「見えない危機」

 とあるお仕事の関係で,とある中学校で製作されたビデオ作品を見ることになった。その作品,まあ,映像作品としての質がどうのこうのという次元とか,題材の深刻さに比して制作者の姿勢は軽すぎないかとか,そういう「野暮」な指摘をするのは置いてといて,若さが成せるユーモア作品なのである。
 願わくは,この中学生たちのお調子者具合やマイケル・ムーアばりの風刺ぶりを皆様にもお届けしたいと思い続けていたが,幸運なことに作品が見られるようになっていた。
 それが「見えない危機」である。
 私の記憶が曖昧になったためなのか,かなり全体の軽快さが無くなってしまっているような気がするのだが,彼らのコミカルな演技とやりとりの部分は,微笑ましさからしょうがねえな〜コイツらみたいな経路を通って,その脳天気さに笑わされてしまうのである。

 正直なところ,学校施設の耐震化工事に関して,地方による取組みの温度差が激しく,それはつまり地方財政の問題などに連なる,あまり明るい話ではないのだ。しかも,いまや日本列島はいつどこに地震が来るのか,まるっきりわからない状態。東海地方が来る来ると言い続けられていながらも,日本海側で頻発したりと大変な事態である。学校施設の耐震化の遅れを笑いにすることについて,ある種の違和感を感じないわけにはいかない。
 しかし,もしあなたが,そのような感情からこの作品や関係者に対してクレームをつけようとしたり,問題にしようするなら,それこそお門違いも甚だしいと言わざるを得ない。もし何かしら文句をいいたければ,耐震化が進まぬ現状を生んでいる他の何かに対して言うことの方が最優先されるべきだろう。

 おそらく私たちは,物事の優先順位の付け方について,その対象のフィールドが広まってしまったことに気がついていないのかも知れない。このようにリンク一つで映像作品をご紹介していることが,当たり前に思えているのかも知れないが,それがとても広大な時空に見る者を連れ出していて,見る側にも短絡的な言動をの慎しみをどこかで要求しているということは,もっと考えられて然るべきだと思われる。
 中央教育審議会は,年内に行なわれる学習指導要領改訂の柱を「言語力」の育成に重きを置いたものにするとしたらしい。この「言語力」というものが,審議会においてどのような質のものとして了解されているのかは,もう少し情報を待たなくてはならないが,報道の範囲で紹介されている具体的な例とやらを見ると,「表現伝達手段としての言語」観が強く表れているように思う。
 ちょうどヴィゴツキーを読解中なので,機会を改めて「言語」の可能性について考えみたいと思うが,そのような次元とはかけ離れたところで「言語」をいくら柱に置いてみても,目先の学力の向上に焦点化しているという,実に短絡的なものにならざるを得ない可能性がある。
 いじめや人間関係をめぐる問題を考えるのに「言語力」が重要であるという場合には,その内実についてもっと丁寧な解説が必要だと思うが,このままでは,単に口や言葉の上手な人間が,いじめの言葉の表現を豊かにしたり,言葉巧みに人を貶めたりすることさえ考えられ得るのである。
 その意味では「道徳」の必要性を繰り返す人々もいるのかも知れないが,その場合にもまた,どのような道徳を行なうのかについての明確な説明や展望の提示がないと,手垢のついた領域だけに,多くの人々が誤解を繰り返すだけである。
 それゆえ,私自身は以前にも書いたように「哲学」という領域を真剣に考えた方がよいと思っているのだけれど,それについては,情報学の観点から考えようとしている人々のアイデアをうまく援用できないものかなとも考えている。それがゆくゆくカリキュラムの問題としてつながれば,私も帰るところに帰れるわけだけれども,それはまだまだ見えない私自身の行く末についての話である。

 とにかく「見えない危機」をご紹介するにあたって,その純粋なバカさ加減を素直に笑おう,という話から,久し振りにシリアスな雰囲気の駄文の展開に至るとは,書いてる本人も思ってなかった。いずれにしても上記のリンクから笑いに行って欲しい。