忙しさは名を変えて…

物事を動かしたり、変えたりすることに力を発揮してくれる人が居る。そういう種類の人は極少数で、しかも、極めて多忙であることが多い。

それだけの実力があるからこそ、様々な仕事が舞込み、連鎖的に忙しさが増すことも確かなのだが、一方で、全体の動きに滞りを来してしまっている現実もある。

日本の教育の情報化の変遷を辿ると、様々な動きを結び付ける役目を負うキーマンが居るには居るのだが、あまりにたくさんの仕事を(それだけ依頼が舞い込むからこそ)引き受けてしまって、現実問題として身動き取れなくなってしまっているケースが昔も今も繰り返されている。

サイバーテロの手段として、コンピューターシステムに負荷をかけてダウンさせるという手口がある。

過剰なデータを相手に送りつけることで、相手がデータを受け取り処理する作業をオバーフローさせると、正常な処理作業を行なえなくなるという寸法だ。

私には、才能のある優秀な研究者やリーダーが、そのような状態に置かれてしまっているように見える。

悩しいことはご本人達にもその状況を脱することが、容易なことではないという現実である。

現代は忙しくするための理由に事欠かない。むしろ、理性的、客観的に考えれば考えるほど、スケジューリングされた枠の中に自らを押し込むように仕事が組み上がるようになっている。そのことを拒否することは難しい。

しかも有能・優秀な人ほど、そう自らを仕向けていくのは、ほとんどの場合、良心から。自分が頑張ることで依頼に応えられたり、物事に貢献できるならと、考えた結果としてだ。その範中において褒められることはあっても責められるべき点は一つもない。

しかし、マクロな視点からすれば、システムは学習の結果(あるいは、安易で怠惰な性行の必然として)、依頼を分散させることなく忙しい人々(それだけ実績があり信頼ある人々)に集中させる癖をつけて、最終的にはシステム全体の効率を低下させる事態を招く。しかし、個々の仕事は処理されているので、その全体像には誰も気づかないで済んでいる。

社会学者ピエール・ブルデューが、場(界)という概念と再生産について論じたことは知られている。あるいは、社会文化資本という言葉の方が通りがよいだろうか。

私にしてみると、教育情報化の繰り返される歴史は、まるで受け継いだ資本をもとに場を再生産しているように見えるし、そのことを了解していても容易には脱せない様はハビトゥスを思わせる。

まさか全員が全員、私たちの分野のスティーブ・ジョブズ氏の登場を待っているとは思わないが、なんだかそういう態勢になっているような気がしてならない。