2050年もいろいろ変わっているのだろう。

 私たちが目の前にしている小学生の中には,2100年に人生が届くかも知れない子もいるかも知れない。

 想像すら難しい時代を,子どもたちには生きてもらわなければならない。そう思うと,今の時代に生きることがなんとなく心苦しい。
 

ネオ・デジタルネイティブ

『ネオ・デジタルネイティブの誕生』など読み直して、再確認。

76世代 PCデジタルネイティブ
86世代 ケータイ・デジタルネイティブ
96世代 ネオ・デジタルネイティブ

96世代は、モバイルと動画(映像情報処理)がキーワード。

ビジネスに青田刈られて

 TechCrunch Tokyo 2011というイベントをちょこちょこ眺めると、スタートアップのプレゼンなど目に入る。

 テクノロジーやソーシャルサービスなどを活用し問題を解決しようとする営為をビジネスとして具現化していく動きが賑やかだ。

 こうした動きがどの程度の持続性を持つのか分からないけれども,少なくともテクノロジーによる社会貢献を志す者にしてみれば魅力的なパスであることは確かである。

 ただ他にも,テクノロジーで社会貢献するという似たような営為を目標としてきた領域がある。アカデミックな世界だ。

 テクノロジーの基礎的な部分を研究の対象とすることで同じ方向を目指しているのがアカデミアの世界で,応用的な部分を商品としてリリースしていくのがビジネスの世界,という違いはあるだろう。

 けれども,アカデミックな世界にも応用的な部分を扱う領域はあるはずで,そこではビジネスの領域と衝突が起こっているのではないかと思われる。

 何かしらの工学的な営為をアカデミックに扱っているべきか,あるいはビジネスとして扱っていくべきか。

 これは別に新しい問題でも何でもない。昔から産官学の連携とか,研究成果をビジネスとしてどのように活かすかはいろいろ試みが展開してきた。

 けれども,それが上手にできるのはごく一部。基本縦割り社会の日本だと一度それぞれに別れてから連携するのは,いまだにコストがかかる。

 そうなると,テクノロジーを思考する人は端的にビジネスを指向した方が社会貢献への近道へと考えたりするんではないだろうか。

 シリコンバレーに打って出て起業するなんて夢物語と思った時代もあったが、それがもう珍しいものではなく,やる気のある者にとっては現実なのだという時代が訪れた。

 そういう時代に生きる子どもたちを育てているのだと考えれば、私たち自身がもっと考え方も実践も前進させなくてはならないと思わずにはいられない。
 

忙しさは名を変えて…

物事を動かしたり、変えたりすることに力を発揮してくれる人が居る。そういう種類の人は極少数で、しかも、極めて多忙であることが多い。

それだけの実力があるからこそ、様々な仕事が舞込み、連鎖的に忙しさが増すことも確かなのだが、一方で、全体の動きに滞りを来してしまっている現実もある。

日本の教育の情報化の変遷を辿ると、様々な動きを結び付ける役目を負うキーマンが居るには居るのだが、あまりにたくさんの仕事を(それだけ依頼が舞い込むからこそ)引き受けてしまって、現実問題として身動き取れなくなってしまっているケースが昔も今も繰り返されている。

サイバーテロの手段として、コンピューターシステムに負荷をかけてダウンさせるという手口がある。

過剰なデータを相手に送りつけることで、相手がデータを受け取り処理する作業をオバーフローさせると、正常な処理作業を行なえなくなるという寸法だ。

私には、才能のある優秀な研究者やリーダーが、そのような状態に置かれてしまっているように見える。

悩しいことはご本人達にもその状況を脱することが、容易なことではないという現実である。

現代は忙しくするための理由に事欠かない。むしろ、理性的、客観的に考えれば考えるほど、スケジューリングされた枠の中に自らを押し込むように仕事が組み上がるようになっている。そのことを拒否することは難しい。

しかも有能・優秀な人ほど、そう自らを仕向けていくのは、ほとんどの場合、良心から。自分が頑張ることで依頼に応えられたり、物事に貢献できるならと、考えた結果としてだ。その範中において褒められることはあっても責められるべき点は一つもない。

しかし、マクロな視点からすれば、システムは学習の結果(あるいは、安易で怠惰な性行の必然として)、依頼を分散させることなく忙しい人々(それだけ実績があり信頼ある人々)に集中させる癖をつけて、最終的にはシステム全体の効率を低下させる事態を招く。しかし、個々の仕事は処理されているので、その全体像には誰も気づかないで済んでいる。

社会学者ピエール・ブルデューが、場(界)という概念と再生産について論じたことは知られている。あるいは、社会文化資本という言葉の方が通りがよいだろうか。

私にしてみると、教育情報化の繰り返される歴史は、まるで受け継いだ資本をもとに場を再生産しているように見えるし、そのことを了解していても容易には脱せない様はハビトゥスを思わせる。

まさか全員が全員、私たちの分野のスティーブ・ジョブズ氏の登場を待っているとは思わないが、なんだかそういう態勢になっているような気がしてならない。

勝手に共有

 近々,「ICTを活用した先導的な教育の実証研究に関する協議会」という総務省と文部科学省が連携している事業の省庁関係者と協議会構成員による会議が行なわれる。

 構成員の先生方が学校現場を視察するための準備や実施が進められているようだ。実証校では公開授業などが開かれている慌ただしい時期のため,日程調整はなかなか難航したりする。仕方ない面もあるとはいえ、なかなか悩ましい。

 オープンに情報交換できるとよいのだが、フルオープンにすると無用な混乱が発生するということも一理あるので、ぶっちゃけ型の私なんかは少々自制しなければならなかったりする。

 それでも,実証現場と協議会のような場との乖離は明らかだし、それはこちらから情報を送り届けきれていないとにも原因があると思うから、少なくとも私が怒られて済む範囲の情報(ってのがあるわきゃないとも言えるが ^_^;)なら,協議会関係者などに直接お知らせするのも悪くないと思うのである。

 というわけで,私たちにはソーシャルメディアがあるじゃないか,あるじゃないか!てな具合に,私の手持ちの情報を勝手に共有することにした。

 総務省「フューチャースクール推進事業」(FS:Future School)と文部科学省「学びのイノベーション事業」(LI:Learning Innovation)事業に関わって撮りだめている手持ちの写真をSNSで写真共有する。

 普段は公私でFlickrに写真を溜め込んでいるが、これでグループを作ってみたものの,米国Yahoo!のみで展開しているサービスということもあって登録が面倒くさいようだ。それで他のSNS,FacebookとGoogle+を検討してみた。

 Facebookの写真アルバムは,友達リスト機能と組み合わせると特定のグループで写真を共有できる。ただし,見てもらうには互いに「友達」承認しなければならない。
 アルバムは無制限に作成できるが,一つのアルバムは200枚までという制限がある。

 Google+にも写真アルバムがあり、サークル機能と組み合わせることで特定の人々に写真を見せることができる。Facebookと違って,Google+は一方的に相手をサークルに放り込んでしまえば、承認し合う必要もなく見てもらうことができる。
 アルバムは写真と動画を無制限に作成することができる。

 
 まぁ,どっちにしても相手がSNSに登録していなければ意味がないといえるが,とりあえずあれこれ共有の手段を確保して情報提供できればと考えている。

 意外なことに,わりと文部科学相側の協議会構成員はGoogle+に登録している人が居て,総務相側は一人くらい…。まあ,構成員にも是非ICTを利活用していただきたいと願いながら、学校現場近くからの情報発信を展開したいと思う。
 

情報過多と発信減少

 先日,FS&LI事業の公開授業が行なわれたので,担当研究者として出席し講評めいたものを担当した。

 小学校の先生方は準備などで大変な日々を送られていたわけだが,私なんぞは準備もせずに当日の様子を振り返るというだけだった。

 担当している小学校の担当の先生は,この分野のエキスパートといってよい方だから,情報化の何たるかを先生方に説く労力から私自身は解放されている。

 その分だけ,事業そのものへとまなざしを振り向けて,何かできることはないかと動き回っている点が他の実証校や担当研究者と違ってるのかも知れない。

 そうした問題意識から様々な情報や知見を縦横無尽に漁る日々を過ごすようになっているのだが,そうした状況がかなり重荷になってきたように思う。

 願わくは,その成果を吐き出したいと思うのだが,私自身は情報発信をする場合に閉じ篭もる時間が必要で,搾り出すかのごとく文章を書きつづるので,落ち着かない状況で粘る余裕がないとパタリと言葉が出てこなくなってしまう。

 もう少し乱暴・粗雑に書いてよいならば,こんな風な駄文を書くことはできるとしても,この頃は知り得たことを不用意に書くと何かを踏んづけちゃう立場にいることも分かってきたので,それが文字を打つ手を鈍らせてもいる。

 その上,Twitterで時々の衝動をさえずっているのだから,ますますまとまった文章を書くための勢いというものが殺がれているといった案配だ。

 本当のところ,語りたいことや発信したいことは山のようにあって,それを言い表すのに私が文章を紡ぐスピード感ではまったくダメなのであった。

 かといってUSTREAMで独り言として語り始めると,ら旋階段を延々とのぼるがごとく話が続いてしまい,気がつけば6時間といったことになりがちだ。

 誰かと夜を徹しての教育の情報化トークライブでもしないと,ため込んでいる情報も思索も表に出す機会を逸してしまうのではないかと心配になっている。

 ともかく,何かの形で発信をしなければと考えている。

 同時に最近は,ものごとを変えることが難しいということをますます痛感するようになっている。なにしろ文化的なものを変えなければならないことにもつながるため,来年度から変わるなんてスパンでは到底ない。

 いや,それは前々から分かっていたこと。私の世代も含めて上が退場しない限り,変化への抵抗は強まりこそすれ弱まることはないだろう。学習指導要領を殺したり,著作権法にフェアユースの考え方を持ち込むなどのドラスティックな事態が起きない限り,学校教育は最も学び難い場として取り残されるだろう。そんなこともわかっている。

 問題は,そのことを真剣に考える機会や余裕がほとんどの人にないことである。

 気がつけば今年も2ヶ月を切った。世界には取り組まなければならないことが山積みで,自分たちが拠って立つ場所をひっくり返すことに時間を費やそうと考える余地はありそうもない。

 話したい人と話したいことを話すための機会も余裕もない世の中で,どうして物事がうまくいき得るといえるのだろう。

 なんか,そのことがとても私の気持ちを萎えさせていて,向かうべき方向性を考えあぐねる日々を送る原因にもなっている。

 もう少し自腹を切って,あちこち押し掛けてみるしかないかな。