長野県知事・田中康夫氏は,県内あちこちで「車座集会」というものを開いて地域の人たちの声を聞く活動をしている。その開催をよく思わない人がいるらしく,「集会を開いたら小学校・幼稚園・保育園児を1人ずつ殺す」という脅迫状が届いたらしい(毎日新聞記事)。
脅迫状なんてものは,そもそもが卑劣なのだが,子どもの命を奪うことをネタにしたものは卑劣この上ない。政治的な抗議といえば,自決することをもって相手を脅すというのがあって,それはそのくらいの覚悟を持って抗議していることを表すためだとイメージしていた。それを自分は安全地帯に隠れて,子どもの命を奪うことで代えようとするなんて,主義主張はどうあれ,そこまで腐りきっていることに,呆れを通り越して怒りを覚える。
たとえ世界の戦争地区や飢餓地域に比べて,日本の子ども達は生きることにおいて幸せだと,何やら言い訳めいたへ理屈が捻り出されたとしても,人の勝手な行動によって命が奪われるなんてことは許し難い。
投稿者「rin」のアーカイブ
便利な映像検索
動画共有サービスが注目を集めているが,放送局が映像ライブラリを構築して提供するサービスは以前からあった。たとえば英国BBCによる映像ライブラリ「BBC Motion Gallery」が有名である。どうやら最近は各国の放送局と契約して映像ソースを得ているようだ。我が国NHKもハイビジョン映像を提供している。
動画共有サービスと映像ライブラリサービスは,それぞれ長所もあれば短所もある。前者は不特定多数によるお手軽な映像登録が出来る反面,登録の際のキーワードの付け方といったルールがないため映像整理という観点ではエレガントとはいえないし,そもそもクオリティも千差万別である。後者は有料サービスであるとか,内容も限定されているといった不便さがあるとはいえ,映像はしっかり管理されているし,クオリティもある程度保証されているというメリットがある。
考えようによっては補完関係にあるといえなくもない。ただ,そういう甘い関係はあまり長くは続かないのかも知れない。
ところで,BBC Motion Galleryから告知メールが届いた。Mac OS X用のウィジェットをリリースしたというお知らせ。この「ウィジェット」というのは,デスクトップから簡単に呼び出せる小道具みたいなソフトのことで,カレンダーとか計算機とか,インターネット検索の小窓みたいなものなどが様々に用意されているというもの。このウィジェットの一つとして,BBC Motion Galleryの映像を検索することができる検索ウィジェットが出たというわけだ。
もちろんWebブラウザを使ってBBC Motion Galleryホームページから検索することが出来るのであるが,わざわざWebブラウザを立ち上げるまでもなく,検索ウィジェットをひょいと呼び出して検索できるのは便利だ。しかも検索結果から映像を選択して再生ボタンを押すとQuickTime Playerが直接立ち上がり,サンプル映像を見ることが出来る。Webブラウザ不要だ。
試しに「school」と入力して検索したら,1946年当時の日本の教科書,小学校,男の子の朗読の映像が出てきた。その他にもschoolで引っかかる映像が並んでいるといった次第なのだ。あまりの手軽さにちょっと感動してしまった。
そういえばニュースによると,東京大学でNHKアーカイブスが自由に使えるようになるとか。受信料を払ってきた一般の人たちにも早く届ける術を用意しないとまた怒り買うと思うんだけど,とにかくそういう試みがうまくいって,NHKアーカイブスも手軽に検索利用できるようになればいいなと思うのであった,っていつになることやら…。
皐月24日目
午前中に研究助言の仕事。ようやく企業プロジェクトの進め方が見えたきたところ。複数の人間が関わる以上,工程があって進むわけだが,各工程間のコミュニケーションが実際にどう展開するのかを探らなければならず,助言の捉えられ方というところにも細心の注意を払う必要があるのだなと感じた。
午後は駄文書きをしながら過ごす。たまに英語の勉強。脳みそが柔らかいうちにもっと英単語を覚えておくべきだった。そしてまた駄文を書きながら,いまだ心が落ち着かず,焦って空回りする自分を内省する。どこを向いていたのか,どこを向きたいのか。何を達したのか,何を達したいのか。最後の最後まで職場で空回りしていた勢いが,まだ止められないでいるのかも知れない。9年間の空回りを1,2ヶ月で止めるのは難しいのか…。新しいペースを早く固めないといけない。
件のMLは,あれ以来,返信するタイミングを失ったまま。というのも,いい感じでちょっとした議論や情報交換が起こっているところなので,私が出て行く幕ではない感じ。返信しない不義理を申し訳なくは思うが,せっかくいい感じなんだから,しばらくは放っておこう。
さてと,もう少し仕事の考え事してから,眠るとするか。
発信無し状態の意味
とあるML(メーリングリスト)で久しぶりに発言メールを発信した。MLでよく起こりうる特定人物の空回りシチュエーションに対して,疑問と提案をするメールであった。そう受け取るかどうかは人それぞれという微妙な内容だが,まあ,余計なお節介をしてみたわけである。
で,ML上で返ってきた反応に対して,今度は私からのメールを発信すべきだと思うが,少し意地悪な私は私の考えをこちらに先に書いてしまおうと思うのである。その意図するところを理解してもらえれば有り難いが,決してふざけているわけではなく,いろんな意味でお互いが望む結果に近づくことが出来るのではないかという可能性を期待しての選択であることを信じていただきたい。たぶん名前を検索して,ここにもたどり着いてくださっていると思うので,こちらで説明できることは,こちらでやってしまおうと思う。
今回私が何を疑問に感じ提案をしたかというと,このところMLで,ある人の発信が量・内容とも一方的になっており,そのことが気になったので,MLの発信スタイルとしていかがなものかと疑問を呈し,もう少し工夫されたらどうかと提案したのである。ありがちなシチュエーションに,余計なお節介。多くの皆さんにも経験があり,ピンと来るものだと思う。
MLというものに人々が何を期待して登録をしているのか,あるいは実際にどのように活用しているのか,様々だと思う。MLの設置目的や規模,運営の仕方もいろいろだ。だから,その使い方というものに唯一の正解はないし,別の言い方をすれば,様々な目的と利用実態が共存できるという特徴がMLにはある,とも言える。
MLの「正しい使い方」がこうだから,あなたのそれは間違っていると指摘したかったわけではない。けれども,あなたが期待している反応を得るためには,MLへの発信スタイルに調整を加えた方がよいのではないか。そうでない状態を続けている状況を眺めていると,少し気の毒になる気持ちも出てくるし,そしていよいよ気の毒な気持ちを通り越して,どうしてアプローチを変える努力をされないで他者の反応ばかり期待されるのか懐疑的になってくるし,そろそろ不快にも感じ始めたのである。
その方は,とても律儀な方なので,こういった反応について丁寧に心理分析を加えて,変化への拒否反応であること等の可能性を指摘してくれるのだけれども,それもまた,私にとってはあんまり嬉しくない話である。また,私の過去の発言から,ああこの人は大学関係者だったのかと判明すると,「学会」とか「圧力」みたいな言葉と憶測も出てくるに至って,なんか研究の世界ってそんなに「権威ぶってる?」と,とても悲しい気分にもなる。というか,思うにそんな指摘や憶測は一般的に失礼である。
ただ,もう「一般的に」という言葉がどこかへ吹っ飛んじゃったようなメディアであることは,先に「様々な目的と利用実態が共存できる」という特徴から考えてもあり得る話なので,嬉しくない話も悲しい気分も「そりゃアンタの勝手な感情だ」となってやりにくい。だから,ML上で直接このことを指摘するのは避けることになる。それは私が提起した事柄とは違う話でもあるからだ。
600名以上の登録者を集めているMLに私が登録していられるのは何故か。600名もいれば,異なる考え方で相容れないだけでなく,関係を持つことすら拒まれる相手もいるかも知れない。それでも同じMLに登録できるのは,実はMLが情報発信するために繋がっているメディアだからではなく,情報発信が無い状態で繋がっていられるメディアだからであると考えられる。
立場を変えて表現しただけに思えるかも知れないが,この観点は大事なのである。当然「情報発信がない」は「情報発信がある」という可能状態を前提にしている。つまり表裏一体の関係。そのどちらの状態が定常的になるのか,あるいはどんな周期で波がやってくるのかは,もちろんML毎に異なる。
私にとってML登録者の過半数が,仮に性格的にも思想的にも,まして生理的にも相容れなかったとしても,MLで「発信しない」状態があるからこそ共存できるのである。また「発信する」状態があっても,それは許せる頻度や程度であり,「発信しない」状態に戻ることを前提するからこそ登録を継続することが出来る。それがMLの特性に対する「一つ」の理解である。
だから,この「一つ」の理解からすれば,もしも長期的に連続的に何かを情報発信したいということになれば,他に適したメディアが存在するし,それらを組み合わせて利用し,MLの使い方を調整した方がより望ましいのではないかという提案も可能である。そしてそう提案してみた。
実のところ,私がMLで返信をしていないのは,たまたまタイミングがそうなっただけだが,一方で意図的に時間を置くためもある。もちろん,「意図的」と書くと相手が不快に感じることもあるだろう。誠実さが足りないと思われるかも知れないし,自分を優勢にするための作為があると思われて変に敵意を持たれてしまうかも知れない。だから余計な感情を生みたくなければ,本来は「書かなくても(発信しないでも)いい」話である。それでもそう書いたのは,私がすぐに返信しないことで起こる出来事を見ていただきたいということでもある。
私が1通発言したことでご本人から返ってきたメール数は6通。追補や自己レスもあるとはいえ,もう少し落ち着いて返信をいただければ数通で済むと思う。
しばらくして,オーディエンスの中から幾人かの方が自分の考えを披露された。私とはまた異なるバランス感覚でご意見を表明されているので,MLにはいろんな人々が登録しているのだということをあらためて確認できる。
つまりこういう事なのである。もしも自分の投げかけた話題についてオーディエンスの中から発言して欲しいならば,オーディエンスを意識した「内容」を発信し,参加する「間」を用意する(発信しないで待つ)ことも,一つの方法だということ。待ってもダメなときはある。ならば,もう少し内容を工夫して,間を開けてから再度投げかければいい。相手に余裕を与え,自分にも余裕を与えるということが有効なときもある,ということである。
もしも対話というものをMLに期待するというならば,そうした発信の工夫をする作法も心得たい。それだけのことだ。
しかし,再度確認すれば,それは「私の考え」であり,また「必ずうまくいくやり方」というわけでもない。だから,連続的に発言して,オーディエンスに対して発言を促すという方法も「有り」だし,発言を継続することでいつしか重い腰を上げて相手をしてくれる人を待ち続けるというアプローチが「成功する」かもしれない。
だから,私がご本人に聞きたかったことは簡単で,「私なりに上手いやり方があると思いますが,あなたはそのやり方をとる余裕がありますか。それとも従来通りのやり方に固執して連続的な発言を続けられるのですか」ということなのだ。
「ご意見了解した。それも一考に値する工夫なので,やってみよう」となれば,私にとってはハッピーだし,もしかしたら相手にとってもハッピーになるかも知れない。それが私の一番の目標。
「ご意見は拝聴した。でも私は連続発言が効果的と考えるので続ける」ということで,現状に変化が見られないのであれば,それは仕方ない。私がそれを了解して,私の側で対処することを考えるまでのことである。気にしないように努めるとか,メールソフトの機能を活用するとか,ML自体を退会するとか,選択肢はまだ残っている。それでもとりあえずハッピーになる。
私にしてみると,ハッピーでないのは,話がこじれることである。私は相手を非難したいわけでも攻撃したいわけでもない。まして相手の発言を阻止したり排除したいというわけでは決してない。単に,私が自分の行動をどうするか決めるために情報を得たかっただけである。
ただ,そのためにはいろいろな関門をくぐらなければならない。「逃げるためじゃないのか」とか「きっと問題意識が薄い人間なんだ」とか「発言が邪魔になったんだ」とか「圧力があって潰そうとしている」とか「この程度も我慢できない人なんだ」とか「底浅っ!」とか,きっと様々に心理分析されたり,推測されたりするんだろう。過去の発言をさかのぼったり,インターネットで検索して,私がどんな人間でどんな考えをしているのか詮索されたりもするだろう。もしやりとりがうまくいかなければ,どちらかが捨て台詞を書くか,そのままフェードアウトして気まずい空気のままで喧嘩別れをするかも知れない。それらはどれも,あまりハッピーな事とはいえない。
ただ,必要があれば,私は悪者を引き受けても構わない。このまま返信しないでMLが穏やかに進むならば,「返信しなかった輩」として評価されても何も困らない。MLが多様性のもとにあるメディアというならば,私の今回の役柄が「卑怯な奴」だったとしても何の不思議もないのである。問題は,そういう結末を,別の機会に持ち出そうとして話をややこしくすることである(それが必要な場合もあるとは思うが…)。
「律儀なあなた」と「卑怯なわたし」がオーディエンスの前で仲良く手を取り合って事態解決という構図は,具体的にどんな形のことを指すのか正直イメージが難しい。もしかしたら,振り上げた拳を下ろすことなく,先に幕を下ろすことの方が良い場合だってある。そしてもっと大事だと考える事の方へエネルギーを注いだ方が生産的ではないだろうか。
それが私がいま考えていることだし,そうなるかどうかは別として,その可能性について相手にも了解しておいて欲しいと思うのである。もっとも,ここに書いてあることを相手が読むのかどうか,読んだからといって了承するかどうか,了承しても実行するかどうかはまったくわからない。どっちにしても意地悪な私は,ちょっと違った方法を使って事態を再利用している。どちらかといえばオーディエンス志向の行動原理を持つ人間なのであった。小泉さんみたいに劇場型でごめんね。
雨の四谷
前の職場からお客様。久しぶりに夕食とお酒をご一緒した。このところお酒を飲む機会がほとんど無かったので,思いの外酔ってしまった。東京・四谷にある小さなお店で大将や隣の客も巻き込んで賑やかに過ごした。
ポッドキャスティングがなかなか再開できないが,また準備をしたいと思う。ポッドキャスティング繋がりで気になる記事「ポッド・キャスティング,番組単位での許諾が可能に—JASRACの活動報告より」。著作権許諾の方法に選択肢が増えるのはいいことだ。まだ詳細を見ていないので,CDの曲をそのまま流せるのかどうかはわからないが,可能になれば,あとは金額の問題かな。
それから,YouTubeネタを書いていて,「ブッシュ大統領が夕食会で披露したジョークを見てみたいなぁ」と思ったら,都合よくその出来事自体を取り上げたコラムが掲載された。クリントン元大統領がつくったショートムービーまで紹介されていて,ちょっと嬉しかった。楽しむ限りにおいては,小難しい心配は吹っ飛んじゃうんだけど。
本当のタグがない情報群
Googleという検索サイトの関連本が書店の一角を賑やかにしているが,世界トップであるこの検索サービスも日本での利用率はYahoo!に負けているというのは面白い。まあ,ソフトバンクによってほぼ日本的なサービスセンスを見せるYahoo!が日本の消費者ハートにしっくりくるのも当然だし,Googleはどうしてもサービスのローカライズ作業が目立ってしまうので取っ付きにくさが入り込む。
検索サービスと共に今話題なのは,ストレージサービス。特に動画をプールしてシェアするサービスが人気だ。たとえば「YouTube」とか「MySpace」とか「Google Video」である。特にYouTubeは外国のサービスながら,日本のユーザーからの利用時間が米国ユーザーを凌ぐと話題になった。映像系なら言語の違いはなんのそのといったところか。
動画サービスというジャンルで言えば,「iFilm」とかも知られている。あとはご存知のように動画プレイヤーソフトで有名な「Real」,ポータブルプレイヤーiPodと共にお馴染み「iTunes Music Store」を始めとして,多くのサイトで動画配信が展開している。「GyaO」は無料放送で注目を集めた。
各大学が講義内容を動画配信し始めるということも珍しくなくなってきた。もう数年すれば,それが大学の評価をする際の項目として意識的に取り込まれてくることだろう。無意識的にはすでに評価されているのかも知れない。
Nさんのブログで紹介されていたように,諸外国の映像情報の整備の成果がちらほら出ているようだ。フランスでは国立視聴覚研究所(INA)が「Archives pour tous」というテレビ・ラジオ番組の映像と音声データのアーカイブを公開した。いまは亡きブルデューの姿も見られる。
BBCが検索サービスに「The BBC Audio & Video search [“university”検索結果]」を付け加えたのも最近の動き[BBC記事]。もっとも素材データそのものは英国内でしか見られないように制限されている。BBCはもともと「BBC Motion Gallery」というサービスを展開しており,映像素材の公開には積極的であったし,どうもオンライン上で新展開を予定しているらしい[関連記事]。
こういう動きに関連して,動画映像データの配信といったリッチコンテンツをインターネット上でやりとりする動きは活発化したもののコスト負担をどうするのかという問題が議論されてもいる[関連記事]。それからBBCの動きに触発されてか(まあNHKはことある毎にBBCを取り上げて意識しているのは確かだけど),「NHKアーカイブス」に関してネット公開をするようにすべきであるという声もあちこちから強まっているようだ。どこかの記事で竹中大臣もそれが可能となるような法整備に意欲的な発言をしていたように記憶している。
で,前振りが長くなかったが,とあるページにリンクがあったのでYouTubeに登録された映像を見たのだ。YouTubeは初めてではない。このブログでもマルチタッチインターフェースをご紹介するのに利用した。けれども,こういう洗濯物をぶち込むような状態になりやすいサービスには用がない限り近づかないという癖がついているので,正直なところ気にはしててもほとんど利用していない。
だから,こうしてたまにリンクをたどって見る程度になるのだが,そこでやっぱり驚いた。遠慮無くテレビ映像が登録されて公開されている。いや,別にそういう映像自体は従来までも隠れたサイトにたくさんあったことは知っている。けれどもそれは感覚的にはゴミの山の中にビデオテープが捨てられているという感覚にも近く,たまたま拾って見ちゃった感でまだ許せた。
けれどもYouTubeにしてもどこにしても,これらはシェア(共有)が前提で,登録ユーザーから登録日時,視聴数までカウントして,検索されるようにストックされているのである。それは魅力的なツールだとは思うし,自分にも映像公開のニーズが発生したときには活用することになるだろう事は予想できる。だから,ここでわざとらしく「驚い」ちゃっているのは,「とりあえず登録しちゃえ,面白いから」という透けて見える動機でたくさんの映像が登録されちゃっていることなのである。
要するに私が懸念しているのは,そういう動機や調子のもとで登録されていく映像には,まともな背景情報がまったく付与されない傾向があるということである。もちろん著作者権利への想像力のなさを嘆くのもそうなのだが,それは専門家に頑張ってもらうとして,教育の問題に引っ張ってくれば,情報にタグ情報を適切につけるということが,どれだけ大切なことなのかをもっと意識すべきだということなのである。
悲しいかな,インターネットは接触できる情報を増やしたものの,情報絶対量があるラインから増えなくなるという対数曲線みたいな性質がある。こうなってしまうと,実は知りたいことがほとんど得られないという状態で固定してしまうのである。
もしも同時代の事柄に関しての情報なら,自分の知識が不足分を補うかも知れない。途切れた検索の糸を記憶の断片で繋げていけるかも知れない。でも,何十年後に情報を検索した人間には,そういう予備知識や周辺情報がないかも知れない。そうなると,ある情報に関する検索の糸は,いとも簡単に切れてしまいかねない。
だから,映像一つ登録するにも,それが「どこで」「いつ」収録されたものなのかぐらいはタグ情報で付け加えないと,あとで苦労するのは私たちの子ども達やその他の世界の人々(他者)なのである。そうでないと,登録日なんかの情報があるので,それが収録日や映像そのものの中身の日時と「イコール」なのかどうなのかで悩まないといけなくなる。
そういう配慮や想像力もなく,どんどん映像が登録されていく勢いに「驚く」し,まあ,この「オマエのものはオレのもの,オレのものはオレのもの」というジャイアン的アメリカの著作権利意識のうえに成り立つサービスが,最終的にみんなをハッピーにするならそれでもいいのかも知れない。けれども,教育という文脈にとっては問題だけ残された感じがしてなんだかいや〜な気分なのである。
TOEFL
TOEFLを受験することにした。TOEFLといえば留学予定者が受験することで有名な英語試験のことである。長らくその名は聞いていたものの,縁遠きものとして追いやっていたが,とうとう取り組む時期がきたとは…。
毎度,何の準備もしないで「ぶっつけ本番」というのが我ながら呆れるが,思い立ったものは仕様がない。試験について調べて,申し込みをし,受験勉強をしている次第である。ちょっと泣きそうである。
TOEFLは世界のあちこちで受験できる。そして時代に沿うように試験方式や内容も進化し多様化している。それを象徴するのが,ペーパーテスト(PBT),コンピュータテスト(CBT)という2つの試験方法だ。いまや指定の試験会場に設置されているコンピュータの画面上で試験を受験するコンピュータテスト方式が主流だが,世界の様々な条件に対応するためにペーパーテスト方式も残されている。この2つは方式だけでなく点数計算法も異なるのだが,比較のための換算方法があるといった風なのである。
で,実はTOEFLはここ数年でさらに進化をしており,次世代コンピュータテスト(iBT)というものへ移行している。次世代方式では,スピーキングの試験が新たに導入されるとして注目を集めている。試験実施国によってiBTへの移行時期は異なるが,いよいよ日本も2006年6月に開始するようだ。
って,来月じゃんか,おい。ということは今月でCBTが終わって,来月からはiBTしか受験できないということになる。なんか「共通一次試験」から「センター試験」に変わるみたいな話だが(なつかし〜),TOEFLの変化は大きい。
受験手続き自体はとても簡単。コンピュータテスト会場施設は大都市に用意されている(でも名古屋にはなかった)ので,最寄りの会場の試験日程の中から都合のよい日を予約すればいい。そのままクレジットカード決済で試験の申し込み手続きが完了する。140ドル也。試験日程は,ほぼ毎日。さすがは世界規模で多数の受験者をさばく試験である。ただし,同じ人は毎月1回ずつしか受験できない。同月内に複数回の受験は認められていない。
ちなみに,ペーパーテストはあらかじめ日程が決まっているので確認する必要がある。もっとも,余程の理由がない限りは,コンピュータテストで受験するのが当たり前になっているようだ。
申し込みの簡便さの一方で,試験の内容はなかなか手強い。4時間の試験時間に,「リスニング」「文法」「英作文」「英文読解」の問題をこなす。iBTになると文法が「スピーキング」に置き換わる(文法は英作文などでカバーする)。ほぼ満遍なく英語の力が試されるということになる。それから出題形式に慣れる必要があるだろう。初めての人は,そういうところにも気をつける必要がある。なにしろ時間制限内に,コンピュータ操作を求められるのだから,使い方に勘違いがあると点数にも響く。なにしろ問題進行は一方通行がほとんど。後戻りで修正が難しい。
たぶん,目も当てられない点数になろうかとは思うが,新たな試みはまだまだ続く。
努力の積分
生まれて初めて退職金というものをもらう。今日の現実はどうあれ,僕らの世代として「退職金」というのは,一生に一度,自分が定年退職などしたときにもらうものだとイメージしていたのだが,まさか自分がこの歳にして1回目をもらうとは思わなかった。(2回目あるのか知らないけど…)
いまでも初任給の嬉しさは覚えているし,毎月もらうお給料とこのご時世にあるだけ有り難い賞与をもらう度,私自身がそれに見合う仕事をしているのか自問自答していたことを思い出す。努力の数値化ほど人の心を振り回すものはない。それが「円」に単位変換されれば,豊かさをもたらす場合もあれば,争いを連れてくる原因にもなる。そこで平常心を保つには,かなりエネルギーが必要になる。
下世話な話をすれば,退職金の金額が大したものじゃないことは,もう何年も前から予想はしていた。だから私は自分の努力が微分されて雲散霧消する前に,別の形として職場に残るように努力を積み重ねることにした。それがこの5年くらいの私の行動だった。職場の情報環境を整え,学生や教職員をサポートする設備と人材を提供すること。風当たりも強くて,評価されるどころか小言を言われることも多かった。
けれども,たぶん退職金なんて軽く凌ぐ価値のある部署と業務を提供できたと思っている。私を助けるために集ってくれた人たちは,学生想いで,しっかりとした自分のポリシーを持って仕事をしてくれる人たちばかりだった。もっとお給料をあげたかったのだが,私は自分のもてるノウハウを惜しみなく伝えることで,それに代えることにした。仕事を通してスキルアップすることで,その人の技能資産が増せば,次の職場の選択肢も広がる。働くということは,給与以外にもそういう報酬があるべきだと思う。それは自ずと本来の目的である学生や教職員への充実したサポートに繋がる。
どこまでも自己満足の域を出てはいないが,私は自分の退職価値をそういうところに置いてみた。風の噂には,今年度も学生達の利用度が高く,サポート部署として定着しているようだ。嬉しいことではないか。
自分の人生をどう描くのか,どんな風に価値を見出していくのか。その方程式はますます複雑化していくようにも見える。たくさんの項目を並べて,変数の重み付けをし,ロジックを組んで,算出した結果に,そもそもどんな信憑性があるのかということを考え直してみる必要がある。確かに過去の経験の集積は,何がしか確かな指標を提出してくれるのかも知れないが,それを超えて何か違った価値観とイノベーションを信じ,努力を積分していくことに自分を開いていくことも必要だと思う。
それでも人はお金で動くもの。そういう考え方もある。私だって,しばらくこの退職金で生き延びないといけないもんね。でも,焦りは禁物。私の場合は,自己研鑽を抜きにしては成り立たない人生でもあるので,この機会にいろんな経験を通して勉強させてもらいたいと考えている。そのための資金としてなら,これでも,まあ,何とかなるかな…何とかするか。
企業訪問
今日は多摩にある某コーポレーションの本社でお仕事。教育研究者(放浪だけど…)として議論の触媒役を仰せつかったので出かけた次第である。
学校教育界隈を漂流するような人生を送ってきたので,こういう大企業に出入りする機会は珍しい。社会見学気分も半分で,社員の方と一緒に社員食堂で昼食をとるところから今日の仕事(?)はスタートした。郷に入っては郷を楽しめ。例え一食でも同じ釜の飯を喰え。
昼時だから,食堂にはたくさんの人々がいて活気があった。支払いは電子マネー。ずらっと並んだ電子マネー端末に向かって,みんな「シャリ〜ン」「シャリ〜ン」やっているのは新鮮であった。それから展望室やプラネタリウム(!)や引っ越し中の図書室を覗かせてもらって,会議の場所へ。
今回は会議室ではなく,広いビジネスオープンスペースの一角を陣取って行なわれることになった。このスペースには,大小たくさんのテーブルとコピーがとれるホワイトボードや小型液晶プロジェクタがあちこちに散らばって自由に陣取りが出来る。気軽にディスカッションや会議が行えるようになっている。お昼の就業時間が始まると,ほぼスペースは満席状態になり,大なり小なりの会議が同時並行して賑やかに行なわれている。企業現場の活気というものを直に体験した。
どうしても大学の会議や学校の職員会議なんかと比べたくなってしまうのは悪い癖だが,知的労働をする現場として最も先端を行かねばならない教育機関において,このような学習・研究活動の環境が整えられていないことや,ゴールを決めないだらだらとした会議の在り方を思い返す度に,ため息みたいなものが漏れてしまうのだ。
とはいえ,そう簡単な話じゃないことも事実だ。『論座』6月号の天野郁夫氏や広田照幸氏の論考を読むと,その混沌とした現状に複雑な思いも抱かせる。大学は知の探究の場所として,どこへ行こうとしているのか。広田氏が描くような若い世代の研究者生き残りゲームと戦略の様相は,富めるものが富み,貧しきものがますます貧しくなる競争が研究者の社会にもすでに浸透したことを告げている。知の自由さというものを信ずべきフィールドにおいて何かを恐れて自由に知を共有できない,ということに率先して抵抗すべきは研究者なのだと思うのだが,せっぱ詰まった現実は,そんなことも甘っちょろい理想論と切って捨てるのだろうか。
かく言う私は,ビジネスを目的とするフィールドでの研究活動に関与し始めた。私企業の利益に与するそのことの方が実のところ深刻な問題じゃないのかと論難されることもあるだろう。ただ,その先にいるたくさんの親子に届く某かに対して,少しでも貢献が出来ることがあるとするならば,それもまた研究者としての「チャレンジ」でもある(って,上手くまとめたか?)。
というわけで,通信教育教材を開発している現場の皆さんと闊達な議論を展開し,私自身もまた刺激を受けて帰ってきた次第である。私にとっては,こうして大勢の人たちと一緒に仕事をすることが新鮮。たまにはこういう刺激もいい。
連休が終わって
今年のゴールデンウィークは,大型連休の名に恥じない長期の休みが獲得しやすいお休みとして,あちこちで話題にのぼった。そして,とうとうその連休最終日が終わる。皆さん,たっぷり休暇を楽しんだだろうか。
私にとって,今年は人生の長いお休みに入ってから最初の連休だった。ということは,平日も祝祭日も関係なく過ごすことになるわけで,連休になっても何も変わらないだろうと思われるかも知れない。
ところが,今年はフリー(?)になってから初の日英翻訳作業を連休期間中にすることになり,休日ではなくて24時間営業状態。まあ,在職中には英語文献を読むのも余裕がなかったわけで,まして英作文なんかほとんど手をつけていなかったから,かなり苦労した。これやってみるとわかるのだけれども,英作文をすると,どれだけ英文を読んでいるのかがわかる。自分がいかに「ぽわーん」と英文に接していたかが,身にしみてわかった。
「英文リーディングが出来て初めて英文ライティングの入り口が見えてくる」と言われるが,これに「単に英文眺めてます程度ではダメ」ってことを補足をしないといけない。脳みそをデータベースにして,読んだ英文を片っ端から蓄積してないと,自分が書いている英文が妥当かどうかを判断しようがないわけだ。ああ,疎かにしてた…。
気がつけば英文法の基礎レベルのことを「ポカーン」と忘れていたことに気づいたり。結構,そういう現実に独りで直面するのは辛いものだ。はははは…。まあ,とにかく締め切りまでに間に合わせるよう突貫工事。数日おいてから推敲する作業も出来ず,泣く泣く不出来な英文を差し出したのでありました。久しぶりに24時間ずっと机にかじりついたよ。身体大丈夫か?>自分
ちょっと充電したら,引っ越し報告活動に取り組まないと…。皆さん,ごめんなさい。