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自尊感情を高める「評価」とは

 2006年の駄文群が,少々湿っぽくて内向的なのは,私個人を取り巻く状況を考えると仕方ないことかも知れない。読まれる諸氏にはうんざりする話かも知れないが,まあ,止まない雨はないと思ってお付き合い願えればと思う。
 さてと,自分を見つめ直す作業を続けながら,深みにはまっているといったところ。モノローグな私は,よせばいいのにさらに奥深くへと入り込んでみたりする。速水敏彦氏の『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書2006/720円+税)なんかを手がかりに,いろいろ自己分析をしてみるのだ。
 長い前置きは省略して,自尊感情と仮想的有能感(他者軽視)の高低を二次元座標化してつくった4分類を参照する。「全能型」「自尊型」「仮想型」「萎縮型」の4つ。で,2006年の私のモードは萎縮型になっているのかなとぼんやり考えてみたりするのである。
 もっとも私はこういう座標分類を見ると「遷移できる」と考える質だし,実際その遷移を統計調査することが一つの研究になるわけだから,分類結果を固定的に考える必要はないと思っている。
 興味深いのはこの新書に,4分類に関する年齢区分毎の比率変化グラフが掲載されていて,萎縮型というのが中高生をピークにして年齢と共に最も低い比率に推移していくらしいということだ。要するに,自分の心理状態が萎縮型にあるとしたら,それは中高生レベルに戻ってしまっていますよ,ということである。いやぁ,若いねぇ〜,って照れてる場合じゃない。いい歳をして,ちょっと恥ずかしいことかも知れない。
 ただ誤解して欲しくないが,萎縮型の心性にあるのは悪いことばかりではない。問題は萎縮型からどちらの型に遷移しようとしているのか,そのベクトルの在り方をうまく捉えることが大事なのである。それ次第で,「石橋をたたいて渡る」慎重さを持つタイプとして長所を生かせるかも知れないし,もしかしたら「他人を見下して口だけ」達者なタイプとして場を乱してしまうかも知れない。それはたぶん自分自身もそうだし,状況にも依存することだと思う。
 ただ,この本も全般的に触れていることだが,自尊感情を高めることや他者軽視を抑えるために必要な「評価」にかかわる経験は,だいぶ多様化してきてしまって,この問題を難しくしている。なるほど(後付解釈としての)肯定的な他者から評価や自己評価の経験が自尊感情を高め,かつ良い連鎖としての肯定的な他者への評価を増やすということ(自尊型への遷移)はあり得ることだ。速水氏はさらに,しつけを回復すること,多くの人達に直接触れて自由にコミュニケーションする場を増やすことを提案している。
 ところが,自尊感情を高めるはずの肯定的評価そのものを根拠づける仕組みをたどり始めると,プツンと糸が切れてしまうのである。「何を根拠にものを言っているのか」という問いは,突き詰めすぎると全てを跡形もなく砕いてしまう。だから,私たちの社会は「権威」というボックスを作り出して機能させ,それを根拠の最低根拠と見なしてきたのであったと思う。ところが,それも様々な要因で,ずいぶんと砕かれてしまった。
 「権威」というボックスの内と外は,明確に区切られていなければならない。権威というボックスは,その外側の社会的な評価根拠の問いに歯止めを掛けるために存在してきた。一方で,ボックスの内側では,評価根拠の問いを延々と繰り返し問い続けることを機能としてきた。つまり,権威は「永遠に問い続ける」行為を社会から引き取る事によって初めて,社会が円滑に機能するように貢献する「評価根拠ボックス」としての存在意義を確保していたと思う。
 こうやって書くと「権威」という言葉の位置に「大学」とか「専門家」とかの言葉を置き換えたくなるかも知れないが,そういうのは狭い解釈である。
 ならば,違う表現をしてみよう。私たちが「信頼に値すると見なす存在」とは誰だろう。私たちは「その人が言うなら,きっと信頼できる」と考えて,問いに区切りをすることがある。つまりそういう誰かというのは,どんな存在なのかということを考えてみると,どこかで権威の議論と繋がってくるということである。
 それは「直感を信じる」という場合でも,実はさしたる違いはない。必ずどこかで「問う行為の永続性」の議論に繋がっていくはずだと思われる。
 さて,そこで自分自身の中にある権威ボックスを探らなければならない段階に入るのだが,ここにはもう一つ,厄介な問題が立ちはだかる。つまり,私の問いは,ボックスの外側の問いなのか,内側の問いなのかということである。もしも私の問いがボックスの内側であるとしたら,その問いにきりがなくなってしまう。そしてそれは何を意味しているかというと,私自身が「権威」として指向してしまっていることを意味してしまうことにもなってしまう。言い方を変えれば「信頼に値すると見なされる存在」を指向しているということになる。
 これは,結果的に「傲慢」な態度へと接続されてしまう途ではないのか。それを掻き消すために,さらなる「自己懐疑」を注入し,問いの問いを問うような無限退行をも連れてくる。良いか悪いかというよりも,これは問うている自分の状況あるいは立ち位置によって,そうなる場合もあるし,そうならない場合もあるというだけだ。
 だから,もしも問いに区切りをつけなければならないなら,自分が置かれている状況や自分が立ちたい場所を早く理解して,区切る目処をつけるほかない。もっとも,まさにこの区切り方こそ,最大問題であるのだけれども…。
 さてと,短く区切るつもりが,また長い駄文へと続いてしまった。このことからして,皆さんには,私がどんな心的シチュエーションにいるのか,わかりやすいほどおわかりいただけると思う。というところで,この駄文を区切っておかないと,「けれども…」と続けざるを得ない。
 モノローグはいつまでも続く。私は誰かとダイアローグしなければならない。

要精進

 今日はメディア教育国際会議に出席した。書きたいことはたくさんあるが,なによりも,いかに自分に発信する力がないかを再確認して,かなり凹んだ。何をやっているんだろうか?>自分
 いろんな人の話を聞き,そして幾人かの人に自分の思いや考えを少し聞いてもらった。書類作成の必要もあって,あらためて自分の経歴などを振り返って,ついでに個人ページも更新した。いろんな機会に呼んでくださった皆さんの期待にちゃんと応えられてきたのかな,とまた一人で考え込んでいた。
 深く考え続けることが私の得意とすることであるけれど,どこかで割り切らないと…。孤軍奮闘しているうちに,その方法をすっかり見失った自分が居る。もう少し,周りに頼ってもいいのかも知れない。けれども,正直,どうすべきかよくわかっていない。つくづくモノローグな私である。

運動もいろいろ

 今後の計画を練っているので,あんまり余裕がないのだけれど,気晴らしに見たCMが興味深かったので,駄文に。教育フォルダからリンクを張っている「Ads of the World」は,いろんな宣伝ポスターやCMを見ることが出来る。そこに「World Swim For Malaria」という募金運動のCMがあった。
 世界には興味深い広告が多いことは「世界まる見え!テレビ特捜部」なんかでご存知だろう。ごく普通のも,下らないのも多いとは思うが,やはり圧倒的な出稿量を背景に,内容的にも芸術的にも高い水準にあるものも多い。とにかくいろんな広告があって,場合によってはとても面白い教材にもなりうる。
 さて,見つけたCMは「World Swim For Malaria: Jambo jet」で,タイトルからは「swimとjambo jet?なんだろう」とあまり想像がつかない。しかもよく見ると「マラリア」とも書いてある。ますますわからない。
 CMを見ると,子どもたちが空港のカウンターで遊び回る映像とフランク・シナトラ「Come Fly with Me」の歌声が聞こえる。JALのCMをモノクロにした感じともいえる。でも実際にはジャンボジェットを7機分いっぱいにする子どもたちがマラリアで亡くなっているという事実を紹介するCMだった。
 けれども,なんで「World Swim For Malaria」なのか?「swim」って単語は,「泳ぐ」以外にも意味があったんだろうか。疑問に思って辞書を引くと「困難を克服する,乗り越える」という意味もあった。「マラリアという困難を乗り越えようって事か?けれども,それじゃforはおかしいだろう…」
 仕方ないので,「World Swim For Malaria」にアクセス。なんだちゃんと日本語版が用意されている。説明を見るとみんなで「一緒に泳いでから募金しよう」という運動だった。つまり人を集める口実・手段として「スイム」大会を催して,そして,いくらでもいいから募金してもらうということだ。すでにイベント期間は終わったが,募金自体はできると思う。
 「水泳」が良いアイデアかどうかはさておき,なるほど単に募金を呼びかけても大きなムーブメントにはならないということらしい。ここにもマーケティングの発想があるのかも知れない。
 「ホワイトバンド(ほっとけない世界のまずしさ)」なんかは募金直接送金ではない運動ではあるけれども,あの白いバンドを使って上手にプロモーションしていた。(その問題も指摘されている
 水泳とホワイトバンド。どちらがどうとはあえていわないけれど,興味深い比較である。こういうのは社会科や総合的な学習の題材にならんかな。2つの運動の在り方を比較するだけでも,世界の動かし方の勉強になるかも知れない。その入り口としてCMも有りだと思う。

人生いろいろ学会もいろいろ

 先週末,日本カリキュラム学会が奈良教育大学であった。前日の夜に,他の仕事の区切りがついたところで,急いで東京から名古屋へ,早朝に名古屋から奈良へ向かって,なんとか朝から出席できた。
 身辺の慌ただしさもあって自身の発表参加とはならなかったが,学会は今回もいろんな意味で勉強になった。目新しいものはなかったにせよ,自分の問題認識枠というものがそれほどはずれてはいないということは確認できた。問題はこの足踏み状態を次に推し進めるよい手だてを考えて実行することか。
 課題研究やシンポジウムの企画や進行の難しさは相変わらずだった。昨年は課題研究について,大いに不満を書き殴ったけれど,今年もまだ「ポリティックス」って言葉を解説するだけで終わっている人がいて,思考の停滞具合に寒ささえ感じた。それともあれはクーラーの効き過ぎだったのだろうか。
 けれども,そう感じたとしたら,それはそのまま自分へ反射してくる。その先を考える必要を感じるなら,同じ研究共同体に属する者として「俺の展望はこうだぜ!,君のはどうだ?」というスタンスで関わらなければ…。問題は,それがうまくできていないから,相も変わらず堂々巡りなんだ。
 私としては,一度でいいから,午前中に大御所の方々が登壇した課題研究を,午後に各世代を交えた「懇親会まで生討論」で議論する,その司会をやりたい。恐ろしくて誰も討論してくれないかも知れないが,こういう議論を解釈するための議論を率直にオープンにしないと,ポリティックスとか情報共有とかの一歩先は無理である。私個人は,人生で1回くらいそういう企画を実現して研究者生命を終えたいと思う。
 一年ぶりにお会いする方々に退職の報告をする。いろんな反応があった。肯定的なものもあれば,残念だね系も。肩書きが無くなって「自分の名前で出ています」という状況は,自分よりも相手にとって(つきあい方が)辛いのだなということも,だんだんわかってきた。とりあえず,人々の目がやさしいうちに次のステップに移らねば。
 人が集えば,たくさんの考え方がそこにあって,それはそれぞれにとって妥当な状態にある。そのことに思いを巡らせることも大事だけれど,もう少し自分の手持ちの考えも認めてあげなくちゃいけないのだなと,少しばかり思った。

クレーン撮影

 無理にメディア教育とひっかけたいわけではなくて,私自身の欲求として「クレーン撮影」がしてみたいのである。男の子は機械ものに興味を持ちやすいが,その後,それがどんな発展をするかはそれぞれだ。私の場合,カセットレコーダとか,ビデオとか,そういうものに興味を持ったので,おのずと表現活動への関心が強くなった。
 それで,いわゆるカメラワークみたいなものにも興味を持つのだけれど,とにかくなめらかなカメラ移動をする映像に引き込まれる傾向があって,その最たるものがクレーン撮影というわけである。
 いやなんというか,肩で風を切って歩くファッションモデルの姿をスーッとクレーンカメラで追いかけていく映像を見ると,そのカメラワークにぞくぞくしてしまう(なんか変か?)。あるいは,気持ちの良い空撮も見ていてうっとりしてしまう。
 クレーンではなく,カメラマンが身につけてカメラを支える器具があり(名前まだ知らない),これはカメラマンの動きの振動が直接カメラに伝わらないようなしくみになっているものなのだが,もし家庭用ビデオカメラに使えるものがあったら欲しいくらいだ。
 実は先月,主要携帯電話会社の人々の話を聞く機会を得て,いまどきの子ども向け携帯の動向を勉強した。最近の子ども達は,携帯のムービー機能を使って,短い短編映画を撮影する遊びもしているらしい。そんな話を聞いて,「あ,それは俺がかつてナショナルのカセットテープレコーダー「スナッピー」で友達と音だけドラマを野外ロケしながら吹き込んだ遊びの現代版だな」と思ったのである。いつの世も子ども達は身近なメディアを面白がって遊びに使おうとしている点で変わらないのだなと思ったのである。
 で,おじさんになった私は,性懲りもなくハイビジョンビデオカメラで映画撮影できないものかと夢想していたりする。もっとも今となっては機材も何もかも無いけれど…。

東京人…

なれそうにないなぁ…,忘れっぽいから。(^_^;
毎回,川口探検隊する人です,私は。

卑劣な脅迫

 長野県知事・田中康夫氏は,県内あちこちで「車座集会」というものを開いて地域の人たちの声を聞く活動をしている。その開催をよく思わない人がいるらしく,「集会を開いたら小学校・幼稚園・保育園児を1人ずつ殺す」という脅迫状が届いたらしい(毎日新聞記事)。
 脅迫状なんてものは,そもそもが卑劣なのだが,子どもの命を奪うことをネタにしたものは卑劣この上ない。政治的な抗議といえば,自決することをもって相手を脅すというのがあって,それはそのくらいの覚悟を持って抗議していることを表すためだとイメージしていた。それを自分は安全地帯に隠れて,子どもの命を奪うことで代えようとするなんて,主義主張はどうあれ,そこまで腐りきっていることに,呆れを通り越して怒りを覚える。
 たとえ世界の戦争地区や飢餓地域に比べて,日本の子ども達は生きることにおいて幸せだと,何やら言い訳めいたへ理屈が捻り出されたとしても,人の勝手な行動によって命が奪われるなんてことは許し難い。

連休が終わって

 今年のゴールデンウィークは,大型連休の名に恥じない長期の休みが獲得しやすいお休みとして,あちこちで話題にのぼった。そして,とうとうその連休最終日が終わる。皆さん,たっぷり休暇を楽しんだだろうか。
 私にとって,今年は人生の長いお休みに入ってから最初の連休だった。ということは,平日も祝祭日も関係なく過ごすことになるわけで,連休になっても何も変わらないだろうと思われるかも知れない。
 ところが,今年はフリー(?)になってから初の日英翻訳作業を連休期間中にすることになり,休日ではなくて24時間営業状態。まあ,在職中には英語文献を読むのも余裕がなかったわけで,まして英作文なんかほとんど手をつけていなかったから,かなり苦労した。これやってみるとわかるのだけれども,英作文をすると,どれだけ英文を読んでいるのかがわかる。自分がいかに「ぽわーん」と英文に接していたかが,身にしみてわかった。
 「英文リーディングが出来て初めて英文ライティングの入り口が見えてくる」と言われるが,これに「単に英文眺めてます程度ではダメ」ってことを補足をしないといけない。脳みそをデータベースにして,読んだ英文を片っ端から蓄積してないと,自分が書いている英文が妥当かどうかを判断しようがないわけだ。ああ,疎かにしてた…。
 気がつけば英文法の基礎レベルのことを「ポカーン」と忘れていたことに気づいたり。結構,そういう現実に独りで直面するのは辛いものだ。はははは…。まあ,とにかく締め切りまでに間に合わせるよう突貫工事。数日おいてから推敲する作業も出来ず,泣く泣く不出来な英文を差し出したのでありました。久しぶりに24時間ずっと机にかじりついたよ。身体大丈夫か?>自分
 ちょっと充電したら,引っ越し報告活動に取り組まないと…。皆さん,ごめんなさい。

ううむ

ゴールがどんどん遠のいていく気がするのは,気のせいか?
ちょっと気晴らしの書き込み。

図書館?

 研究会を終えて,また街探検に出かける。最寄り駅を中心に大きくグルッと一回りするコースを歩く。同時に本屋めぐりも出来た。賑やかに通りを離れていくと,そこは静かな下町という感じ。自転車があれば,便利だろうか。いろいろ考えながら歩いた。
 これまで駅を中心に地図を眺めていたが,そうでない位置関係を把握することが出来た。そして実際に歩いてみると,自分の部屋が巨大書店の近くに位置していたことに気づく。ははは,この書店は危険だ。私が名古屋で集めていた教育関係の蔵書はほとんどありそうな雰囲気である。もしお金があったら出費が酷かったに違いない。幸い,いまは貧乏人。図書館代わりに使っていこうと思う。
 再度ビックカメラへ出かけて,パソコン関係の機材を購入する。無線LANサービスを安定して使うために,イーサネット・メディア・コンバータという機器を買った。本来はデスクトップパソコンを無線LANに繋げるための機器だ。これを窓際に置いて,長いケーブルでパソコンとつなげばいい。これでインターネット環境は整った。
 それから,さすがに身体が辛くなってきたので,寝具を買うことに。面倒くさいので無印良品で敷布団を購入した。これまた大きな掛け布団を運びながら部屋に帰る。疲れた。なんだか風邪を引いた感じだ。
 夜,W先輩から電話をいただく。ブログから焦っている雰囲気が伝わっているのか,「焦るな,ゆっくりいけ」とメッセージ。気にかけてくださる人たちがいることにあらためて感謝。たまたま4月のこの時期にいろんなことが重なってしまっているが,とりあえず環境が整えば,じっくりと腰を据えて歩けると思う。