投稿者「rin」のアーカイブ

学部の授業

 月曜日は教育学部の授業に出席する。職業研究者をやってた人間がなんでまた学部の授業聞いているのか,呆れられるかも知れない。しかしまぁ,知識はぐるぐる世代交代しているから,無駄なことでもない。
 それに長らく教育界に携わっていて,素朴に思っていた謎を解明するためもある。いったい東京大学教育学部ではどんな教育学の授業をしているのか,という謎。大した謎じゃないかも知れないが,素朴に受けてみたかった。

 念願叶ってモグリで受講する。なるほど,こんな感じか。授業の雰囲気自体は他の大学と大きく違うということはなさそうだ。わりと普通っぽい。
 扱う内容も,もの凄いぶっ飛んでるかというと学部の授業なのでそんなこともない。ただ,やはり受講生の知的基礎体力の水準が高いからだろうか。言葉の細かい説明をする場面があまりない。先生方もごく普通に語れる感じなのは,微妙だけどちょっと違うところかも知れない。
 そんなわけで,復習のために学部授業を聞いていた。

 唯一履修手続きをした「放送とメディアリテラシー」という講義は,某公共放送のMさんが担当している授業。私の肩書きが先生から学生に変わっちゃった意地悪なシチュエーションを利用して,せっかくの機会なので学校放送の仕事を学ばせていただくことにした。Mさん,最初ちょっと嫌そうだった…^_^;
 今日は音響デザインについて。私たちは視覚情報をたくさん受けていて,重要な判断も多くは視覚にもとづくと考えがちである。けれども,実際にはかなり聴覚情報に頼っているのだということを教授いただいた。
 演劇に少しかじっていた経験からも,その指摘には同意できる。舞台は音先行でないと動かないことがあるからだ。
 授業では,音響がない映像と音響処理後の完成映像を比較することで,音響の大事さを実感できた。事実をよりリアリティをもって伝えるには,いくらかの再構成をしなければならない。こうした表現手法は,拡大していくとメディアとはなんぞやという大きな問題につながっていく予見が授業でも示されるのであるが,それはまた次回以降となる。

 宿題いっぱい…頑張らないと。

メディアとともに

 メディア関係の私的記録を2つほど。

 2月に西オーストラリア州・パースという街の周辺でメディアスタディ関連の学校視察を行なった。そのとき訪れた一校がOrange Grove Primary Schoolであった。
 この学校はポッドキャストを学習に積極的に取り入れていることで豪州内でも有名。定期的にポッドキャストの番組を子ども達が制作をして世界に発信している
 3月分であるエピソード11では静止画像入りのポッドキャストにも取り組んでいて,その回に私たち視察団の代表である中川一史先生がゲスト出演している。
 4月分エピソード12ではビデオポッドキャストにもチャレンジしていて,ますます活発のようだ。

 Intel教育支援プログラムについては以前ご紹介した。そのプログラムに関わる関係者による「MTクラブ」という集まりがあるのだが,そのフォーラムの様子がWebサイトに紹介された
 いままで教育支援プログラムは,どちらかというとインテル社が独り相撲しているように見えて,内部の活動はベールに包まれていた。
 今回の「MTクラブ活動報告」によって,このプログラムが実際の教育現場にどのように入り込んでいて,どんなネットワークを形成しているのか,その一端や雰囲気を知ってもらえるのではないか。
 実際,西洋の香りばかりするインテル教育支援プログラムのWebページ群の中,今回のページでやっと日本の教育現場の香りがするようになった気がしないだろうか。
 そしてこのガヤガヤ感に誘われて,もっといろんな方々にインテル教育支援プログラムと関わり合っていただきたいと思う。まさに「寄ってらっしゃい,見てらっしゃい」なのだ。
 唯一の問題点があるとすれば,わたくし林向達が最後に現れて,お恥ずかしい姿を晒していることか。今回の写真はどこかのマッドサイエンティストみたいな笑みである。やはり私は表に顔出すべき人間ではない。
 まあ,その部分は見て見ぬふりしていただいて,ぜひ日本におけるプログラムの利用や活用を盛り上げるのにご協力いただければと思うのである。

『最新教育基本用語2007年度』

 小学館から『最新教育基本用語』の2007年度版が発刊されていた。教育界の『現代用語の基礎知識』として継続的に発刊が続いていることは喜ばしいことである。教育関係者は手に取るべきである。
 最近の教育改革に関する解説も収録されているし,年表も有り難い。今回は巻末特集として「検証 平成の教育改革」という論考が編まれている。
 逆にもっと過去の出来事に関してはざっくりと切り捨てているので,他の出版社の『教育六法』はどうしても必要になるだろう。このシリーズの最初の版では昭和全体をカバーした年表もついていたし,学習指導要領の変遷についても紹介していただけに,そうした不易の部分が継承されないのは残念である。それも商売上,仕方ない選択なのだろう。

 「平成の教育改革」という特集を眺めると,あの神戸の事件から10年経ったことが分かる。事件の当事者に共感を覚えると答えた同年齢もいた,その世代も24歳ぐらいで多くは社会人になっているわけである。いつの間にやらである。
 教育研究の世界は,いよいよ混沌としてしまったと思う。個人の規範意識は,崩れたとはいわないまでも大きく質を変えている。複雑化する社会に対応するため教育に必要とされるリソースは莫大なのに公的な教育資金は減少の一途。単純にすぎる構図を描くマスコミに扇動された世論によって教育現場は振り回されっぱなしになった。
 結果的に,この国の公教育で起こったことは何かといえば,「教育の機会均等」の原則が,許容範囲を超えて崩壊してしまったことである。いろいろなものを教育に組み入れてきたとはいえ,日本はまだこの原則を放棄していないにも関わらずである。
 言葉と現実がこんなに乖離してしまったところで,言葉や言語を基盤とする学問世界が空回りするのも当然である。学問の細分化は必然的ともいえる。範囲限定のちっちゃいビジョンが乱立して,第三者にはますます理解不能となる。
 そして教育の学問や研究の成果を軽視する行為が何の躊躇いもなく実践される。その最たる例が「教育再生会議」であることは誰の目にも明らかである。「船頭多くして船山に上る」という諺の通りになっている。

 過ちや失敗の克服は,不断のコミュニケーション努力しか途はない。とはいえ,コミュニケーションほど人間にとって最大の難問はない。慮ることや自省することの域にコミュニケーション水準を持って行くことは,実のところかなり大変なことなのだと感じる。
 なんだか,平成を振り返って,また変な感慨にふけってしまった。

卯月14日目

 講義の第1週が終わる。金曜には学生っぽいアフターの時間を過ごしてみたりと,賑やかな一週間だった。来週は授業も本題に入り出して,いよいよ濃い日々が始まろうかというところである。
 テキストや参考図書が示され,いくつかは購入済み(積まれて読書待ち含む)であった。けれど,遠く実家方面の蔵書群に残してきたものもあり,いつ取りに行こうか悩ましい。そんなこと考えながら,部屋に散らかった文献を分野ごとに整理する作業をしていた。

 「学習科学」に関する参考文献を今一度おさらいしようと思う。と同時に「カリキュラム研究」に関しても見直しをする必要がある。授業研究やカリキュラム開発あたりの話は,どうも放っておくと某K先生あたりの成果に寄り掛かり気味になる傾向が周辺にはあるので,自分なりにバランスを取れるようにしたい。
 まあ,学習科学分野に関しても何か(日本の)文献はないかと眺めてみると,放送大学テキストのシリーズがずらずらと上がってきてしまうという寡占状態みたいなものがある。
 波多野,大浦,大島『学習科学』2004
 三宅なほみ『学習科学とテクノロジ』2003
 稲垣,鈴木,亀田『認知過程研究』2002
 波多野,永野,大浦『教授・学習過程論』2002
 大島,野島,波多野『教授・学習過程論』2006
 波多野,稲垣『発達と教育の心理学的基盤』2005
 これに米国学術研究推進会議編著による『授業を変える』(原題 How People Learn)北大路書房2002であるとか,わりと定番が決まっている。
 そうか,そう考えれば,攻めやすいのかも知れない。それぞれ断片的にしか読まなかったところがあるので,もう少し丁寧に読み返してみたい。

 心理学(特に認知心理学や学習科学)への理解を深めていくことによって教授学習という教育の営みを考えていこうというアプローチになる。文系寄りでやって来た頭を多少なりとも理系寄りに切り替える必要がある。
 佐伯,宮崎,佐藤,石黒『心理学と教育実践の間で』(東京大学出版会1998.9)は,この切り替え作業を若干は助けてくれるのかも知れない。これも読み直したい本の一冊か…。
 あとは「統計学」に正面切って挑むことになる。独学我流の限界(と書くと法則化運動っぽいな)を感じていたところだから,この機会に学び直せるのは嬉しい。でもたぶん道のり険しい。

 平成17年度教育課程実施状況調査の結果が公表された。新聞報道では「学力改善の方向」とかいう風に報道されている。
 経年変化を1回前との比較でしか見られない分析結果に対して評価的なコメントはできるはずもなく,慎重に見守るというほかない。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の実施も近く,それについての議論喧しいが,データを継続的に取り続けることの大切さは事前に実感し難いものである。

卯月11日目

 大学院生活が始まって一週間。講義は今週からなので3日受けたところ。おおよその時間割も見えてきたので,あちこちにお知らせをしないと…。結局,平日はほぼ毎日大学に出かけることになる。
 最初から駆け足調子でスタートしたのが,そのまま続いている感じ。たぶん,これを下げることなくペースアップしていくことになるんだろうなと思う。この4月中にうまくペースに乗っかることが大事なのだろう。
 そのうえキャンパスのあちこちで授業が開かれるので,移動するのも大変。散歩している分には気にならなかったが,授業の移動のためとなると急に距離が遠く感じられる。体力も大事みたいだ。

NHKアーカイブス

 朝から「NHKアーカイブス」の検索画面とにらめっこ。依頼あって過去の番組を探している。地道な作業を続けながら「ものごと最後にゃ手作業だな」と思う。
 「NHKアーカイブス」は,NHKが放送してきた番組を保管管理する部署で,一部は公開されているので然るべき場所で視聴することができる(最近,全国の放送局でも見られるようになった)。約37万番組がアーカイブズとして扱われているが,その中で視聴できるのは約6000番組だそうだ。

 今年の2月からは,番組をインターネット経由でWeb検索ができるようになっていた。NHKアーカイブスに登録されないものもあり,それらの番組は検索できないが,そうでなければ放送日といった番組概要を得ることができる。
 検索システムは開発途上中といったところだが,情報内容の方もデータベース検索を前提としていたわけではない時代もあって,見直しは必要みたい。
 Googleとは異なり,こういうものは機械的な単純検索なので,たとえば教育問題に関する番組を検索するために「教育」というキーワードを入力しても「教育テレビ・スペシャル」なんて帯タイトル付いてたら,何でも検索に引っかかってしまう。
 立花隆氏が連載記事の「第95回 明治の「バラバラ事件」もヒット 読売新聞の記事DBを体感」で新聞データベースのキーワードを地道な手作業でつけた効用について興奮気味に語っている。私もたまに,丁寧な手作業無きところにイノベーションは無い,のではないかと思う。

 ちなみにNHKアーカイブスを教育活用しようという試みは「タブレットPCとNHK映像を使う「世界初」の授業、東大が公開」といったものがある(この試みについては他にも「東京大学が考えるナレッジワーカー育成の王道」というコラムなどがある)。
 私たちがお世話になった学校放送も,土曜日の深夜に「学校デジタルライブラリー」という番組で,現場に使ってもらえそうな映像コンテンツを淡々と流し続けて頑張っている。
 過去の財産は膨大で,まともに関われば人生丸ごとかかってしまう。けれども,音楽ライブラリの世界にiTunesやiPodがやってきて,膨大なライブラリとのつきあい方を変えたように,映像ライブラリの世界にもそのような変化が間もなく訪れるのかも知れない。
 そのためにはまだまだマシンパワーや技術の進歩と様々な事務的な問題のクリアが必要だ。それは,まさしく「丁寧な手作業」に他ならない。

卯月6日目

 朝起きて,報告書を書き上げなきゃと思い,コツコツ書いてたら,用事一つすっぽかしてしまった。ああ,恥ずかしい失敗をしてしまった。やっぱり頭のネジがゆるみっぱなしかも知れない。
 とにかく書いてた報告書を仕上げてメールで送る。情報の真偽を確かめるためにもっと調べたかったけれど,時間がいくらあっても足りないので,言い回しをぼかしたり,情報を捨てたりして,諦めるしかなかった。

 本日は先輩達が修士論文の途中経過を発表する会が催された。1年後には同じ事を私もすることになるわけで,どんな雰囲気かを知るためにも発表を聴いて回った。
 学際情報学府は,文理混在した研究科なので,発表内容は文字通り広範囲に及び,関心の幅が広い人にとっては極めて刺激的な時間であった。もともと教育学のカリキュラム研究畑に居た,気の多い私のような人間には,世界の奥深さを再確認する良い機会にもなった。こういう多彩なもの達を,どうやればねじ伏せて見渡せる地平に持ってこれるのか。カリキュラム論的にいろいろ考えられそうだ。

 なんて余所余所しく書きっぱなしではいられない。いよいよ来週から授業スタート。ネジしめてかからないと…。

入学式

 今日は入学式。行ってきま〜す。

 平成19年度東京大学大学院入学式が本郷キャンパス安田講堂で行なわれた。入れ替えで2回行なわれ,総長式辞と研究科長式辞を聴く。いよいよ東京大学大学院学際情報学府の大学院生としての生活が始まった。
 小宮山総長の式辞はシンプルだが印象的であった。配布された東京大学憲章とアクションプラン2006を紹介し,東京大学が「世界における知の頂点を目指す」ための両輪であると位置づけた。

 知の頂点を目指すために必要なものは何か。「知識」あるいは学識ももちろん大事ではあるが,むしろ「勇気」が大事であると総長は説く。
 この「勇気」には3つの勇気が含まれているという。「孤独を恐れぬ勇気」「功を焦らぬ勇気」「他流試合に挑む勇気」の3つである。
 「孤独を恐れぬ勇気」は,自らの研究テーマを追究する際,細分化された研究コミュニティや学問体系において,ますます他者の理解を得ることが困難になっているという状況に耐えるため必要である。
 「功を焦らぬ勇気」は,ともすれば業績数を増やすことが目的になってしまう風潮に抗して,どれだけ自らの研究行為に誠実であれるかという際に必要なものである。論文発表は手段なのであって目的ではない。
 「他流試合に挑む勇気」は,他者との学術的な論争を恐れず積極的に論を交わすことで,自らの研究の弱点を埋めたり,研ぎ澄ませていくために必要である。特に世界水準の研究を目指す以上,海外の研究者との他流試合にも挑むべきである。
(正式な記録はこちら「平成19年度 東京大学大学院入学式総長式辞」)

 午後からは各研究科毎のガイダンスが行なわれた。お待ちかねの学生証を受け取り,時間割や授業シラバスなどの説明を聴く。考えていたよりもハードな毎日が待っているみたいだ。
 主な施設を案内されたあと,コース別の説明会。30名ほどの新しい顔ぶれの自己紹介やこれからの大学院生活の流れを再度詳しくレクチャーされる。先輩の経験談なども聴いた。よくばって授業を取りすぎると自分の時間が無くなるから注意した方がいいと強調されていた。バランスは難しい。
 その後,先輩方による新入生歓迎会が行なわれ,立食形式で歓談する。多様な分野が混在する学際情報学府という大学院は,他のコースやゼミとの交流が少なくなりがちなところもあるので,積極的に関わっていくことが大事になる。
 ビンゴゲームも工夫が凝らされて(名前ビンゴゲームになっていた),お互いが挨拶したりコミュニケートするチャンスをつくれるようになっていた。孤独になる大切さとともに,つながれる仲間が存在することも大事なのだと思う。
 歓迎会が終わり,ゼミ室に戻る。一緒に入った新しいゼミ仲間と一緒に授業のとり方など先輩からアドバイスを受けながら思案する。新しい電子メールアドレスの設定や図書館利用の書類など,あれこれ気に掛けていたら夜の9時を回っていたので,帰路につく。

 丸一日の入学行事が終わる。間髪入れずに翌日には先輩方の修士論文経過発表会があるし,来週からは授業も始まる。初心に戻って走り出すしかない。