以前からフィンランド教育への関心が高かったが、最近は尾木ママの紹介もあってオランダ教育にも関心が向きつつあるようだ。
もともとオランダの教育は、リヒテルズ直子氏によって紹介されることが多く、amazonを検索するとあれこれ著作を見つけられる。オランダ自体を幸せな国と紹介する本もある。
西欧諸国の教育は、断片ばかりが不連続に取り上げられて,なかなか全体像を描くことが難しい。どうやら多様な教育が許されているということは見えてくるのだが,それを担保しているものが何なのかを突き詰めると「そういうお国柄」という結論に行き着く繰り返しだろう。
日本に住む私たちにとって、そうした西欧の教育がまぶしく見えるのは、私たちが「国家行為としての教育」から卒業する段階にあるのにそれが出来ていないこともあるのだろう。
学習指導要領、教科書検定、教育費国庫負担…どれも国民が等しく教育を受けられるように設けられた制度や仕組みだが,それらの設計が想定した時代からは長い時間が経過しているであろうし,根本的な見直しに着手することもないまま、その都度の手直しで引き継いでいるのが実情である。
その結果何が起こったのかというと,新しい試みに対して上記の制度や仕組みが足枷になってしまう場面が強くなっているということである。
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「国家行為としての教育」という言葉から連想されるような、国が何から何まで管理統制する教育はいまや幻想に過ぎない。けれども、そういう心性は一般の人々に根強く、教育システム改善の糸口が国レベルにあるとばかり考えやすい。
けれども、実際には都道府県や市町村レベルにこそ問題の糸口がある。
公立の学校教育に限っていえば,設置者管理主義と呼ばれる原則によって、地方自治体に教育をコントロールする権限と責任が付与されている。身近な学校に何か課題があるとすれば,それは地方自治体レベルで解決することが基本なのである。
しかし、日本にある1800もの地方自治体の現実は様々であり,問題解決のためにもてる資源も異なっている。課題解決が出来るかどうかも異なれば,それ以前に、何を課題として捉えるか自体が異なっている。
そのことを十分に踏まえないまま,国が号令をかければ地方は動くと考えることが無茶なことは、ここ数年、幾人かの地方自治体首長たちの動向を見ても明らかである。
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国内的な視野と国際的な視野との狭間で、私たちが目指すべき日本の教育の将来像がはっきりしない。
多様であることを求められているが,多様であることは差異を受け入れるということでもある。日本国内には多様な現実がうごめいているものの、それはどちらかというと差異としてではなく格差として現われているのかも知れない。
差異を認める制度で多様な在り方を保証するのではなく,型を決めてかかる制度はそのままに,格差が多様な現実を生んだだけというのが日本の現状なのだろう。
意図せざる格差による差異は具現化しても,差異化を意図して教育に取り組もうとすると、型を重んじる制度に阻まれるという具合だ。
それが単に国内の差に留まらず,国際の場で活躍するためのベースの差として問題が深刻化しつつあることに、危機感を抱かざるを得ない。
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個人的には、日本の教育の諸制度はもっと自由度を加えていくべきと思う。それは大幅な弾力的運用という形式をとることから始まるだろうし,それで済むこともたくさんあると思われるが、ゆくゆくは法制度自体が再構築されなければならないと思う。
ただ、どのような手順でそれが進むとしても,教師の専門性を深めていく必要があることには変わりなく,そのための条件整備は何よりも優先されなければならないし、そのことに関する障壁を解決するために大きな決断が必要だ。
もっとそのことに関心が向くように仕向けなければならない。