先日,FS&LI事業の公開授業が行なわれたので,担当研究者として出席し講評めいたものを担当した。
小学校の先生方は準備などで大変な日々を送られていたわけだが,私なんぞは準備もせずに当日の様子を振り返るというだけだった。
担当している小学校の担当の先生は,この分野のエキスパートといってよい方だから,情報化の何たるかを先生方に説く労力から私自身は解放されている。
その分だけ,事業そのものへとまなざしを振り向けて,何かできることはないかと動き回っている点が他の実証校や担当研究者と違ってるのかも知れない。
そうした問題意識から様々な情報や知見を縦横無尽に漁る日々を過ごすようになっているのだが,そうした状況がかなり重荷になってきたように思う。
願わくは,その成果を吐き出したいと思うのだが,私自身は情報発信をする場合に閉じ篭もる時間が必要で,搾り出すかのごとく文章を書きつづるので,落ち着かない状況で粘る余裕がないとパタリと言葉が出てこなくなってしまう。
もう少し乱暴・粗雑に書いてよいならば,こんな風な駄文を書くことはできるとしても,この頃は知り得たことを不用意に書くと何かを踏んづけちゃう立場にいることも分かってきたので,それが文字を打つ手を鈍らせてもいる。
その上,Twitterで時々の衝動をさえずっているのだから,ますますまとまった文章を書くための勢いというものが殺がれているといった案配だ。
—
本当のところ,語りたいことや発信したいことは山のようにあって,それを言い表すのに私が文章を紡ぐスピード感ではまったくダメなのであった。
かといってUSTREAMで独り言として語り始めると,ら旋階段を延々とのぼるがごとく話が続いてしまい,気がつけば6時間といったことになりがちだ。
誰かと夜を徹しての教育の情報化トークライブでもしないと,ため込んでいる情報も思索も表に出す機会を逸してしまうのではないかと心配になっている。
ともかく,何かの形で発信をしなければと考えている。
—
同時に最近は,ものごとを変えることが難しいということをますます痛感するようになっている。なにしろ文化的なものを変えなければならないことにもつながるため,来年度から変わるなんてスパンでは到底ない。
いや,それは前々から分かっていたこと。私の世代も含めて上が退場しない限り,変化への抵抗は強まりこそすれ弱まることはないだろう。学習指導要領を殺したり,著作権法にフェアユースの考え方を持ち込むなどのドラスティックな事態が起きない限り,学校教育は最も学び難い場として取り残されるだろう。そんなこともわかっている。
問題は,そのことを真剣に考える機会や余裕がほとんどの人にないことである。
気がつけば今年も2ヶ月を切った。世界には取り組まなければならないことが山積みで,自分たちが拠って立つ場所をひっくり返すことに時間を費やそうと考える余地はありそうもない。
話したい人と話したいことを話すための機会も余裕もない世の中で,どうして物事がうまくいき得るといえるのだろう。
なんか,そのことがとても私の気持ちを萎えさせていて,向かうべき方向性を考えあぐねる日々を送る原因にもなっている。
もう少し自腹を切って,あちこち押し掛けてみるしかないかな。