投稿者「rin」のアーカイブ

卯月2日目

4/1■内閣府世論調査「悪い方向に向かっていると思われる分野」教育が36.1%でトップ
4/2■有識者会議「美しい国づくり企画会議」メンバー発表
 せっかくの新年度なのに,嬉しいニュースでは始まってくれないらしい。だれか企画会議のメンバーが教育問題に触れないことを確約してくれないだろうか。あっちにもこっちにも公的な井戸端会議ができて賑やかなものである。

 本日は会議出席のため東大へ。入学式はまだだが,新年度の活動は徐々に始まる。早寝早起きの生活を安定維持していけるように気をつけていこう。

卯月1日目

 新しい年度が始まる。昭和のスターが去ったり,ポケットベルサービスが終了したり,大学教員の役職名が変わったりと,いろいろなことを経て始まる平成19年度だ。
 4月1日のユーモアを楽しむ機運は無くなっているのだろうか。もう少し上品で楽しくなるようなネタを準備すべきところ。準備不足と輪をかけた駄文で恐縮である。書く側にも読む側にも余裕が失われている以上,冗談は冗談にならないのかも知れない。

 さて,気を取り直して。いよいよ本年度から大学院生として学びなおし。あれこれ取り組みたいことはあるが,欲張らず地道に勉学・研究に励むことにしよう。

声明発表

 全国教育委員会事務局改革推進連絡連携協議会は,4月1日付で声明を発表した。どうやら,すっかりこんがらがってしまったこの国の教育問題の原因を整理した上で,抜本的な改革をすることに本気になるようだ。
 ご存知のように,教育の問題は様々な要素が複雑に絡み合ったり,同じような問題に見えても個別のケースで原因や採るべき対処方法が異なる場合がある。しかし,マスコミを始めとして,人々の問題の捉え方は単純化する傾向にあって,それがまた教育問題の複雑化に拍車をかけるもとともなっていた。

 そこで先の改革推進連絡連携協議会は,教育行政の中間或いは根幹に位置するともいえる教育委員会事務局として,問題の所在を教育制度の側面から整理し,教育委員会事務局自身の問題点を明らかにした。
 この目的は,教育議論の地平をクリアにすることによって,教育委員会事務局が取り組むべき改革を明確にすることである。一方で,何でもかんでも教育委員会事務局のせいだと問題をごっちゃにして批判する世論を牽制する意味合いも大きい。このままでは教育委員会事務局の予算カットや人員削減,果ては廃止論まで具体化しかねない,との危機感が教育委員会事務局側にある。

 そこで声明では,今月96億円をかけて行なわれる全国学力テストへの完全不参加を表明。不足分を地方が補うことを条件に予算残金で,全国都道府県市町村の教育委員会事務局と地域社会との関係など徹底的な教育実態調査を行なうことを決定したとある。
 この機会に一斉に膿を出し,地域の実情を明確にした上で地方自治体毎の教育行政に役立てることを提案している。また国家に対しても,そのような実証的なデータをもとに予算措置を行ない,教育予算自体の増額を求めていく姿勢をハッキリと表している。

 これまで国レベルで描かれた教育施策は,地域社会の実態も踏まえず,また伝達過程における様々なミスコミュニケーションの発生とも相まって,現実の教育をよりよく変化させるのに十分な結果を出せてこなかった。
 21世紀になって,地方分権の時代となり,いよいよこの問題に徹底的なメスを入れる必要があるとの問題意識が,教育委員会事務局や各地域の教育長もしくは首長のもとで醸成された結果,このような声明へとつながったようだ。
 これは現事務局や首長達による統一地方選挙へのパフォーマンスであるという見方もあり,まだまだ予断を許さないが,いずれにしても地方が本気になって教育問題に取り組むことが大事である,ということが形になった声明としては大きく評価できるのではないだろうか。
 今回の声明に対する反応として,全国保護者教育力向上委員会連絡会からも保護者の立場から協力できることを模索したいとのコメントがあったり,教職員取組改善連合などからも前向きに受け止めることが伝えられている。また一部の政府筋は,各レベルにおける緊急会議の必要性を示唆しており,こうした好機を作り出せなかった教育逆再生会議の解散と各省庁が採るべき前向きな対応策などの検討を始める必要があるとの考えが出始めていることを明らかにした。

 平成19年度,やっと教育が良い方向へ動き出すきっかけの年度となりそうだ。

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内部文書

 入手した教育逆再生会議の内部文書は驚くべき内容だった。すでに多くの識者が指摘や批判をしている通り,教育水準の衰退化による国民統制のし易さとコストの低減,地方分権による格差の確保と国家行政不備からのミスディレクションなどのシナリオが明確に記されている。
 会議の公開/非公開議論についても,最終的には非公開とすることは決定済みであったようだ。情報の枯渇によるマスコミ報道の特性は事前に分析し尽くされており,細分化された議題を小出しに分散報道させることが,結果的には一般の関心を低下させる効果をもたらすことが企図されている。
 文書に手書きで書き込みされたメモには,ツッパリ先生として知られる担当室長を利用するアイデアが示されていた。室長をマスコミ報道に登場させることで本人の自己顕示欲を満たし,一般ウケをねらいつつ,報道に関する問題が発生した場合には本人をスケープゴートに仕立てる方針のようだ。官僚としては,利用しやすく切りやすい人物を重要ポストに就けた方がやりやすいという慣習がある。そもそも過去の発言の不整合など問題をたくさん抱える彼はそれに適任というわけだ。
 内容や手書きメモ部分から,この内部文書は私たちがマスコミやWebサイトから見ることができるメンバーによって作成されたり,その中で配布されたものではないことは明らかである。
 文部化学省自体の解体論にまで触れている箇所があることから文化省側の関係者でないことは想像できるが,安部内閣周辺によるものか,内閣部に通じる関係者によるものなのか,あるいは自眠党関係者なのかはハッキリしない。
 いずれにせよ,安部首相という,この国の教育を壊してまでも憲法改正を達成し,後世に名を残すことこそ最終目的と考えている総理大臣のもと,内部文書に記されたシナリオが着々と進行している。教育逆再生会議に名を連ねる経済人達も,そのような方向性によって自らの事業が潤うことを歓迎しており,異を唱える教育者や研究者の発言の影響を薄めるためにも非公開は当然だったようだ。
 内部文書は次のように結ばれている。
 「今日,様々な問題が我が国の衰退現象として語られる。しかし,問題なのは人々の問題意識が高まり,疑念などによって行動効率が低下し,ひいては消費効率,経済効率が低下することにつながっていることである。まさに教育こそ問題である。
 我が国には,英語教育効果の抑制に成功してきた実績がある。このことによって日本語圏を枠組みとした経済市場の囲い込み体制を維持してきた。また,通訳・翻訳市場の活性化や,現状を維持できる範囲で民間英語教育市場の発展にも貢献した。
 我が国が今後も経済大国として持続し,再び世界でナンバー・ワンの地位を取り戻すためには,教育の効果を可能な限り抑制し,従順な愛国者,従順な消費者,従順な労働者を輩出しなければならない。そのためのレリバンスを高め,コストを低くすることこそ,我が国をかつての勢いにまで逆再生する唯一の途である。」

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春の来客

20070330_ueno 東京は一足早くに桜満開となった。春の訪れを感じながら上野公園にある桜並木を歩く。
 かつて同僚と3人で歩いた思い出の並木だ。3人とも職場を離れて新しい場所で頑張っている。複雑な思いがないわけではないが,結果的には良かったのだと信じよう。

 前職でお世話になった先生が来京。別の大学に移ったあとも私たちを可愛がってくださっている。「あなた私の息子同然なんだから」と焼き肉をご馳走していただいた。思い出話など,いろいろとお話をする。
 時代の移り変わりを語るとき,私たち若い世代は何を引き受けることができるのだろうかと考えてしまう。高齢社会,団塊世代の大量退職など,シニア世代の存在は今までにないほど注目を集めている。元気なうちはいい。けれども,衰退していく体力や気力という現実は,私たちが考えている以上に辛いものかも知れない。若い世代は,それに辛抱強く付き合うことができるのか。あるいはそんな話はたんなる杞憂なのか…。
 美味しい焼き肉を堪能。いや,ちょっと食べ過ぎた。とにかく幸せをいただいた。

 翌日,W先輩と待ち合わせする駅へ。打ち合わせの仕事を終えて向かうと聞いていたが,いつものスタイルで待ちかまえてらした。さすが,何があろうとゴーイング・マイ・ウェイなところは先輩らしい。
 在学時期が重なることはなかったが,出身大学の直属の先輩ということで,いつも気にかけてくださる。この頃の駄文が暗い雰囲気だったことも心配してくださっていて,会ったら「意外と元気そうでよかった」とのこと。
 やはり思い出話を含めて,今後のことなどいろいろ助言していただく。学術作法の修行不足について,しっかりと指摘されながら,この機会にしっかり身につけるように励まされる。気が多いという私の欠点もよく分かっていらっしゃる。

 いやはや先輩と話すと何より,この「教育らくがき」というブログを読んでいる人達の存在を聞かされる。遙かにスマートな人々に読まれるというのは,光栄でもあるが,私の浅はかさを見透かされていると思うと複雑な気分でもある。皆さん優しいから何も言わないが,「そりゃ違うでしょ,りんさん」と言いたいときも多々あろうことは,長らく駄文を書いていて不思議と空気が読めるものである。
 果たしてこんな駄文を今後も続けるべきかどうか。もっと理性的で,論理的で,確固とした根拠の基づく,健全な学術ベースの教育議論を目立たせていくことこそ大事なのではないか。そうも思う。
 とはいえ,あえて止めるとも続けるとも決める気はない。もはや駄文を書き続けて10年以上である。そのときが来たら,「ハイそれまでヨ」と消えればいいこと。

 「りん,わるいな,言い過ぎて」なんて先輩はいつものように温かい目で告げる。歳をとれば叱ってくれる人はどんどん居なくなる。そう思えば,その「言い過ぎた」言葉は有り難い。
 すっかり酔っぱらった先輩を一晩泊めて,翌朝もあれこれ語らう。昼食後,先輩と別れてから上野へ。桜並木を眺めながらゆっくり歩く。天気も良く,骨董市なども開かれて公園は賑やかだった。
 春,これから始まる物事に心馳せる季節である。

有り難いこと

 不思議なことは起こるもので,そんな出来事をきっかけに,感謝することの大事さを思い出すことがある。今朝もそんなことがあった。
 ここ数日,憂鬱な気分の連鎖に陥っていた。自分でも何故だか分からないが,物事がうまくかみ合わないことが続く。なるべく新しい環境に対して従順でありたいと思うが,下手に歳もとったから周囲に対してある種の威圧感を抱かせるのかも知れない。本当に場違いな迷い子になっちゃったかなぁと,悩まないといったら嘘になる。
 その上,いくつかの予定がキャンセルされて寂しい気分になる。残念な出来事は束になってやってくるなぁと,さらなる憂鬱にはまりかける。

 そんなところに,一本の電話。前職でお世話になった先生から「東京に行くから,今夜飲もう」とお誘いがあった。ああ,有り難い。想いは遠方より来たる。
 明日は学部の先輩が東京に出張されているので会うことになっている。いつも遠くから私のことを気にかけてくださっていることに改めて感謝。
 来年度からお世話になる指導教官の先生も,お忙しいのにかかわらず時間を取ってくださり,的確な意見やアドバイスをしてくださる。周りの皆さんも,仕方は様々とはいえ,案じてくださっているのだろう。有り難いことである。
 駄文をお読みになっている皆さんや家族からも,慮りを受けていることを見落としている自分がいた。どうしてその事をたびたび忘れてしまうのか。まだ意識の鍛錬が足りないのか…。精進しないと。

 こんなとき思う。人の視野の持ち方や感謝の気持ちに対する持続力について。高校時代,仏教系の学校だったこともあり般若心経を繰り返し唱えていた。卒業後もたびたび思い出して唱えてみたりしていたが,最近はすっかりその機会がない。深い理由もなく寂しいことかなと思う。
 特定の宗教に縛られているつもりはないが,そういう経験から,何かを無心に唱えるとか,何かを拠り所にするということについて,あれこれ考える機会は多い。
 有り難い出来事をきっかけに,見失っている想いや幸せを探してみるのはいいことだと思う。一方で,不機嫌な自分を抱えることがあっても,それだけじゃならないのは,たぶんこの点ではないかと思うのである。

「インテルの考える21世紀型スキルとは何か?」

 記事になることをすっかり忘れていたが,偶然見つけてしまったのでご紹介。インテル社の教員研修プログラムで行なわれた演習に関する記事である。お恥ずかしいことに写真に映ってしまった。
 教育家庭新聞の紙面に演習自体に関する記事があるそうなのだが,Web記事ではインテル社が盛んに掲げる「21世紀スキル」なるものが何かを探るものになっている。(Web記事「インテルの考える21世紀型スキルとは何か?」)
 この記者(ライター)の方は,自分でも情報関係の授業を大学などで担当されているそうで,論理的に考えようとするタイプの方だった。インタビュー中のやりとりを聞いていて,その細かい指摘に感心した。

 NHK「プロフェッショナル〜仕事の流儀」が新しい時間帯に移り,映画監督・宮崎駿氏が取り上げられていた。その職人仕事ぶりも見ていて感心する。映画作りに孤独が必要かという問いに宮崎氏はこう答えた。
 「僕は不機嫌でいたい人間なんです,本来。自分の考えに全部浸っていたいんです。だけどそれじゃならないなと思うから,なるべく笑顔を浮かべている人間なんですよ。みんなそういうものをもっているでしょう。そのときに,やさしい顔してますねとか,笑顔,浮かべていると思う?映画はそういう時間に作るんだよ」
 もちろん,宮崎監督の映画作りには,たくさんのスタッフとともに作業するフェーズがあって,協働で仕事をする場面がたくさんある。だから,その事を否定した言葉ではない。
 「不機嫌でいたい」というのは凄くよく分かる。そして「それじゃならないなと思う」というのも心情が凄く分かる。なぜ「それじゃならない」かということには人それぞれの理屈があるものだが。

 人にとって本当に必要な能力とは何だろうか。それは21世紀型スキルと称するものなのか,もしくはその中の一部なのか。あるいは,まったく異なるものなのか。
 天候や地震といった環境の問題が顕著に意識されるようになってきたこの世の中で,社会観そのものの問い直しの必要さえ感じさせる。周回遅れの意識が,もしかしたら最も必要とされているものに近い位置にいたとしたら…。
 ぼちぼち拡散している考えを整理し直す必要があるな。

弥生27日目

 東京で接する人と物事にザラザラしている部分があると書いてみたが,要するにこれまで自分の慣れていた手触りと異なることを意味するのだろう。
 そういえば,10年前にもコミュニケーションのプロトコルが一変したことに苦労したことがあった。学生から社会人になって,要求されていることが異なることに戸惑った。それは失敗を繰り返しながら慣れていったものだった。
 そしてまた一大変化である。案の定,今年に入っていくつか失敗する。素直に自己反省するしかない。

 いくつかのことに絡んで,伝聞は恐ろしいということも再確認する。羅生門的というか,藪の中的というか。自分もその事に振り回されがちになるが,もう一度心鎮めてやり直さなければならないと思った。
 さて,落ち込んでばかりいられない。誠心誠意頑張りましょう。

気晴らし散歩

 日曜日に研究会。米国航空宇宙局(NASA)の教育活動についての報告を聞いたりしていた。現場の先生の発言に「あたしゃガッカリだよ」という気分を感じなかったわけではないが,まあ,それが現実なのだろうと思うしかなかった。いろんな先生がいて,そういう多様な人々を認めて慮ることが大事なのだと肝に銘じよう。

 わかっている。最近,なんだか心がとげとげしくなっていることは。言い訳がましいことを書けば,この街で接する人や物事のザラザラした部分の多さに「ちょっぴり」うんざりしているせいでもある。これが東京という街の暗い面なのかと,ステレオタイプな感想をあてがって済ませてしまおうかどうしようか。
 考え込んでも仕方ないので,散歩に出かけた。桜を見るなどして,心和みたかった。

 『通販生活』で買った傘が壊れていたので,新宿カタログハウスの店に持って行って修理を頼むことにした。3年保証だから無料修理してくれるという。なんかホッとする。
 それから紀伊国屋書店とリニューアルしたジュンク堂新宿店に寄って書棚とにらめっこ。『現代思想』4月号が恒例の教育特集をしていたので買う。岡崎勝氏の論考タイトルがオフコースの歌詞をもじったものなのを見て,オフコースファンとしてはちょっと悲しかった。
 暖かいから桜もぼちぼち咲いてないかなと思い,桜を探して歩く。青山霊園が名所だというので歩いていったが,まだほとんど咲いていなかった。残念。

 自分が周りからガッカリされていることも分かっている。その事にどう対応するかは継続課題である。見えてきたことが増えてきた分だけ,見えなくなったものも多い。もうちょっと時間かかりそうだ。正直なところ,そんな悠長な時間がないことも承知しているのだけれど…。
 まあ,私も遅咲きなので,桜と同様に咲く苦しみを十分味わうことにしよう。

弥生22日目

 名古屋市の住所から転出し,東京都某区に転入した。ついで国民年金の変更手続き。窓口の端末画面を見ると「60歳まで287月」と表示されていた。月単位でカウントダウンされているのを見て,目の前に数直線が伸びる光景が浮かぶ。
 春から通う大学院に入学書類を提出した。今日は学位授与式,明日は卒業式があるらしく,学内のあちこちで記念撮影する人達を目にする。さて,私も2年後,同じように笑っていられるかどうか。いまは先輩諸氏の修了を祝福しよう。

 書店に寄って教育関係2冊。
 上田小次郎『公立炎上』(光文社ペーパーバック2007.3/952円+税)は,筆者の経験と様々な文献や情報提供をもとに現場の実態を綴ったとされるもの。トーンとしてかなりネガティブに書かれているし,構成もつぎはぎ感が強くて,読むと暗くなること請け合いである。
 藤原和博『校長先生になろう!』(日経BP社2007.3/1500円+税)は,ご存知「よのなか科」の藤原校長先生による書。これまで様々なところに書いた原稿と校長先生になるための完全マニュアルが含まれる。民間校長を3000人増やす構想を実現するため要となる本というわけだ。
 悲観的に語るか,楽観的に取り組もうと呼びかけるか。同じ事態に対して各人が取る態度は様々だ。その温度差の調整こそ,もっとも厄介な問題であることも全員が先刻承知である。ゆえに日本には「曖昧」という名の緩衝材が良くも悪くも活かされてきた伝統があるのかも知れない。
 ネガティブにとどまっている人々には少し休憩してもらいつつ,ポジティブに意欲のある人々が動けるところから(また誰かが動きやすい条件整備をしつつ)動いて現場に活力を取り戻すしかない。そんな空気が生まれれば,休憩していた人達もまた戻ってこればいいのである。もっとも自己研鑽をサボれば戻れないだろうけどね。

 のんびりとした希望的観測のもとで「いまの子ども達」はどうなるのよ!とお考えの皆さんもいらっしゃると思う。実際の個別的な対応は現場に任せるしかないし,誰もが納得する対応の仕方はないと諦めるしかない。
 再び健全な公教育を取り戻すには時間がかかる。もはやその立ち位置を誤魔化すことはできない。ならば,大人の私たちは,正しい選択をすることを約束し実行していくこと以外に,いかなる子ども達に対する義務を全うする方法はないと考えるべきだろう。何が正しいかは依然議論の余地があるにしても。