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タッチデバイス教育利用WSに向けて

 9月18日(土)18:00〜19:30,愛知県名古屋にある金城学院大学にて,日本教育工学会ワークショップが開催される。そのプログラムの一つとして「タッチデバイスの教育利用 ~新しい技術やデバイスに注目と関心が集まる現象と実相を考える」がある。

 流行りものに手を出したお調子者は,私である。

 ワークショップ(WS)で何をするつもりなのか。

 iPhoneやiPadを持ち寄って教育利用の方法を考える…という月並みなネタを(自由枠とはいえ)学会の場でするつもりはない。

 WS目的は,私たちの「ミスディレクション」を少なくする方策を考えることである。

 ミスディレクションとは何のことか。

 ある対象を論じる際の見方の偏向をもたらす働き全般である。何かしらの誘導ともいえるし,欺きともいえる。

 たとえば「新しいデバイスが教育を革新する」という文言は,意味的にも論理的にも飛躍を含んでいる点で問題だが,同時に,事実の有無とは無関係に,ある種の心理的な誘導を生ずる点でも問題をはらんでいる。

 「デジタル教科書でなければならない理由が見当たらない。印刷教科書でできていることを変える必要がどこにあるのか」といった文言は,一見,正当な指摘に感じられるが,デジタル教科書と印刷教科書の関係を排他的に置いている前提が問われず,「他方の否定」を肯定する枠組みに人々を追い込んでしまう。

 いま,こうした「ミスディレクション」が至る所で展開し,人々の解釈枠組みを振り回したり,規定してしまったりしている。

 本来,学術研究の領域は,こうした混沌とした言説に向けて,適切な補助線を提示することが求められているのではなかろうか。

 しかし,たとえば「教育の情報化」という範囲の大きく,かつ,歴史の長いテーマについてでさえ,学術界は外部に対して明確なメッセージを発してこれたとは言い難い。結果的に,政治行政の世界から学問は排除されてきた。

 補助線提示の先行事例として私が常々挙げるのは,AERAの「Research Points」である。これはアメリカ教育学会が学術研究成果を教育政策につなげようとして出している出版物である。

 あるテーマに関して,現在どのような研究成果があり,責任研究者による捉え方を端的にまとめた研究要約論文が公開されている。行政に携わる人々が,こうした知見を踏まえることを促す努力の一端である。

 皆さんもネット上で海外の研究成果をニュースとして見ることがあるだろう。最近でいえば「ネット接続時間の22.7%はソーシャルメディアに割かれていた」といった類の話題があった。

 このようにある研究成果が話題になることは,米国に限らず日本でも時々あるのだが,海外発の話題の方が量的にも伝搬力においても優勢のように感じられる(残念ながらその根拠は手もとになく印象論である…)。

 私が企画したWSは,進行中の事態を事例として,このようなことを指摘した上で,新しい研究対象に対する学術研究のあり方を考えていこうというものである。そのための具体例として,タッチデバイスの教育利用を取り上げ,また実際に,そのことについても(アクロバティックな進行にはなるが)同時に皆さんと考えていきたいと思っている。

 という難しい話はあるにはあるが,私はiPad持ってきて,ぐりぐりデモンストレーションしちゃうのだ。あとは質素に暮らします ^_^;

みんなのデジタル教科書教育研究会Liveを終えて

 7月31日土曜日の夜に,「みんなのデジタル教科書教育研究会」のメンバーによるUstream生放送を行なった。略して「デジ教研Live」である。

 「みんなのデジタル教科書教育研究会」(以下,デジ教研)は,立場を問わずデジタル教科書が入り込む教育について関心のある人々が集って意見交換や議論を共有する目的で始まった。会費は無料の有志集団である。

 一方,企業・団体が集まって立ち上げられたのが「デジタル教科書教材協議会」(DiTT:ディット)という民間組織である。そちらは法人会員のみのいわゆる業界団体だ。設立シンポジウムは世間の注目を集めたし,今後様々な動きを見せるのだろうけれども,個人が関わることを前提にはしていない。

 デジ教研は,「デジタル教科書」というテーマを,関心のある人たちの手もとに引き寄せて,私たちも考えていこうという思いを形にしたものだと,私は理解している。

 Twitterやメール(メーリングリスト),掲示板を使ったやりとりが少しずつ始まっており,興味深い意見も交わされている。

 願わくは,会が賑やかに継続していくことを期待しているのだが,私自身の経験上,文字ベースのコミュニケーションには山あり谷あり,次第に勢いが衰えて,疎遠気味になる事例も珍しくない。

 たとえば,早い時期にあるテーマの議論が済んでいると,会の新参者が同じテーマを議論する際に「すでにそのテーマは扱いました」とか「アーカイブに議論がまとめてあるから読んどいて」みたいな対応を受けてしまいがちだ。

 議論がまとめてあるのは有り難い話だが,会の趣旨である意見交換や議論を共有したことにはならないのではないか。単に情報を共有することだけでなく,一緒に考えていく経験(端的に言えば時間)を共有することも必要なのだと思う。

 (もっともそれを曲解すると国会や審議会の審議みたいに「○時間審議したから十分」という身も蓋もない根拠に使われることになるけれど…)

 そういう場合,会の活動を活発化させるアイデアとしては,会報を定期的に発行するとか,集会や研究会を開くとか,イベントを開催するとか,そういう類の活動刺激をつくっていくことである。

 デジ教研は全国にメンバーが散らばっているので,どこかに集まることは難しいし,普段から文字ベースでコミュニケーションしているのだから,いまさら会報を出すのも新鮮みがない。

 というわけで,だったらUstream番組を定期的につくっていくことで,声のコミュニケーションを取り入れてはどうだろうかと思った次第である。Twitterと縁の深いUstreamを使わない手はない。発想は安易だが,よいアイデアだと思った。

 発起人の片山さんなどに投げかけたら,好感触だったので,さっさと日にちを決めて実験放送を実行することにした。それが7月31日だったというわけである。

 デジ教研Liveは,当初Skypeの会議通話を使って,複数の人たちと会話しながら,その音声をUstreamで放送する予定だった。私は技術調整係として,Skypeをホストし,Ustreamに流す仕事をすればいいだろうと考えていた。

 ところが,いざ会議通話を使ってみると,たった3人の会話さえうまく交わせないことがわかった。マシンの非力さか,回線の細さか,理由は様々だろうが,当初の予定通りにはできなくなった。

 Ustreamへの送出は私が担当していることもあって,私がSkypeでいろんな人の話を聞くというスタイルで進むことになった。

 第一部は,「みんなのデジタル教科書教育研究会」発起人である片山さんとおしゃべりをした。デジタル教科書が話題になってきたいきさつや会の紹介を目的としたものである。
 片山さんは,新潟の小学校の先生であり,地域の情報教育の研究にも尽力されている現場のエキスパート。そんな片山さんが呼びかけをした会だから,現場の先生方のメンバーも多いことが特徴だ。そこに様々な分野のメンバーが加わって,会の幅が広がっている。

 第二部第三部は,山形の大学に勤められているスットコさんにいろいろ話を聞いた。情報技術と教育の関わりについて長らく追いかけられている経験からデジタル教科書と教育の関係についてや,ご自身の取り組みも含めておしゃべりいただいた。
 スットコさんは,コンピュータネットワークを活かした教育を注視している研究者であると同時に,Twitterからは電子楽器やVJといったデジタル・カルチャーの実践者としての顔も見える。

 第四部は,再び片山さんにご登場願って,感想を聞いたり,補助教材の実際について解説いただいたりした。こうした現場の様子を語っていただくことも大事かなと思う。

 一旦,放送はここで終わる事にしたのだが,放送前から手伝ってくださると約束していた方がいたので,その方を待って,強引に第五部をスタートした。

 第五部は,山梨で公立図書館の館長さん(指定管理者館長が正式なのかな?)をされている丸山さんにご登場いただいた。図書館の立場から見たデジタル教科書や教育の情報化に関しておしゃべりしていただいた。
 教育現場と関係しながら,また違った角度からのお話は興味深いものであり,丸山さん自身が開発者という経験をお持ちで,知のエコシステムといった大きな枠組みに関する議論につなげて考えられていたりと,刺激的な話題が多かった。お疲れのところ申し訳なかったけれど,ご登場いただけたのは幸運だった。

 というわけで,実験放送のつもりが,一晩にお三方のお話をお伺いすることができ,しかもリアルタイムで30名程度の聴取者とTwitterのコメントにも恵まれ,大成功の内に幕を閉じた。

 こうやって,いろんな人たちの声を素直に伺ってみるだけでも,今までの議論をもう一度振り返ったり考え直したりできるし,もしかしたら新しい視点を得られるかもしれない。デジ教研Liveの可能性はいろいろ広がっているように思えた。

 どうしてもこれまでデジタル教科書は,ソフトバンクの孫正義さんとか,慶應義塾大学の中村伊知哉さんとか,それから,蔭山英男さんや藤原和博さんといった有名どころの人々ばかりが発信している話が話題になりがちであった。

 けれども,現場に近いところの人々の発信する話の方が,もっと現実的だし,もっと面白かったりするし,もっと刺激的だったりする。

 デジ教研Liveの活動は,デジタル教科書に対する人々の声を引き出す,とても大事な取り組みの一つになるように思う。私もできる限りお手伝いしたい。

 デジ教研Liveは,有志が多元的に展開する取り組みなので,もし「私も誰かの話を伺って放送してみたい」と思ったなら,会のUstチャネルを借りて実践することができる。

 そうした活動にも関心がある人は,「みんなのデジタル教科書教育研究会」に参加して挑戦してみてはいかがだろうか。

 個人的には,どこかの小学生や中学生も会に参加してくれて,デジタル教科書に関する調べ学習の中でインタビューを放送してくれても面白いなと思う。

デジタル教科書実現のために

 議論のために意識しておきたいことは先回書いた。

 その後,デジタル教科書教材協議会の設立シンポが開かれ,私自身もUstreamで会の進行を見ることができた。

 協議会設立シンポ自体は,登壇者の持論という部分では目新しいものがあったわけではないが,今後の前向きな取り組みを期待させる雰囲気のよいものであったと思う。元東大総長であり協議会の初代会長となった小宮山氏の見識も,この会の方向性をよい方向に導いてくれそうだったことが好感につながっている。

 さて,丁寧な議論が必要である一方,現実を動かすためのアグレッシブな取り組みも同時に必要であることは,明らかである。

 私が議論のために慎重さを求めると「懐疑派・否定派・抵抗勢力」側に立つと思われやすいのだが,実際のところ物事の実現のためには結構積極派でもある。

 要するにブレーキとアクセルを1人のドライバーが操作するのと同じ事。私は教習所の教官的にブレーキだけ踏む人ではないのである(もちろんそういう役回りが必要なときもあるが…)。

 というわけで,私の周りにあった「点と点」を結びつけることで,いくつかの取り組みにチャレンジすることにした。

 まずは,9月の日本教育工学会でワークショップの場が提供されるのであるが,そこで「タッチデバイスの教育利用」というテーマのワークショップを開催することとなった。夕刻の90分だけだが,学会以外の皆さんにも参加していただける企画である。ワークショップという名前は,あまり気にしなくてもいいと思う。あれこれご一緒に考えましょうという感じで十分。

 次に,デジタル教科書教材協議会の実証実験に参加表明することになった。実は,この分野に関心のある人々の中に,私の地元である愛知県尾張旭市とゆかりのある関係者が3人いて,Twitterで意気投合してしまった。ならば,来年予定されている実証実験やモデル校をやるのの協力をしようということになった。9月の学会は名古屋であるし,自分の出身地のためと思えば力も入る。

 そして,有志が集まった「みんなのデジタル教科書教育研究会」で,ネット番組による交流,情報発信をしてみてはどうかと提案した。文字だけのコミュニケーションだけだと,どんどん敷居が高くなったり,難しくなったりしがちだが,ざっくばらんに「しゃべる」機会を短くとも定期的に持つことで,会の活動の刺激にもなるのではないかと思った。そのお手伝いをする。

 こうやって,議論のためのプラットフォームづくりや活性化を通して,デジタル教科書の実現に貢献することも大事だと考えている。モデル校や実証実験にも関われれば研究者として本望だ。

 いろいろなことがうまく展開するよう頑張ろう。

デジタル教科書議論のために

 明日(27日),民間の「デジタル教科書教材協議会」が設立され,そのシンポジウムが開催される。有力者や有識者が集う教育の情報化推進の動きだけに,これまでのものとは注目度が違う。

 これと連動するように「みんなのデジタル教科書教育研究会」という有志による会も結成され,こうした動きに関心のある人々同士で垣根のない情報交換する活動を展開し始めている。

 明後日(28日)には,文部科学省「学校教育の情報化に関する懇談会」の第8回が開催され,先に示された「教育の情報化ビジョン骨子(案)」に関する討議を行なう予定である。

 その他にも,総務省の動きIT戦略本部の新IT戦略などが平行している。

 電子書籍やデジタル教科書の動向について自分なりに追いかけてきた私にしてみると,こうした動きは歓迎すべき側面と憂慮すべき側面の両方があって,注意しながら様子を見ている。

 気になったり,考えていることは,次のようなことである。

 ・これまでの教育の情報化に関する取り組みの到達点と残した課題についての整理がないか,少なくとも共有されないまま議論がスタートしている。(先行事例との継続性の無さ)

 ・校務の情報化や学習の情報化などの取り組みに優先順位を付けて,取り組みやすいところから順次目標達成していくべきなのに,児童生徒による活用や学力向上目的の利用というハードルの高いところに注力して足踏みをしてきたことを忘れて,児童生徒用のデジタル教科書を優先して考えている。(優勢順位付けの無さ)

 ・今後ますます,地方の教育行政のあり方が,学校教育に光としても影としても差してくる。問題は,地方の現状と展望に照らして,いかなる学校教育および教育の情報化を具現化するかであり,それを可能にする国家的な施策とは何かを明らかにしなければならないがビジョン素案にはそうした視点が欠けている。(国と地方との乖離)

 ・デジタル教科書のハードウェア要件を絞り込むといった議論は,「デジタル教科書問題」という全体テーマのイメージを共有する手段として意義はあるが,現実的には意味がないこと。(ミスディレクション効果)

 ・道具や教材教具はまず提供されてから善し悪しを磨き上げていくものであり,こうも事前に盛り上がるのは,端的に教育的な理由以外の要素が多く混在しているからである。こうした複雑な問題を見通すための情報提供が少ない。(議論吟味のための情報の無さ)

 etc…

 日本の学校教育は,日本自体が世界の中で相対的に沈下していくのに引っ張られる形で沈んでいるのだと思う。しかも国内で地域間格差が生じながら。

 デジタル教科書は,学習指導要領や検定教科書によって保たれてきた全国一律の教育水準と機会提供という看板を降ろしたところで本格的に普及していく教育・学習のツールになると考えられる。

 それはつまり,地域(とそこでの教育)にとってICTや情報化とは何かがはっきりしてこなければならないこととも関連している。

 もちろん,デジタル教科書を推進する理由の一つには,経済活性化のために文教市場をもっと拓きたいという人々の思惑もある。それがナショナルブランドやメーカーによって占められるものか,地方の商業にも果実を落とすことになるのかはデザイン次第だ。

 いずれにしても地域にとって何かしらのメリットをもたらさない限りは,デジタル教科書も教育の情報化も,学校教育に根付いていかないだろう。それが結局は,日本国民をさらに世界から取り残す結果を招くことにもなる。

 日本人は何をとるのか,その具体的到達目標が明確にされないまま,とりあえず21世紀の学びは大事ねという曖昧な総論賛成状態では,また十年後にリセット状態から教育の情報化を議論することになるのだろう。

 デジタル教科書議論が,お互いの腹を割って,教育のため,商売のため,地方のため,政局のためという構成要素を明らかにしながら,それでもなお,共通のプラットフォームで議論する努力のもと展開していくことを願う。

教育は投資

 そろそろ授業も,拡げた風呂敷を畳んでケリをつける時期。

 今日は教育学講義で久し振りにビデオを見た。iPadにあれこれ映像ソースを溜めておくと講義の際に見せるのも楽ちんである(一方,アナログ放送が終わり,地上デジタルになると,テレビ番組を使いたい教育現場は大変困る)。

 昨年10月に放送された「セーフティーネット・クライシス第3回しのびよる貧困 子どもを救えるか」を学生達と一緒に観て考えていく。鳩山内閣が短命に終わって,かなり状況も変わってしまったけれど,子ども達が直面している貧困の問題が根本的に解消したわけではないので,観る意義はあると考えた。

 学生達の感想を読むと,皆一様に驚いていた。

 私よりも小中高校生に近い存在である大学生たちが,こうした現実がどこかにある事に驚きを感じるというのは,本人たちの問題というよりも,日本のあちこちにオブラートを張り巡らされているような社会であるせいだろう。

 番組はわかりやすい構成で,小学校や高校,そして家庭で起こっている子ども達の貧困状況,フィンランドの教育改革,そして駄目押しで日本の待機児童の問題のビデオが流れ,パネラーのコメントが挟まれ進行していく。

 もともと社会保障などを抑制し,経済成長を基調として企業や家庭がセーフティーネットを支えてきた日本のあり方が,立ち行かなくなっている現実を指摘する。問題は,教育が公的に投資ではなく負担と捉えられ,私的な支出で賄うものだと考えるマインドが根付いてしまっていることである。その点を指摘しているので,私個人はこの番組を評価して授業で使っている。

 幸い,子ども手当や高校授業料無償化がスタートして,この問題に対する大事な一歩を踏み出しはしたのだが,私たちに教育を支えていくというマインドが醸成され始めたかといえば,それはやはり「お上の決めたこと」。

 選挙まっただ中,マニフェストを覗いてみても,どこもかしこも野暮ったいことしか書かなくなっていることに,私たちはもっと怒るべきなのだが,忙しさにすっかり絡め捕られている日々なのである。

 それに,この国にある教育のリソースは,人も物も考えも不十分で,投資に見合うかどうかを判断するところで大きな懸念が立ち上ってしまう。

 だから,今ごろになって,教員資質の向上を考え直しているし,学校環境整備をやらないといけないし,教育課程も見直さなきゃと慌てている。

 要するに裏を返せば,どれも投資に見合うようにはバージョンアップしてこなかったということである。

 だとしたら,制度的な緩和でも何でもして,プラットフォームをオープンにして,外から有望なリソースを持ち込んでくることも現実的に考えなければならないが,それも生理的な拒否反応を示しそうな,そんなこの国である。

 それでも私は,学校教育がある程度オープンになるというか,既存部分のいくらかを放棄してもらって,そこに新しい流れを打ち立てていく,そんな構図で変わっていくのではないかと思っている。

 おそらく私たちが「これまで日本の教育を支えてきたもの」と考えているものを放棄しなければならないと思っている。それが学習棄却という形で実現するのか,権益放棄という形で実現するのか,人員転換という形で実現するのかは,正直分からないし,それは人々の選択の問題だと考えている。

 研究者としては,学習棄却あたりで苦労してもらって,新しいプラットフォームに日本の学校教育が乗っかればいいなと穏便に考えたい気持ちが大きい。けれども,為政者や納税者にすれば,クビ切りが一番かも知れないから,そういう立場の違う人々とどう社会創造を共有するか,その問題も解かなければならないかも知れない。

 相変わらず先行きが見えないということだけはハッキリしている。

 p.s.テレビ東京系「ガイヤの夜明け」で子育てをテーマにした回があった。こちらも観てから教材に使えるか検討してみよう。

「生活」とは何なのか

 先日,賞与をいただいた。

 その名前に値することをしているのかどうかは,いまいちピンとはこないが,毎日職場に通う継続性に対して与えられているのだと素直に納得しておきたい。

 もっとも,iPadやら何やらの先行投資が多すぎて,大半はその支払いに消えていく。そして,学会費やら家賃やら税金やら借金やらを払うと,ほぼ消滅する。

 それでもわずかに余裕が出来るから,久し振りに夏用スラックスを買ったり,生活雑貨を買い込んだりした。相変わらず本や雑誌も買った。

 けれども最近,本をじっくり読む余裕が失われた。

 調べものの文献資料を「漁る」ことや「掘る」ことはする。ネット検索も組み合わせて,情報を集めては記録していく。ネタ帳に書き込まれて使われる機会を待つものや,授業のレジュメ資料として紹介されていくものもある。

 けれども,じっくり対峙することが確実に少なくなっている。

 特定の理由があるわけではない。強いてあげれば,自己管理能力の無さに他ならない。とはいえ,新しい環境への適応作業がまだ続いているという事実も否定できない。

 新しい職場の2年目。初年に比べれば授業は楽なはずと思いきや,細かな変数が変わってしまって,調整の必要な授業が多かった。教職科目と情報科目を5種類も同時並行するのは,私みたいな人間には骨の折れる仕事である。

 その上,自分の関心テーマを追いかけようというのだから,時間的にはかなりきつくなる。「生活」部分はかなり放ったらかしである。

 そして,あらためて「生活」とは何なのか疑問が立ち上る。

 選挙の投票日が間近に迫り,すでに期日前投票も始まって,選挙戦は白熱している。「国民の皆さんの生活のために」と叫ばれるときの「生活」とは何なのかと思うことも多い。

 円やドルが強い時代は終わり,元が強くなりつつある新しい世界が始まっている。いわゆるグローバル社会に突入した今,日本で生活するということにどんな変化を強いられるのか私たちはまだ自覚的(事態の理解を踏まえて対処しようとする)ではない。

 医療も教育も優先できない生活とは何なのかと思う。家賃と食費と光熱費を払えれば御の字,むしろ税金を支払うために,そうした生活費に回すことさえ出来ない人たちもいる。税金すら払えない人もいる。

 同じ「生活」という言葉でも,まったく異なる世界が広がっている。

 以前の私は,働き口もないまま本当の意味で底辺に落ちる可能性があった。どちらかといえば,そちらの可能性の方が大きかった。

 だというのに,今こうして職に就いてお給料をいただける状況に置いてもらっている。そのことをやはり感謝せずにはいられない。

 ただ,また慌ただしい日々を過ごす中で,なかなか形にできない様々なアイデアや意気込みが宙ぶらりんになっていることを,苦々しくも思う。

 恩返しは,賞与がいくらあっても足りないものである。

文月四日

 週末は賑やかに過ごした。

 職場のすぐ近くにあるコミュニティFMの開局記念生放送があったので,ちょっと出入りをしていた。

 番組に出るのは土曜の午前中だったが,金曜の夜に担当者に会いに寄ったら,「(番組に)出ていきません?」と言われて,あれよあれよと生放送に出演していた。しかも控室はビール飲み放題状態。賑やかな空気とビールにつられてすっかり居座っていた。

 いつの間にか家に帰って寝ていたらしく,目が覚めて時計を見ると出演時間40分前!やっちまった,と思いながら飛び起きて行水して,身支度をして急いでラジオ局に向かった。幸い放送時間には間に合った。

 iPhoneやAndroid携帯などのスマートフォンについて話を振られて,今までの携帯との違いやその便利さ,プログラミングやiPadの話題まで,いろいろしゃべった。リクエスト曲はEPOのDOWN TOWNであった。土曜日だからね。

 本来はその日,徳島県らしく,阿波踊りの有名団体が一挙集合して競演するという一台企画が会ったのだけれども,天気が悪くなって残念ながら中止。屋台やら何やら到着するのを待っていたが,生放送以外はイベントが何もなくなったので,仕方なく昼食を食べに出かけてから解散することになった。

 スポーツで世間が湧いたと思ったら,スポーツがスポーツを賭けの対象にして世間を失望させたり,あれこれスポーツ界が落ち着かない。

 そして,来週は参院選挙投票日。当日の投票が難しそうなので,期日前投票をする予定。いつものことだが,判断の難しい選挙だ。

 久し振りにMacのOSをクリーンインストールした。あらかじめ「タイムマシーン」というバックアップ機能で退避しておくと,データはもちろんアプリケーションなども丸ごと保存されるので,復活も楽である。やってみたら,ハードディスクの空き領域がかなり空いた。

 さてと,明日からまた働くか。

頼まれ出演

 土曜日にコミュニティFMに出演することになった。頼まれたというか,誘われたので,こちらも二つ返事で参加表明した。

 徳島にあるFM眉山(B-FM)が14周年記念の34時間生放送をするのだという(→番組表)。その中の土曜日10:00から1時間の「ハイテクAWA」という枠に出演する。

 同じ職場の先生と共演。別に何をしゃべってもよいみたいだけど,番組名からすればメディア系の話をして欲しいような淡い空気が漂ってくるので,メディアとかITとかのことを話すことになりそう。共演の先生は「地域メディア」についてお話するらしい。

 まあ,iPadとかiPhoneがらみのことをお話することになりそうだ。その流れでソーシャルメディアについて触れて,共演の先生にお渡しすればよいかなと思う。

 ハイテク…といいながら諸事情でTwitterもUSTREAMも実使用は遠慮してくれということなので,話だけで終わりそうだが,私は気にせず勝手につぶやくからいいや。

頼まれ原稿

 しばらく精神的には缶詰めになって原稿を書いていた。いくつか書いた文章を読んで依頼をしてくれた様子。何事もご縁だし,素性の分かりやすい相手だったので気楽に引き受けた。

 依頼内容は昨今の教育の情報化に関して書いて欲しいというもの。ちょうど関心もあったし,ここらで一度見返しておきたい事柄でもあったので,あれこれ情報のウラを取り直していたというわけなのである。

 字数制限もあるので,大した内容は盛り込めないから,調べた範囲は日本の教育の情報化と,韓国のデジタル教科書,そして英国のインタラクティブホワイトボードの周辺に限定した。

 そうやって,筋だけでも裏付けできる資料を特定しながら,大まかな流れがわかるように原稿を書いたのだが,ものの見事にボツ。

 「専門家向きではなく初心者にも分かるようにお願いします…」

 むむむ,初心者にも分かるように書いたつもりだが,これは一体どういうことか。いままでもたびたび自分の文章が堅いと思われていることは承知しているが,またなのか…。

 いろいろ考えて,駄文を書けばよいことに気がついた。要するに相手は物語を欲しているのである。正しい知識は余計なお世話なのだ。

 まあ,そうなると私にとっては仕事ではない。原稿料は後ほど断ることにして,いつもの駄文を寄附するつもりで書き直した。

 そうしたら,すんなりOK。

 ただ,あんまりプライド無く書いたものだから,最後の部分「教育研究者としての先生の忌憚の無いご主張を」と注文をもらった。ひとくさり懸念を書いて再提出したところである。

 読者層の限られたインナーコミュニティ向けメディアに載る記事なので,その人たちに伝わる形にしなければならないのは仕方ない。主義主張を曲げろと言われれば依頼を断るところだけれど,もし問題に関心を持ってくれる人が増えてくれるなら,小さな貢献仕事としては引き受けてよかったと思う。

韓国デジタル教科書

 とある仕事の中で、韓国のデジタル教科書について触れる部分があったので、念のために情報のウラを取り始めた。出来るだけ一次情報に近い所の文言を確認したいが、頼りになるのはネットだけ。限界あるのも承知しているが、とにかく可能な限り情報を掘り出していく。

 すでに韓国デジタル教科書の公式サイトはブックマークしてあったし、研究校も探してあったので、そこら辺を中心に情報を引き出す。残念ながら韓国語並びにハングルはほとんど分からないので、ネット翻訳がフル活躍だ。以前、韓国の人たちもネット翻訳で堂々と日本語サイトにアクセスして、情報交換していることを聞いたことがあるので、私も活用してみた。

 幸い、研究校は詳しく情報発信をしてくれているので、実証実験の様子を遠い地にいながら、少し垣間見ることができた。

 韓国のデジタル教科書は様々なマルチメディア学習コンテンツとインタラクティブなワークノート、オーサリングツールとネット端末機能を総合したデバイスとなっている。

 もともと韓国にはEDUNETという教育情報インフラシステムが稼動しており、デジタル教科書もこれと連携したシステムとして構築されている。

 ご存知の通り、韓国はマイクロソフト製品を国の基盤システムに据えているので、ほとんどWindowsベースなのだが、コンテンツ管理システム自体はオープンに作られているので、デジタル教科書にはLinux版も用意されて、同時に開発が進められている状態である。(まあ、Linuxで動けば、Macで動かすのも難しくは無い。動かすだけなら…)

 子どもたちは、国語や算数、社会や英語活動等で一人一台タブレットPCを目の前におき、デジタル教室にある70インチ以上の大スクリーンを合わせて見ながら授業を受ける。

 いくつかの動画を見る限りにおいて、先進校の小学5、6年生だし、訪問慣れしているだろうことも手伝って、一斉と個別の混在した授業は一応成立していた。しかし、授業題目によっては、教室の統制をどうとるのか悩ましい問題もありそうだ。日本の授業の組み立て方だと、かなり難しいかもしれない。

 デジタル教科書開発とそのための授業方法の開発が研究目的なので、もちろん良い所ばかりでなく、不都合な点や問題点を明らかにする活動もしている。バグ報告掲示板や定期的に行われる調査や試験、実践公開に関する情報発信も学校によって程度の差はあるが行なわれている。調査はアンケートやヒヤリング等が併用され、調査事項は学習効果に関することはもちろん、ソフトウェアの使いやすさとUIに関すること、デバイスの使用によって引き起こされる健康上の問題はないか、心理的な負荷はないかなどを調べる調査まで、実に様々である。

 こうした実験校の発信している情報をみると、対外的なショーケースに過ぎないとはいえ、デジタル教科書に対する韓国の本気度を少し信じてしまいたくなる。まあ、それでこそショーケースなのだけれども…

 はたして日本のデジタル教科書普及に手を上げている人々が、どの辺まで本気を持続させようと思って取り組み始めているのか、私はまだ計りかねている。十年後もそこに留まって見守ってくれてるほど教育の人でもないだろうし、だからと言って日本や教育を思って力を注ごうとしてくれている事は否定すべきではないし…。私は相変わらず遠回りしながら片方で応援しつつも、片方で問うていくことしかできそうにない。