楽しみにしていた研究会がスタートした。何回かに分けて学習科学に関する英語文献を読んでいくのだが,初回3番目の発表担当ということで,直前までレジュメづくりに格闘していた。こういうのは久し振りである。
学習について考える機会はあったが,「学習科学」として足を踏み入れるのは初めてのこと。どんな議論や問題意識が展開しているのか,どんな語り口でやりとりが行なわれるのか,新参者としてうまく話についていけるか心配だった。そこに初回発表だから,いつものように「当たって砕けろ」しか手元にカードがなかった(ライフカードのCMみたいに…)。
研究会はとても有意義だった。なにしろ,その分野で活躍している方々の話を直接聞けて議論もできるのだ。学習科学では,学習環境の状況というのが重要視されている。私にとって,学習科学を学ぶ状況としてはこの上なく贅沢な状況であることはいうまでもない。それだけに,発表は緊張した。寝不足で頭回らないのも悔しかった。
そんなわけで,「学習の学習の学習」という二重のメタ学習という課題も平行させながら,丸一日の研究会を過ごしたというわけである。会はまだスタートを切ったばかり。ある程度全体像がつかめて何か言えるようになったら,ここでも勉強成果を書いてみたい。とにかく,参加できることに感謝感謝。
さて,次なる用件にいってみよう!
「研究」カテゴリーアーカイブ
演歌の世界
七月に入った。これまでにも増して慌ただしい日々が始まろうとしている。昨日は教育分野で事業を展開するソフトウェア企業さんとの共同研究プロジェクトにお誘いをいただいたので参加した。機会をいただけて感謝感謝。
携帯電話を教育活用するためのアイデアを示唆するというのが私たちの課題。すでに継続的に研究に参加している現場の先生メンバーから意見や提案をもらったり,研究者メンバーからも論点の投げ掛けや議論の集約など発言がやりとりされて,研究会が進む。
みんなでブレーンストーミングの場は大好きなのだが,私自身は頭の中で一人ブレーンストーミングする癖があるので,しばらく黙ったまま議論の行方を追っていた。
手短に書けば,他社との差別化を図るためには,ポリシーを明確にして打ち出し続けなければならないという,営業のイロハの話になる。でなければ,ある種の流行を捉えたり,人々の不安意識を煽った形の売り出し方で短期的な成果を追いかける途へと入り込むしかない。そうなれば,あとは価格競争という体力・耐久力勝負の世界になってしまい,サービスに対する適切な維持コストも掛けられなくなる。これは健全とはいえない。
というわけで,かつての職場でシステム購買の仕事をした経験もあるから,買う側として(つまり稟議書類を作成する人間として)押さえて欲しいことを述べて,教育分野で頑張ろうとするならば「演歌歌手」のように,最初はなかなか売れないかも知れないけれど(実際,ご存知のように教育界は腰が重い),一本筋を通して頑張っていれば,いつかは売れて人々に語り継がれるようになる,と話した。
そりゃ企業人にとってはヒットソングで「ミリオンセラー」が欲しいのだろうが,教育業界をターゲットにした以上は,覚悟を決めて「演歌」を歌い続けなければならない。それでも売れたいなら「氷川きよし」になるしかない。
という話をしながら,そりゃもうちょっとまともな意見もちょっとずつ発言しながら研究会を終えた。その後の意見交換会。「少し違う観点からの意見だったので新鮮でした」と言ってもらった。それから調子に乗って隣の方に,Web2.0界隈について聞いた話を受け売りながらも熱く語り,もっと営業や開発でこうやったらいいんじゃないか!と,なんか勝手にまくし立てていた。ははは…,すみません。
Web2.0で創る
BEATセミナーに参加。Web2.0で創る『みんながちょっとずつ頭がよくなる世界』というテーマで,Web2.0の世界の発想を教育に活かせる点があるなら探ってみようという場であった。
Web2.0についてはあれこれ雑誌でも紹介されていたので,ティム・オライリー氏の定義とか云々は置いておくとして,それでどんなことができるのかを朝一プログラミングでつくって見せちゃう事例には感心した。東京大学研究員である久松慎一さんの講演は,既存のサービスの紹介だけでなく,Web2.0の基礎技術の活用事例もあったので興味深かった。
それからネットユーザーのサイト利用動向を視聴率の観点で調査した結果について消費行動との関係でWeb2.0的なものを分析する話もあった。かつてはテレビ視聴率も集計していたニールセンのグループ会社であるネットレイティングスの社長である萩原雅之さんによれば,広告マーケティングも消費者の「サーチ」行動と「シェア」行動を意識しなければならなくなったということらしい。
また実際にWeb2.0的な活動をしている「百式」というサイトの管理人である田口元さんは,Web2.0をブログ界隈で言われている解釈で明解に紹介した。要するにWeb2.0というのは「○○はイケている」と同じような「格付け」概念なのだと。なんとなく2.0と言えば人が集まってくるし,かといって2.0について人々が考えるものは必ずしも完全一致しない,しかも2.0を自称する人って大概そうじゃないというような特徴の類似が「2.0」と「イケてる」にはあるんじゃないかと,実際の事例をあげて指摘するのである。それで田口さんがクルッとまとめて定義したのは
「いかに”2.0っぽいね”と格付けされるよう適切なコミュニケーション手法をとれるか」
ということ。「コミュニケーション手法」という観点から考えるというのは,技術的な観点ではなくて,多分に人文的というか教育的というか…。その辺から今日の話題がさらに膨らむのかなと期待を抱かせるものだった。
ところがそう簡単じゃなかったというのが今回の結論だった。どうも教育的なるものは1.0的なのか,0.いくつなのか。2.0とはかなりの隔たりというか,溝があるようなのである。結局,2.0は「Why not?」の世界だから,高く格付けされたければ適切なコミュニケーション手法をとればいいじゃん,うまくいくように頑張って,ダメなら仕方ないんじゃない?という感じなのである。片やフロアというか,教育界隈の人々は,積極的に相手に影響を与えたいと考えるから,ダメなら仕方ないのが許せない(?)という立場。
最後のまとめで,大きな溝をうまく跳び越える手段があれば,2.0的なものと教育とで面白いことができそうだと予感が示されたのであるけれども,そうなると既存の学校や教育の枠組みでというわけにはいかないのではないかということも会場の多くの人たちが同意していたと思う。
その後,懇親会。いつものようにテーマ絡みの雑談から青山豆腐工房と記号論の話題まで,縦横無尽におしゃべりが続き,メモの大事さを再確認してお開きとなった。
進研ゼミとの再会
新しい住み処に届いた郵便物第一号は,進研ゼミの教材。これも研究絡みでモニターのようなお手伝いをすることになった。そんなわけで,小学4年生の教材を紐解いて,あれこれ体験。前夜のうちに素朴な疑問をあれこれ箇条書きして,研究会に参加した。
何もない部屋で教材を広げ,ビデオや付録や冊子を眺めて,ああでもないここでもないと独りブレーンストーミング。確か自分も短い期間,進研ゼミの会員だったように思うのだけど,記憶は薄れている。再び,大人になってから教材を眺めると,いやはや良くできていると感心してしまう。長い歴史と蓄積のもとに作り上げられたシステムである。
それだけに,今後どのように時代の進歩と連動してシステムのさらなる発展を描くのか,大きな問題となっているのだろうと思う。研究会では,その発展に関して意見が交わされていた。勝って兜の緒を締めよ。通信教育関連の商品として勝ち組とも言える進研ゼミの模索は続いているようだ。
小学校へ
東京にきて,いろんな機会をいただいている。この日は東京都某市の小学校に連れて行ってもらった。現場とはご無沙汰だったので,こういうチャンスをいただけるのは有り難い。
その日は私たちと現場の先生との初めての顔見せで,これから継続的に研究の助言をすることになる。私はアシスタント役として参加し,歩調を合わせながらお手伝いをすることになりそうである。私自身が取り組む研究と,現場の先生方の取り組みとがギブ・アンド・テイクの関係になればいいなと考えている。
IT活用に関して,学校あげて取り組もうとされている。まだIT活用への様々な感情が入り交じっているようだったが,その総体的なエネルギーは前向きなものを感じた。まずはどっぷりとIT活用の学校として染まってみることも大事なのではないかと,メインの先生と議論しながら帰路についた。
論文指導の会
東京生活が始まってすぐに金沢出張。全国から現場の先生達が集まって,日頃の実践を土台にした実践研究の構想を発表し,それを大学研究者の講師達が講評していくという会が開かれた。私も講師としてお手伝いをしたわけである。
現場教師として,日々の教育実践を行うだけでも多忙なのに,それを研究として学会発表や論文に繋げようと高見を目指して努力されている先生方は真剣そのもの。慣れない「研究」の作法や文法に合わせようと四苦八苦されているところに,私たちがさらに手厳しい指摘や疑問を投げかける。真剣な取り組みに対して,私たちもできるだけ応えられるように対話を試みるわけだ。
実は,こうした現場の先生方への研究法の助言活動に関わって,私も自身の研究活動への自問を繰り返したわけで,それが前職を飛び出して再度一からの勉学や研究を志すきっかけでもあった。それだけに,現場の先生方の手伝いができるというのは,私にとって格別の意味を持っているし,今後も努力していきたい。
夜は懇親会。十分語れなかったことや研究について,いろいろ賑やかにやりとりが行なわれた。同じ志を持って集まった人々だけに,お酒の席も楽しい時が流れていた。
科研報告会
短大教員として最後の大仕事である科研の報告会に出席。担当した学習ツールの紹介と秋に出かけたアメリカ学校視察の様子を合わせて報告した。本当は参考文献の部分訳出しようと取りかかっていたけれど,時間切れでした。
拙い発表内容ではあったけれど,それが想像力を喚起した面もあって,なかなか興味深い議論をいただけた。今後もう少し成立過程を洗い直して,違ったアレンジを加えられないかどうか模索することになりそう。面白くなりそうだ。
懇親会は笑いの絶えないひとときを過ごす。こうしたグループに迎えられて活動する経験が少なかっただけに,研究にしても交流にしても得るものは多い。声をかけていただいたことに報いるためにも頑張らなければ。
翌日,是非とも会いたい赤ちゃんがいたので,そのお宅へ行く予定のある先生について行くことにした。いやはや噂通り,かわいい男の子であった。仕事の話をしている横で,勝手に赤ちゃんと接しようとして頑張っていた。自分は,どうも学部時代の小学校教員を目指した気質が抜けないようである。保育・幼児教育の学科が職場だったしね。
とにかく,今回の報告会への出張は,4月からの目標と元気をもらえた出張だった。感謝感謝。
統計の検定
とある研究フォーラムの報告駄文を書きながら,「ああ統計ってややこしい」と思った。でも正しくは「統計っていい加減だなぁ」。仮説の設定の仕方にもよるわけだが,これ,何でもかんでも有意水準が低いってなったら,あんまり意味がないんだもん。
アンケートを集計し,その結果を分析する。これは雑誌記事なんかでよくある内容だ。ものによっては,質問同士を掛け合わせて,2つの要素(因子)の間に関連があるかないかを分析するものもある。そういうときに出てくるのが「検定」。つまり複数の因子同士が本当に関連があるのかどうか,その仮説をテストすることだ。
検定という名前が付いているが,やっていることは「確率」計算。ところが,計算できる確率は「関連がある」って仮説の方ではなくて,「関連がない」という反対の仮説だけなのだ。これが摩訶不思議に思えるところかも知れないが,とにかく私たちにできることは,「関連がない可能性はこれくらいの確率」って事だけなのである。その確率と連動する水準のことを「有意水準」といって,この水準が低ければ低いほど,本来の仮説の方の可能性が高まる(かもしれない)という考え方なのだ。
おわかりのように,どんなに反対の仮説の確率が低くたって,本来の仮説の確率を明言できないのだから,実は結構いい加減なのだ。たとえば,「どう考えてもあの女性は僕に気がないはずがない」ということが明確になったとしよう。だって会うと笑顔を返してくれるし,時間があればよくおしゃべりをするし,映画に誘えば一緒に出かけてくれるし。確かに「気がない」という可能性は低いように思える。だからといって「あの女性は僕が好きなんだ」ということには絶対ならないのである。
ま,少々仮説の立て方が酷いのだが,つまりは仮説の立て方次第で検定が役立つこともあるし,下手な仮説の立て方をすると検定にほとんど意味がないことにもなる。
統計の話題は,書庫で文献紹介しながらまた取り上げてみよう。