東京大学大学院学際情報学府では5月19日(土)に入試説明会を開催します(告知ページ)。私も昨年,この説明会に参加して慌ただしく受験準備をした思い出があります。
東京大学に入るのとは少し違って,東京大学大学院ですので,研究に対する強い意欲をお持ちの方に対して,門戸は広く開かれていると思います。ご興味のある方は,是非お越しください。
特に来年度から新しい学舎「福武ホール」の利用が始まり,学際情報学府の大学院生にとって利用しやすい居場所ができることになります。新しい施設で大学院生活をスタートさせるチャンスです。
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学際情報学府は,理系文系分野が「情報学」というキーワードで繋がれた学際的な研究科です。文理それぞれに自らの領域を深めている人たちもいれば,学際的領域で広い視野を取り込んだ研究を進めている人たちもいます。
それゆえ,学際情報学府について知るためには,どんな先生方がいて,それぞれの研究室がどんな研究に関心を持っているのかを知る必要があります。説明会プログラム最後にある「学環・学府めぐり」では,研究室単位で教官と大学院生が皆様に取り組んでいることを知ってもらえるように簡単なプレゼンを準備しています。気軽に覗いていただければと思います。
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ちなみに私が所属しているのは文化・人間情報学コースの山内(祐平)研究室です。山内研究室と連携している研究室として中原(淳)研究室もあります。所属メンバーの研究テーマは多様ですが,「教育」や「学習」というキーワードに少しでも関係しそうであれば,ご一緒できる可能性があると思います。
この機会に東京大学大学院にいらっしゃいませ。
投稿者「rin」のアーカイブ
能鑑賞
能鑑賞に誘われた。テレビのチャネルを変える過程でチラッと見るのを除けば,能を見た経験はなかったので,今回能に接するよいチャンスをもらったことになる。
少々遅刻をしてたどり着いた国立能楽堂は千駄ケ谷駅の近くにある。本日の演目は狂言「飛越」と能「須磨源氏」だそうだ。
能というと独特なテンポでセリフをまわしていくうえに,眠たくなるというイメージがある。実際,途中何度か意識を失った。いやはや,昔の人はあれだけ間延びしたようなセリフを聞いて内容がわかったんだろうか。
けれども、実は能は途中で眠ってもよいのだという。もともとこの世とあの世が混ざり合うような内容のもので,あの独自な調子も,実は観ている者をそうした世の往復へ誘うためだという(私の理解が正しければ…)。
そんなわけで,存分にトリップしながら能を楽しませていただいた。どちらかというと途中から観た狂言の方が面白そうではあった。楽器も何もないセリフだけの短い演目である分,その調子が面白く感じられた。
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今回の能鑑賞は海外からの来賓の観光に便乗したもの。英国ブライトン大学のAvril Loveless教授が,札幌で行われる日本教育工学会研究会で特別講演をするために来日している。
以前からいろんな先生方が「アブリルさん」「アブリルさん」とブログに書いたり口にしていたので,そういう方がいらっしゃるのはわかっていたが,英国まで出かけた1月にも会うことはなかったので,今回初めてお会いすることになった。とてもほっそりとして優しそうな英国女性。私の拙い英語にも笑顔で接してくださった。
今回の観光や講演の通訳には関西大学大学院の岸さんが活躍されている。英語も堪能だが,「アラビア語の通訳ならもっとできます」という強者である。学会などでよくお会いするようになったが,その才能の欠片でもわけて欲しいと思う。
能の「序破急」の構成について岸さんが英語でいろいろ説明するのに難儀する中で,「破」の部分に対するアブリルさんの理解がパッと明るくなったのは面白い状況だった。同じワールドにおける異なるディメンションの混在がもたらす「破」の状況設定について,日本の映画を理解するのにも興味深い解釈を得たみたいだった。
さまざまな言語におけるライティングの論旨展開について,英語は直線で日本語は螺旋だという有名な対比があるが,それにも通じるものがあるのだろう。
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能は長さが約80分で,物語は大変シンプルである。シンプルゆえに意識は遠のくが,その遠のきこそに能の神髄があり,そして演目が終わり舞台から演者が誰もいなくなった「無」によって完結するところなどは,「シンプル」という片仮名語を使うことを拒む,むしろ「洗練」された日本芸能文化の極みを見るべきなのだろう。
また機会があったら行きたいと思った。
企業と付き合う
東京に出てきて,自分を取り巻く状況で変ったことはいろいろある。分かりやすいところでは,いくつかの企業とお仕事をするようになったことである。その事には,メリットもあれば,デメリットもある。今のところ深刻なデメリットはない。むしろ今後の教育世界を考えれば,教育のことを考えてくれる企業と関係することは,とても大事なことだと思う。
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「教育或いは学校は,企業と関係を関係を持たない」ことが定常状態か理想だと考えられている節が,社会通念みたいなところにある。組織目的の違いもあって相容れない部分は多いし,日本の様々な法律が「特定の」何かのためにする活動やら何やらを禁じていることもあって,学校が営利を目的とする私企業と距離を置いているのは確かである。
けれども現実に,教育や学校は深く社会に根ざしているがゆえに,企業との関係を古くから維持してきたことは明白である。私立学校の中には,その設立から企業が深く関わっているものもある。公立学校も対価を払い,教科書や学校の備品は一般の私企業から供給してもらっている。それぞれの家庭は,必要と判断して自費で私塾に子どもを通わせているところもあろう。
もし教育に企業が関わらないのであれば,私たちは今日普通に運営している教育活動を実現することはできない。まずはその大前提について再認識をしたい。
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その上で,なぜ私たちは,企業が教育の領域に関わることに一瞬の抵抗感や違和感を抱くのだろう。その心性は,どんな事柄を原因として成り立っているのだろう。
教育に対し企業が関わることが必須であるのに,そのことに戸惑いを感じるとしたら,それは実際の「関わり方とその目的」に何かしら不安を感じるからかも知れない。適正に関わる分には問題とならないのに,場合によって不安を抱くとすれば,それは教育の本来的な目的から外れた「関わり方」や「関わりの目的」の可能性を心配するからではないだろうか。
そもそも企業が活動するフィールドは資本主義原理を基盤としている。企業活動の目的は,株式会社の場合であれば,利益を上げて出資者に配当することである。もちろん単に念じていてもお金は入ってこないため,企業は活動の目的やら内容を明確化して,それに従って実際の経済活動することを通して利益を上げる必要がある。
企業の経済活動は,特定の株主や社員の利益を目的とした「営利」活動と見なされる。一方,たとえば義務教育であれば,全ての国民が無償で等しく受ける権利を持つものという「非営利・平等」さが前提とされている。教育の世界では「特定の誰かが得をしちゃいけない」という理念が根強いわけである。このことが,教育における企業との関係性を遠く隔てる元凶になっている。
けれども,教育も企業も社会の構成主体である以上,関係を持たないわけにはいかない。そもそも営利活動と非営利・平等とが共存できないわけではない。両者の目的が互いに脅かされない限りにおいて,組織形態の違いを超えた連携はむしろ妥当な社会活動として奨励されるべきである。それが私たちの住む「社会」という場である。今日,企業の社会貢献活動が重要視されているのも,その事を再認識した現れである。
そのような共存において「互いの目的が阻害されない」ためにも,教育の側は企業の活動を幅広く観察しかつ注意深く吟味し,適切なサジェスチョンを与える術を持つべきである。また企業側も教育活動の本質を理解した上で,教育そのものに不利益が生じないよう活動を律する倫理を持たなくてはならない。
そのような緊張関係のもとで初めて,教育と企業の連携という言葉は意味を持ちうるし,それぞれの不安や抵抗感を取り除くことが可能になるのだと考えられる。
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前職で複数業者とやりとりをする仕事をしたことがある。業者とのつきあい方は難しい。だから,緊張感を持って臨まなければならないと心掛けていた。もちろん緩急はあったにしても,相手の提案内容に対しては別案の可能性を問いかけたり,こちらも勉強して業者の知らない情報を提供することで,お互いにダレないようにした思い出がある。
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先般行なわれた全国学力・学習状況調査に2つの業者が関わったことは,ここでもご紹介した。私はそれを糾弾するために紹介したわけではない。そこに2つの企業が関わっていることを知っておくことが大事だと思ったからである。それはそれらの企業に対して緊張感を持ってもらうためであるとともに,私たち自身が緊張感を持つために大事だと思うからである。
今回の例だけをとって,私企業に個人情報が流れるという懸念を大きく取り上げ問題にしようとしているところもある。その取り上げ方はある意味で悪くない。互いに緊張感を持つための一つの方途になるからだ。けれども,この取り上げ方はミスディレクションを起こしてしまう意味で悪く働く。こうした企業が教育に大きく貢献している真っ当な部分を,まったく見ないまま評価を下し,そのくせサジェスチョンも対案も出さず,何もしない「ダラけた」態度に荷担するからである。
「20世紀まではそうした態度でも通用した」と譲るにしても,今日は21世紀である。山積みの問題が悪影響を顕在化させ,世代間での利益格差も顕著になってきた時代において,こういうダラけた態度はもっとも害多きものである。
だからこそ教育に関わる人間は,短絡的な思考に陥ることなく,自分自身の手足や頭を使って物事を見極めていく努力を怠ってはならないのである。
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私が企業の方々と仕事をするようになって,得たメリットは企業側の努力が見えるようになったことである。そこで展開するジレンマについても知るようになった。もちろん「そりゃ違うでしょ」と感じる瞬間が無い訳じゃなく,それは職業柄当然なので,それも含めて教育の目的に沿うようサジェストしていくことが私の役目だと思う。
一方のデメリットは,駄文を書くときに配慮すべき事柄が増えたかなということである。好き勝手に書き続けている駄文であり,場合によっては過激なときもあるが,いくらかは配慮しながら書いてきたつもりである。それが,知り得た事柄について今まで以上に配慮しながら書くようになったのかも知れない。あんまり変ってないかも知れ無いけど…。
いずれにしても,私がお会いしている方々は,それぞれが真っ当に努力し,企業活動を通して教育に貢献しようとされている。その個々人に対して,私は私なりに緊張感を持って接することが求められているのだなと考えて関わっている。
それゆえに私自身は,自分が必要とされなくなれば関係を終わらせることについて異論はないし,仮に直接的に仕事をしなくなっても,間接的には社会の構成員の仲間として連携していくことは変らないと思っている。
だからこそ,緊張感は絶えず持っていたいし,今後も自分のできる範囲のことで誠実に付き合えればと思うのである。まあ,振られたら傷心旅行にでも出かければいいさ。
御礼
ポッドキャストのリスナー数が1000人を超えました。実数ではないにしても,このマイナーサイトにとって延べ1000人なんて数字は非常に大きいです。まずは怖いもの聞きたさでクリックしていただいた皆様に感謝。
ポッドキャストの今後の展開は未定ですが,いつかは研究にもつなげられるように発展させたいです。学術研究と現場をつなげる一つのメディアになると面白いかも知れませんね。某○EATで採用してくれないかな。
新規性はどこに
ゼミ発表が近いが準備がなかなか進まない。現実逃避行為だけ捗ってしまう。現場教師の支援につながる研究を組み立てたいものの,めぼしい部分には先行成果もあって,新規性を得るのは難しい。
論文作成の基本が頭で分かっていても,いざ実際に取組むとなると苦労は桁違いである。手順として先行研究を漁るわけだが,すればするほど憂鬱になる。自分が思いつきそうなことは,すでに人が思いついているものだ。そう簡単に新しい課題が設定できるわけでもない。
自分の問題意識をもっと絞り込んで焦点化していくことが迫られる。残された細かな問題に新しい課題を設定していくことで新規性を得るしかないか。あるいは,まったくちゃぶ台をひっくり返すか。さすがにちゃぶ台返しは修士でやるべきでないか。
とりあえず自分の関心の原点に戻ってみることにする。迷ったら最初に戻ろう。
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やるべき事柄が右肩上がりで増加している。何事も挑戦と経験だと思う悪い癖のせい。落ち着け自分。
教育らくがきPodcast No.007
第7回は教育改革関連3法案などのお話。
ナントほぼ1年ぶりのポッドキャストですか。いやはやいろんなことが変化した1年でした。私も晴れて大学院生になりましたしね。そして昨年には教育基本法も改正されてしまいました。いま3法案なるものが審議されています。
久し振りの収録は,まあとにかくテキトーにやっていますので,いつも通り,こっそりお楽しみください。
■← krp007_20070506.m4a (3.1MB)
皐月2日目
GWの前半は実家に帰省。必要な書類や蔵書を東京に持っていく準備をした。休むときは休もうということで,それ以外の時間はボーッと実家で過ごした。本当にボーッとした。そしてちょっと買い物した。
蔵書分散問題はしばらく悩み続けそうだ。大学に図書館があるとはいうものの,使いでのある文献は取り合い状態だったりもするし,手持ちに常備できる利便性には敵わない。もっとも「本に振り回されてる」と言ったのは,蔵書に埋もれて見るに堪えない部屋の惨状を呆れる母親。本当のことはいつでも耳が痛い。
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前の職場から同窓会報が送られてきていた。依頼されて書いた原稿が掲載されている。私もすっかり過去の人扱い。辞めて,東京で大学院生をしているなんて,卒業生達が読んだらビックリしているに違いない。サプライズ,サプライズ。
もはや教え子達と再会する機会はないが,同じ時代に生きている限り,元気で頑張っていて欲しいと思う。それが教育に携わる人間が最後に拠り所とする心情だ。
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段ボールでいくらかの蔵書を郵送し,手持ちであれこれ抱えて東京に戻った。GWの平日だから名古屋の地下鉄は学校帰りの学生で溢れ,新幹線の到着した東京駅には明日からの連休後半に帰省する人々の人集り,山手線は会社帰りの人々でごった返していた。どれにも属さずに土地を移動するのは不思議な気分になる。
いくつもの現実を眺め,それぞれに想像をめぐらし,生き方の多様性を尊重していくこと。そこには厳しさと同時に生きやすさがあらねばならないと思う。私たちの携わる教育はそれを指向しているだろうか。それに耐えうる施策を打ち出しているのだろうか。税源移譲に代表される地方分権の流れの中で,その事は共有されているだろうか。あるいは共有できるのだろうか。
自分が取組むべき事柄の前提をどこに設定すべきか。迷いに迷うGWである。
トニーはいつ叫んだのか
ゴールデンウェーク突入。慌ただしさに任せて始まった2007年度も,ちょっとホッとする時間の到来である。ここで調子を崩してしまうか,態勢を整えられるかが人によって別れてしまう。うまく乗り越えたいところだ。もっとも宿題や課題も山積みなので,あんまり休めないけど…。
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書店にぶらり。阿部菜穂子『イギリス「教育改革」の教訓』(岩波ブックレット2007.4/480円+税)(→amazon)を手にした。イギリスの教育に関する新しい動向を含んだ参考文献として良い一冊だ。手軽に入手できるのもいい。
本の内容の基調は,サッチャー保守党政権から(そしてメジャー保守党政権)のイギリス教育改革が,ブレア労働党政権へと続く今日までにもたらした変化とその副作用に関して報告するというものだ。イギリスにとって改革は必要だったのだが,その改革によって逼迫した教育現場の実態を見据えるフェーズに入っているということである。
サッチャーやブレアの名の残し方を羨ましく思ったのか,どこかの国の総理大臣は,イギリスの教育改革を真似させるように動いているようだ。しかし,長らくほったらかしでロクなリソースを与えられてこなかった文部科学省は人手が足らずにてんてこ舞いだし,我こそ船頭だと思っている17人を集めた教育再生会議は当然の如く船山にのぼってしまった。内閣府は手持ちの調査統計データ等を使って援護射撃してるようにも見えるが,実はわざと誤射して気に入らないところをねらい撃ちという感じだ。この人達全員,名前は残せても尊敬されないんだろうな。
よって本書は,イギリスの教育改革の今を知らせるとともに,それを真似ようとする日本の教育改革に対して,再考を促すものとなっている。
イギリスの教育関係者がフィンランドの教育に注目して目指そうとしているというのは少し驚きだった。本の結末としてフィンランドの教育から学ぼうという落とし方には新鮮味が無く少々残念ではあったが,かつて自由に教育を行なっていた歴史のあるイギリスでさえ,フィンランドを意識しているという事実は重く受け止めるべきなのかも知れない。
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ところで,この本でもブレア政権が重要課題として述べた「エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション」という言葉について触れている。
(1)「一九九七年五月に発足したブレア労働党政権は,教育を最重視してサッチャー教育改革を引き継いだ。ブレア首相が就任時,「(政権の重要課題は)エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション(教育,教育,そして教育)」と述べたことはよく知られている。」(阿部菜穂子『イギリス「教育改革」の教訓』8頁)
いま手元にある文献で似たような部分を引用しよう。
(2)「二期目を迎えたブレア政権,その重要な公約としてブレア首相は教育改革に取り組むことを宣言していた。演説会場では「教育!教育!そして教育!」と三度声を張りあげてくり返し,教育問題の改革こそが二十一世紀イギリスの最重要課題であることを強調していたのである。」(小林章夫『教育とは』13頁)
(3)「ブレアーは,演説で自らの政策の重点を「エヂュケーション,エヂュケーョン,エヂュケーション!」と語り,「政策のトップに教育をかかげた最初の首相」となった。」(佐貫浩『イギリスの教育改革と日本』191頁)
(4)「1997年に保守党に代わって労働党政権が樹立された。首相になったのは,オックスフォード大学出身の,まだ43歳という若きブレアであった。ブレアは総選挙中に「新しい労働党の重要政策は三つある。教育,教育,教育である」と何度も述べ,教育が最優先課題であることを強調していた。」(二宮皓『世界の学校』99頁)
4つほどあげたが,どれもハッキリとした発言場所を明らかにしているとはいえない。これ以外の資料がパッと揃わないので恐縮だが,Webで検索してみても芳しい情報は得られない。
ただ,Wikipediaには次のような記述があった。
(5)「At the 1996 Labour Party conference, Blair stated that his three top priorities on coming to office were “education, education and education”.」(Wikipedia項目「Tony Blair」より)
就任前という点で(4)と(5)の記述には整合性を見つけられる。しかし,もともと信頼性の疑わしいWikipediaである。一次ソースがないかを探すべきだろう。この駄文を書いている深夜で調べられるのはWebくらいなものなので,労働党とイギリス首相官邸(10 Downing Street)のホームページ等を確認してみる。
残念ながら労働党に関しては1997年頃の記録を公式ページから見つけることはできなかった。1997年となるとインターネットも普及し始めて間もない頃であるから,情報が乏しいのは仕方ない。
一方,首相就任時やそれ以降で「education, education, education」と叫んだスピーチ記録があるかどうかを探してみたが,Webに掲載されている範囲でのスピーチ記録にその文言を見つけることはできなかった。未収録演説があるのかどうかは定かではないが,感触としては首相スピーチがこの文言の初登場の場ではなさそうな気がする。
というわけで,トニー・ブレアの有名な「education, education, and education」は,言葉自体は知られているが,いつ叫ばれたものであるかは,実のところみんな曖昧だったりするのである。
(追記20070429)まったく分からないというわけでもない。Web検索をして見つかる周辺証拠的には1996年10月1日の党大会スピーチでこの言葉が発せられたのではないかと推察される。たとえばこのBBC資料にはそう引用されている。
全国学力・学習状況調査
「全国学力・学習状況調査」2007年4月24日火曜実施
採点集計業者
小学校 ベネッセコーポレーション
中学校 NTTデータ
問題・正答・出題趣旨
読売新聞(PDF)
朝日新聞(Flash Paper)
調査の穴
4月24日は「全国学力・学習状況調査」の実施日である。新聞報道によれば全国3万2756校の小中学校が参加するという。これは対象となる3万3104校の98.95%にあたるらしい。
思うに私たちのテスト嫌いは筋金入り。ん?もしかしたら私たちは逆説的にはテストが大好きなのか。よい点数を取る事への飽くなき執念。そんな私たちだから長い年月テストを止めなければならなかったのかも知れない。
テストや調査で「よい成績を出したい」心理。言い換えれば「ありのままを出せない」病。匿名性を好む特性がこんなところにも表れているのだろうか。
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京都市教委が,パソコンを使った教科指導の実態調査において,指導できる100%となった過去の実績を継続させるために,回答内容を回答者に見直しさせたというニュースも報道された。
朝日新聞社asahi.comの記事に掲載された京都市教委情報化推進総合センター担当者のコメントは唖然とする。曰く「文科省の趣旨に沿ったアンケート結果を求めるためには必要な指示だった。違和感があるかどうかは個人の受け止め方の問題だ」と。
この担当者の置かれたシチュエーションを想像するのは容易い。けれども,「現状調査」の趣旨と「文科省が推進する教育の情報化」の趣旨とは,別物であるはずなのにこの言い訳である。
メディアに突っ込まれても,とりあえずそれっぽくコメントしておけばのど元過ぎれば熱さを忘れるとでも思っているのだろう。むしろ,思っているんじゃなくて,脊椎でそう動くようになっているのであろう。こういう人々を追い詰めても,最後に出てくるのは「何も考えてませんでした」という白けた結末である(脊椎で動いてるんだから,そりゃそうだ)。
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全国学力・学習状況調査については,小学校6年生と中学校3年生の全員が受ける「全数調査(悉皆調査)」である必然性がないとよく言われる。
私たちも統計学の授業でそのように習うし,実際,これほどの大予算を掛けて得られる成果はないことは明らかである。
それでも全数調査をするのは,それが純粋な研究調査ではなく,行政調査だからである。もうちょっといえば,ここにも政治の季節が到来しているというだけである。理屈ではないということ。
衆議院教育再生特別委員会でも,民間委託に関する質問などやりとりが行なわれて,直接的ではないがこの問題に関する様々な思惑や疑惑が見え隠れしている。他の分野に比べればマシではないかと思うのだがどうだろう。
とにかく試験前夜の今夜は,あちらもこちらも関係者はピリピリしている。何事もなく終わることを祈ろう。
そして,大事なのは終わった後なのだということを,誰もが意識しなければならない。