企業訪問

 今日は多摩にある某コーポレーションの本社でお仕事。教育研究者(放浪だけど…)として議論の触媒役を仰せつかったので出かけた次第である。
 学校教育界隈を漂流するような人生を送ってきたので,こういう大企業に出入りする機会は珍しい。社会見学気分も半分で,社員の方と一緒に社員食堂で昼食をとるところから今日の仕事(?)はスタートした。郷に入っては郷を楽しめ。例え一食でも同じ釜の飯を喰え。
 昼時だから,食堂にはたくさんの人々がいて活気があった。支払いは電子マネー。ずらっと並んだ電子マネー端末に向かって,みんな「シャリ〜ン」「シャリ〜ン」やっているのは新鮮であった。それから展望室やプラネタリウム(!)や引っ越し中の図書室を覗かせてもらって,会議の場所へ。
 今回は会議室ではなく,広いビジネスオープンスペースの一角を陣取って行なわれることになった。このスペースには,大小たくさんのテーブルとコピーがとれるホワイトボードや小型液晶プロジェクタがあちこちに散らばって自由に陣取りが出来る。気軽にディスカッションや会議が行えるようになっている。お昼の就業時間が始まると,ほぼスペースは満席状態になり,大なり小なりの会議が同時並行して賑やかに行なわれている。企業現場の活気というものを直に体験した。
 どうしても大学の会議や学校の職員会議なんかと比べたくなってしまうのは悪い癖だが,知的労働をする現場として最も先端を行かねばならない教育機関において,このような学習・研究活動の環境が整えられていないことや,ゴールを決めないだらだらとした会議の在り方を思い返す度に,ため息みたいなものが漏れてしまうのだ。
 とはいえ,そう簡単な話じゃないことも事実だ。『論座』6月号の天野郁夫氏や広田照幸氏の論考を読むと,その混沌とした現状に複雑な思いも抱かせる。大学は知の探究の場所として,どこへ行こうとしているのか。広田氏が描くような若い世代の研究者生き残りゲームと戦略の様相は,富めるものが富み,貧しきものがますます貧しくなる競争が研究者の社会にもすでに浸透したことを告げている。知の自由さというものを信ずべきフィールドにおいて何かを恐れて自由に知を共有できない,ということに率先して抵抗すべきは研究者なのだと思うのだが,せっぱ詰まった現実は,そんなことも甘っちょろい理想論と切って捨てるのだろうか。
 かく言う私は,ビジネスを目的とするフィールドでの研究活動に関与し始めた。私企業の利益に与するそのことの方が実のところ深刻な問題じゃないのかと論難されることもあるだろう。ただ,その先にいるたくさんの親子に届く某かに対して,少しでも貢献が出来ることがあるとするならば,それもまた研究者としての「チャレンジ」でもある(って,上手くまとめたか?)。
 というわけで,通信教育教材を開発している現場の皆さんと闊達な議論を展開し,私自身もまた刺激を受けて帰ってきた次第である。私にとっては,こうして大勢の人たちと一緒に仕事をすることが新鮮。たまにはこういう刺激もいい。