教育は投資

 そろそろ授業も,拡げた風呂敷を畳んでケリをつける時期。

 今日は教育学講義で久し振りにビデオを見た。iPadにあれこれ映像ソースを溜めておくと講義の際に見せるのも楽ちんである(一方,アナログ放送が終わり,地上デジタルになると,テレビ番組を使いたい教育現場は大変困る)。

 昨年10月に放送された「セーフティーネット・クライシス第3回しのびよる貧困 子どもを救えるか」を学生達と一緒に観て考えていく。鳩山内閣が短命に終わって,かなり状況も変わってしまったけれど,子ども達が直面している貧困の問題が根本的に解消したわけではないので,観る意義はあると考えた。

 学生達の感想を読むと,皆一様に驚いていた。

 私よりも小中高校生に近い存在である大学生たちが,こうした現実がどこかにある事に驚きを感じるというのは,本人たちの問題というよりも,日本のあちこちにオブラートを張り巡らされているような社会であるせいだろう。

 番組はわかりやすい構成で,小学校や高校,そして家庭で起こっている子ども達の貧困状況,フィンランドの教育改革,そして駄目押しで日本の待機児童の問題のビデオが流れ,パネラーのコメントが挟まれ進行していく。

 もともと社会保障などを抑制し,経済成長を基調として企業や家庭がセーフティーネットを支えてきた日本のあり方が,立ち行かなくなっている現実を指摘する。問題は,教育が公的に投資ではなく負担と捉えられ,私的な支出で賄うものだと考えるマインドが根付いてしまっていることである。その点を指摘しているので,私個人はこの番組を評価して授業で使っている。

 幸い,子ども手当や高校授業料無償化がスタートして,この問題に対する大事な一歩を踏み出しはしたのだが,私たちに教育を支えていくというマインドが醸成され始めたかといえば,それはやはり「お上の決めたこと」。

 選挙まっただ中,マニフェストを覗いてみても,どこもかしこも野暮ったいことしか書かなくなっていることに,私たちはもっと怒るべきなのだが,忙しさにすっかり絡め捕られている日々なのである。

 それに,この国にある教育のリソースは,人も物も考えも不十分で,投資に見合うかどうかを判断するところで大きな懸念が立ち上ってしまう。

 だから,今ごろになって,教員資質の向上を考え直しているし,学校環境整備をやらないといけないし,教育課程も見直さなきゃと慌てている。

 要するに裏を返せば,どれも投資に見合うようにはバージョンアップしてこなかったということである。

 だとしたら,制度的な緩和でも何でもして,プラットフォームをオープンにして,外から有望なリソースを持ち込んでくることも現実的に考えなければならないが,それも生理的な拒否反応を示しそうな,そんなこの国である。

 それでも私は,学校教育がある程度オープンになるというか,既存部分のいくらかを放棄してもらって,そこに新しい流れを打ち立てていく,そんな構図で変わっていくのではないかと思っている。

 おそらく私たちが「これまで日本の教育を支えてきたもの」と考えているものを放棄しなければならないと思っている。それが学習棄却という形で実現するのか,権益放棄という形で実現するのか,人員転換という形で実現するのかは,正直分からないし,それは人々の選択の問題だと考えている。

 研究者としては,学習棄却あたりで苦労してもらって,新しいプラットフォームに日本の学校教育が乗っかればいいなと穏便に考えたい気持ちが大きい。けれども,為政者や納税者にすれば,クビ切りが一番かも知れないから,そういう立場の違う人々とどう社会創造を共有するか,その問題も解かなければならないかも知れない。

 相変わらず先行きが見えないということだけはハッキリしている。

 p.s.テレビ東京系「ガイヤの夜明け」で子育てをテーマにした回があった。こちらも観てから教材に使えるか検討してみよう。