クリスマス・イヴ。ご存知のようにイエズス生誕日の前夜という意味であり,キリスト教文化に由来する。日本は必ずしもキリスト教国家ではないが,ブリコラージュされたような日本文化のなかに行事として位置付いている。
近年,クリスマス恋愛映画の新定番となったのは『ラヴ・アクチュアリー』。いくつかの愛の物語で綴られたパッピーなロマンティックコメディーである。しかし,単に男女の色恋だけを愛として取り上げているわけではない。キリスト教の博愛という教えにもあるように,それは家族,友人,隣人,多くの他者に対する愛が含まれている。
久しぶりに一眼レフカメラを片手に街の中を歩き,クリスマス・ムードを味わう人たちの中でシャッターを切った。映画のオープニングとエンディングで出てくる空港よりも男女愛みたいな雰囲気が濃い場所とはいえ,いろんな人たちがいて,それぞれの週末を過ごそうとしていた。
宗教関係のあんちょこ本を眺めると,日本人の宗教観が「方法」に依存していることが分かる。キリスト教を始めとした西洋宗教が,確固とした教えに基づいて形成された「内容」重視の形をしているのとは対照的なのだ。
高尾山で百八段階段を一歩ずつ上れば煩悩が晴れるとか,信じて念ずれば通ずるもしくは極楽浄土へ行けるといった行動に結びついたような宗教信仰観なんかにそれは象徴されているように思う。逆に言えば,教えに対する厳格さはそれほど強くないということだ。聖書に基づいて誰がなんと言ったかをいちいち問うのとは大違いというわけである。
クリスマス・イヴを祝うというイベント型の受容の仕方も,儀式や行事を行なうことが好きという「方法」好きな日本らしいやり方なのだと改めて思う。とりあえず「愛」で盛り上がっちゃおう,というノリである。愛が何かという「内容」を考えるということは,とりあえず二の次なのだ。
今年のクリスマスは,教育界にとってあんまり嬉しくないプレゼントをもらう結果となった。教育基本法改正は,「内容」を吟味した結果というよりは,憲法改正への敷布という「方法」としてしか捉えられずに終わった。そこに愛はなかったにも関わらず,愛がうたわれているという不可思議に,「方法」好きな私たちさえ怪訝な思いを抱いた。
日本にそもそも「愛」があったのかさえ,正直なところ分からないことだと思う。純粋日本人じゃない私が語っても,あんまり信憑性もないか。ただ,短い人生の中で「想う」ことの大切さについては意識しているつもりである。
私を支えてくれた家族や友人や仲間達のことを今でも想う。過去の恋人も心の恋人も夢見る恋人のことだって想うことがある。大学教員生活で元気をくれたのは教え子達だった。そのことに感謝して教え子のことを想う。これから歩む道筋の中で,私に関わってくれる人たちのことを想う。「想う」という方法に重きがある点で「愛」という内容とはまた違う気もするが,あるいはこの2つはどこかで重なっているのかも知れない。
かつて「教育内容と教育方法の幸せな結婚が出来るのか」なんて駄文を書いたことをおぼろげに思い出した。これまで両者の結婚は難しく,どんどん晩婚化してきた。それが情報技術の進展によって新しい縁結びを為し得るのかは今後の努力次第だし,いや私たちはなんとかそれを幸せな結末へと導かなければならないと思う。
な〜にを相変わらず意味ありげな駄文を書いているんだか。要するにクリスマスが気になってるんなら,それなりに楽しめばいいじゃん。とにもかくにもハッピー・ホリデー!
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そして高尾山にいた
クリスマス・ムードにあふれる都心から離れて,東京都の外れに出かけようと思い,京王線の西の終点・高尾山口駅を目指した。都心から1時間もかからぬ場所に自然は広がっていた。
午後から出かけたので,ちょっと散歩するだけのつもりだった。ところが,ケーブルカーに乗り,すこし歩き回っていたら,ついでに頂上にでも行ってみようという気持ちになって,登山ハイキングになってしまった。
どうも頂上から見る日の出や日の入りが素晴らしいようで,夕日を目当てにした観光客が多かった。そんな人の流れに身を任せながら,私も頂上を目指して高尾山薬王院有喜寺を経由する登山道を歩いた。
途中,百八段階段や北原白秋歌碑,天狗が居場所にしているという大杉原と遭遇する。薬王院有喜寺でお参りをし,さらにその先の頂上へ。いろいろなことを考えながら歩いた。
人生で初めての退職願を出してからちょうど1年が経過していた。あの日のことは今でもわりと鮮明に覚えている。冬期休業に入る前の慌ただしい一日だった。なんども書き直した退職願。書き上げるのに時間がかかったわりには,学長先生に手渡す場面はあっさりとしたものだった。
その1年後に,自分が高尾山にいるなんてことは,想像できるはずもなかった。こうして振り返ってみれば,不思議な気分になる。けれども「人生何が起こるか分からない」ということを信じるに足る経験ともいえる。そして,諦めずに邁進すれば何かしら結果はついてくることも…。
頂上は大混雑。もうそろそろ夕日が沈もうというところで,みんながカメラを構えて待っていた。老若男女,家族もカップルもグループも,わいわいと頂上で群れていた。
沈みゆく夕日を眺めたいという気持ちは強かったが,この大群と共に下山するのは御免だ。美味しい部分はまた次回にとっておくとして,混み合う前に下山することにした。散歩が目的だったのだから,これで十分である。
大学の講義を担当すると,たまに雑談をする。こんな感じの話をすると,若い学生達は興味深く聞いてくれたりする。自分の未来が想像もつかない展開をする不思議さを感じてもらえればと思う。
入試募集活動の際に,高校に出かけて模擬授業したときにも,10年後の未来について想像してみることを提案したことがあった。高校生達には,10年後は遠すぎるようだが,どうやら5年後も1年後すら想像する(夢見る)ことが苦手らしい。もちろん「一寸先は闇」なのは確かだけれど,逆に若い人たちにはもっとわくわくするような未来を夢見て欲しいと思うのである。
また1年後,今度は富士山かも知れないし,海外でクリスマスを迎えているかも知れない。あるいは,私も誰かと連れ添って夕日を眺めているかも知れない。もしかしたら,何も変わってないのかも知れないが,とにかくまだ見ぬ未来が楽しみである。
基本法改正をめぐる態度について
「教育に貢献したい」と書いたシミが乾かぬうちに,「教育基本法改正お疲れ様」と書くとは無責任にもほどがある,そう思う御仁もいるかも知れない。皆さんの心証が悪いのは仕方ないと覚悟はしている。
月曜日だから「AERA」なんかを立ち読みしに行くと「教育基本法「改正」で立ち上がった面々」なんて記事があり,いままで反対抗議活動をしそうに無い人たちのことを取り上げたりしている。
研究者はこの問題に対して何もしてこなかったのかと問えば,答えはNOである。緊急出版された教育学関連15学会編・共同公開シンポジウム準備委員会『教育基本法改正案を問う』(学文社2006)に記録されているように,自分たちのフィールドで議論を積極的に展開してきた。その情報伝搬の努力が十分だったかどうかは問われなければならないが,高みの見物をしていたわけではない。
教育基本法の改正というのは,本来ならば国民投票が行なわれなければならないほど国民の行く末を左右する行為である。この国が法治国家である限り,私たちは制定された法に従わねばならず,善悪を裁く場合にも法が根拠となる。私たちの日常生活では意識されないとしても,それは日常生活の根本を変えているという点で,きわめて危うい行為なのである。(教育基本法自体は理念法だが,それに基づいて改正していくその他の法律が問題となってくる。)
分野は異なるが,たとえば「大規模小売店舗法」(1998年制定)とその後それを廃止して制定された「大規模小売店舗立地法」(2000年制定)によって日本全国に出現した「巨大ショッピングセンター」が,各地域の商店街を風化させ,地域社会を壊してしまったのと同じようなことが起こると考えれば分かりやすい。
車があり購買力も高い大多数の住民にとっては,利便性が享受できるし,効率化や合理化によって安い買い物も出来る。税収や人材雇用の面でも地域活性化という前向きな変化に見えるだろう。
しかし,車を運転できない人,遠い距離を移動するのが辛い高齢者などの人々にとって,郊外ショッピングセンターは,便利でも何でもない。あるいは何かしらの事情でショッピングセンターが撤退したら…。そういうことに関する想像力が初期のショッピングセンター戦略にはまるでないのだ。(ちなみに,2006年に「都市計画法」「中心市街地活性化法」が改正されて,出店の規制が強化された。まちづくりを重視した出店が必要になってきたのである。これ,テレビの請け売りね。)
教育の分野でも,こうした「住みにくい日本」が広がっていくことになりかねない,という危機なのだ。そのことに関しては,たぶん誰も異論無いだろう。とにかく大問題であることに関しては,私だって同意する。
ところが,困ったことに私たちは「住みやすさ」のようなものに対する理解がどんどん衰えている。ある論者は,世代間戦争といった物騒な言い回しも含めて,特定の世代の富裕層によって他の世代が騙され続けているのだと分析したりする。若い世代には教育程度を低めることで騙し,高齢世代には老化をいいことに騙し…。
もしもこの消費社会日本で快適に過ごすことが「住みよい」ことならば(というかそれ以外の選択肢を選ぶことはとても難しいのだが…という風に思いこむことさえ私の頭が悪いせいかもしれない),私たちは(きっと誰かがしてしまった)妥協の選択を引き受けなければならないところに来ている。「あんた達みたいな階層や世代が悪いのだ」と特定の相手を批難することは出来なくはないが,そんな議論の効果は糠に釘。
これは因果応報なのだと思う。私たちはその選択をしてきたし,それを許容してきたのである。だから私は自分の勉強不足を悔やむし,自分の教員や研究者としての力量のなさを反省する。その上で,未熟さを乗り越える取り組みを続け,何か変えられる機会が得られるように虎視眈々と準備を続けるしかない。
私がこうした問題を生真面目に書きたくないのは,気持ちがどんどん暗くなるのは当然として,情けなくなってくるからである。これは人の問題なのだ。人の問題だからこそ,どうしてこんな事態を招いたのかという情けなさを感じる。
この情けない感情は,人のやる気を削いでしまう。だから私は,茶化して誤魔化すか,人に多くを期待しないことで中和するかを選びがちなのである。ショウは終わらない。だったら,自分のやる気を失って立ち止まるわけにはいかない。所詮は駄文である。飲み屋調子で綴って,次への鋭気を養おう。不謹慎とはいえ,そういうことである。
日本には,教育だけでなく,たくさんの問題が渦巻いている。それらはほとんど全部つながっているのだが,それぞれへの取り組みの哲学がバラバラで,何やってもまともな効果が出ないでいる。要するに,この国で生まれると,人生の中で様々なジレンマを抱えて生活することを余儀なくされる。そして死のうにも死ねず,苦しい老年を過ごさなければならないかも知れないのだ。
中学生や老人が社会制度としての殺し合いゲームをするという設定の小説がある。まさかそんな法律が可決されるわけはない,あくまでも架空の物語と笑っていられる時代ではなくなった。様々な悪法が成立し,教育基本法までもが改正されたのだ。そんな世の中では,新・教育基本法の理念にそぐわない教育者や研究者から資格を剥奪することは簡単である。必要ならば,あらぬ罪(「電車内で痴漢をした!」)をかぶせて社会的な信用を奪うことさえ出来る。
こんな暗い想像さえ膨らんでしまうのは,健全ではない。確かに暗いニュースばかりではあるけれども,だからといってスポーツニュースに逃げ込むのではなくて,嫌味や皮肉も躊躇しないで問題について知ることである。そこから始めるしかない。
ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン
私が長崎で独り芝居(研究発表)をしていた日,教え子達が大きな舞台で児童劇を上演していた(写真1,2)。児童文化研究部「はとぽっぽ」というのが,私が顧問をしていたクラブである。
長い長い伝統のあるクラブなのだが,学生全体のクラブ活動停滞もあって,私が引き継いだときには部員が5〜6人という時期もあった。そこからまたどんどん大所帯になって,いまは50人弱いるらしい。そして年の瀬のこの時期に,定期公演がある。
舞台というのは,想像以上に裏が大変なのである。しかも学生達は,律儀な厚生労働省のおかげでみっちり授業があり,準備や練習のための時間を確保するのも難儀な日々。大学のクラブなんて肩書きだけの顧問というのが普通かも知れないが,ここの場合それだけでは部員達を支えられないのである。
本番前日まで,衣装の作り直しや細かい演技指導が入ったらしい。昨年,とある事情でこの会場が使えなかったので,今年の部員達は会場の勝手も分からぬ状態からのスタートであることを考えれば,その苦労たるや大変なものだったろう。それにもかかわらず,険しい道を選択して頑張った教え子達に心からエールを贈りたい。
主人公姉弟の名前は「りん」ちゃんと「ゆうき」くん。学生の言うことには,姉の方の名前は「先生からとった」らしい。親バカならぬ担任・教員・顧問バカで恐縮だが,こういうことする教え子が居てくれるというのは,教師冥利に尽きるとしか言いようがない。
さて,直接指導した学生達が卒業するまで,あともう少し。それで少しは気が楽になる。それでもザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!たとえつまらないと言われようとも,私自身のショウをまだまだ続けなくてはならない。
探索の魅力
新世代ゲーム機が出揃い,注目されていたレースの行方は,現時点で任天堂のWiiが圧倒的な優勢のようである。ファミリー・コンピュータをヒットさせ,この分野を開拓した歴史を持つ会社が,原点に戻って再び成功したともいえそうだ。
その勝因については,早耳の方はご存じのように,あのWiiリモコンという新しいインターフェイスの開発と導入がある。ワイヤレスであることは,他のゲーム機でも同じなのだが,デザインや操作スタイルを一新したこと。それに併せてミニゲームソフトのラインナップで魅力を伝えた点が任天堂らしい。
Wiiの専用Webサイトでは,実際にWiiリモコンでゲームをプレイしてもらった体験映像が山ほど公開されている。日本人はもちろん,アメリカやドイツやイタリアの人たちまで,テレビの前でリモコンを持って身体を動かしてプレイしている様子は,見ているだけでも楽しい。
その中に,Wii Sportsテニスを体験する女性の映像がいくつかあるが,こちらの女性の映像は興味深い。Wiiリモコンの操作を初めて体験して,使い方を見いだしていく様子がちょこっとだけ見られるからだ。(はい,そこ。こういう女性が好みなんだ…と話ふくらまさないように)
こんな風に,いろいろ探索して学習しながら体験していくのは楽しい。そして見ているこちら側も「やってみたい」と思うものだ。こういう「わくわく」が,偏在する学習のタネなのだなぁと思う。
さて,Wiiリモコンに関しては,別売りで単体購入が出来る。3800円プラス税。実は,このリモコンは,Bluetoothという無線技術をベースに開発されたもの。このBluetooth技術はパソコンのマウスなんかにも利用されている。
つまり,Wiiリモコンは,マウス代わりに使える可能性があるのだ。そしてすでにインターネット上には,Wiiリモコンをパソコンのマウスならぬポインタとして利用できるようにするソフトが開発されて公開されている(Mac)(Win)。
というわけで,学校のパソコンをWiiリモコンで操作しながら授業したら,子どもたちからの注目度アップは間違いなし。デジタル教材をWiiリモコン使ってページをめくったり,ポイントしたり,線を引いたら,なんか来年前半までだったら格好いいかも知れない。
すでに工学分野では,学会発表にWiiリモコン使う人が出てくるんじゃないかという話題まで飛び出している。花札からビデオゲーム,ゲームウオッチからファミコン,そしてDSやWiiリモコンへ…,いやはや任天堂はいろんな意味で社会に影響を与えてくれる会社だ。その探索の過程がある意味で魅力的なのかも知れない。
記憶圧縮率
日々の記憶が,立て板に水のごとく流れ去っている気がする。今日の夕方何をしていたのか,ちっとも確かな記憶が見つからない。いや,たぶんパソコンに向かってちまちまと作業をしていたのだ。けれども,その記憶が曖昧。
出かけるべきところがあったり,メールを出すべき頃だったりしたのに,そのことも意識にのぼらなかったらしい。かといって集中していたのかどうか。どちらかというとボーッと単調に過ごしていたような感じがある。それすら確かではないのだけれど。
大人になると日々の出来事を記憶するやり方が上手になって,時間感覚がどんどん短くなっていく。これを意味する何か学名を聞いたことがあるのだが,それも忘れちゃってるなぁ。とにかく,記憶の圧縮方法の向上によって効率化するというわけである。
でも,圧縮方法ばかりでなく,そもそも圧縮の対象となる出来事の方がスカスカだと,圧縮のしようがないというか何というか。記憶にとどめるのさえやめちゃってるんじゃないかと自分を疑ったりする。
なんというか…,要するに,ど忘れする自分にちょっと凹んでいる,というわけである。皆さんごめんなさい。
ダメだダメ。この頃は後ろ向きになりやすい話題ばかり気にしているからダメなんだ。こういうときこそ前向きに,希望や野望を語っていかなくては!自分の周りのことから,どんどん頑張っていくことにしましょう。
エビちゃんHAWAII BOOK
すでに街はクリスマス・イルミネーションで彩られている。書店も雑誌の新年号や年賀状イラスト集みたいな季節モノでいっぱいだ。そして今日は『CanCam』創刊25周年記念号を買った。
ある種,時代の象徴ともいうべき雑誌。私がこの雑誌を初めてまじまじと眺めたのは,大学生時代に書店でアルバイトをし始めた,その休憩所だった。とにかく世の中にはたくさんのブランドがあるということだけわかったが,あまりの情報量の多さに面食らった。まさか自分が女子大生たちを相手にする職業に就くなどと微塵も思わなかった,旧き良き時代のことである。
そして仕事に就いてから,たまに機会があると眺めるようになった。学生の話について行くのにはリサーチも必要である。モデルの名前,ブランドの名前,今年の流行色が何色で,今風のヘア・スタイルは何か。一年に一回,そういう知識を活かせる場面があるか無いかという程度だが,そのたった一回に余裕で対応できるのとそうでないのとで,一目置かれる距離が変わることもある。振り返るに,変な世界に身を置いていたものだと思う。
ところで,秋に出かけたハワイ。そこで地震と大停電に見舞われた。どうもその時期にモデルのエビちゃんもハワイ・ロケをしていたらしい。で,その成果が創刊25周年記念号の付録『エビちゃんHAWAII BOOK』である。(まじめに付録名を引用している自分がだんだん情けなくなってきたな…)
ほれ,同じ時期にハワイ滞在していたと思うと,ちょっと嬉しいじゃない。その付録にも一カ所だけ地震と大停電に触れた部分があるので間違いない(そのことさえ宣伝材料になっているところに,この雑誌の商魂を見た)。
というわけで,押切もえちゃんのCanCam引退(姉CanCam昇進?)号でもあるから買ってみたというわけである。ええ,わたくし,女性好きですよ。それが何か?
電車事故
京王線の列車と車の衝突事故があった。夜も遅かったが,ちょうど府中から新宿に帰ろうとしていたので,影響を受けてしまった。そんなわけで,いろいろ大回りして,最後はタクシーで帰る羽目に。駅員さんのバカぁ〜。
今日はとある小学校の公開研究会に出席した。中間発表なので,それほど大々的に告知をしなかったものの,発表内容は充実したものだった。来年度の本発表が楽しみである。
父,遠方より来たる
この週末,パチパチと会議録をつくっているところに父親が訪ねに来てくれた。到着までに大あわてで掃除。本を整理し,部屋のホコリを拭き,貯まっていたゴミを出し,風呂の湯船も洗って,さながら年末大掃除。おかげさまで部屋がきれいになった。
親子共々,予定を決めぬ風任せな性格なので,ふらっと行動することが多い。そんな風に時間を確保するのが旧い型の研究者の癖で,そんな中で考えることが柔軟性にもつながっていた。もっとも,こういう旧式のやり方は,このご時世すっかり馴染まなくなっているけれども…。とにかく,週末は父親と過ごすことになった。
今日は,東京国立近代美術館に出かけた。美術・芸術から縁遠い私は,美術館に出かけて作品を眺めていても,自分がちゃんと鑑賞できているのかがわからないので戸惑いがち。そういえばミュージアムの来場者研究という分野に取りかかろうとしているHさんの話では,博物館や科学館などを観覧する経験が,美術館などにも活かせるのではないかということだったが,私の場合は,あんまりうまくいってないかも知れない。
ただ,現在開催中の「揺らぐ近代 −日本画と洋画のはざまに−」という特別展を見て,とても興味が持てたのは収穫だった。明治大正そして昭和にかけて,浮世絵といった日本画が中心だった日本に,油絵のような洋画がどのように受容されていったのかという視点で見ていくのは,日本近代美術を鑑賞のための興味深い足がかりになる。大変刺激的だった。
この日,別会場では関係者対象のシンポジウム「美術館 マネジメント新時代」が行われていた。「なんか,どこの業界もマネジメントだらけだねぇ」と父と息子で笑っていた。
一泊した父親は,満足してしまったのか,そのまま帰ってしまった。月光仮面みたいな訪問だったが,楽しからずや。東京駅まで見送って,少し寄り道してから帰路についた。
家の近くまで来たら,なにやら賑やか。よく見ると,たくさんのテレビ撮影機材とスタッフ。テレビドラマの撮影をしているらしい。誰か俳優さんがいるのかなと見回してみると,白いコートの女性が立っている。ありゃ,話題の藤原紀香じゃ,あ〜りませんか。さすが立ち姿がキレイな人である。東京に来てから間近で見た有名人の第1号。彼女の結婚前に見られたのは,満足満足。そして,お仕事お仕事。
NIMEに出かける
今日はNIME(メディア教育開発センター)に出かけた。これは初めて訪れた。JR京葉線の幕張海浜駅まで電車に乗り,トコトコ歩いて行くと,放送大学と併設したNIMEがある。
幕張というと「幕張メッセ」があり,今日もゲームショーが催されていた。そちらは人も多そうだったが,NIMEがあるのは反対方向。午前中ということもあって,人影少なく閑散とした雰囲気。そんなところにNIMEはある。(ちなみに,ゲームショーに行ったりなんか,絶対にしてないんだから…。ホントなんだから。)
今日は短期でいただいたお仕事の初打合せ。調査分析のお仕事である。仕事を通して勉強もできるし,いくらかの収入もいただけるのは有り難い。こうやって新しい領域で下積みさせてもらうことも,そう簡単にはやらせてもらえないから,お声掛けいただいたことは嬉しいことである。
お題は教員研修に関すること。書いてよいことと書いてまずいことの見極めがもう少しクリアになったら,いま自分が関わりつつある様々なお仕事にまつわることがらを書きたい。とにかくいまはたくさんの人と出会って,たくさんの出来事に触れて,少々まとめ切れていないのだ。
頑張らなきゃいけない。そういうシチュエーションだけれど,最近おしゃべりの中で,頑張らなくてもいいとも言われた。そう言われて,自分のやり方で普段通り当たればいいのかとも思う。もっとも,私の場合,それが頑張っちゃっていることなのかも知れず,まあ,なんというか,自分が嬉しかったり楽しかったりすれば,それはそれでいいのか,と開き直るしかなかったりするのであった。