お盆時期の日曜日。人々が帰省する中,課題に取組むため大学に出かけた。東京大学のある本郷三丁目周辺も,日曜日の上にお盆なので,いつもより静かな雰囲気を帯びていた。しかも清々しい青空だ。
大学内も人がいないわけではないけれど,蝉の大合唱を除けば,騒がしさもなく,穏やかな時間が流れていた。そういう雰囲気だと課題にも落ち着いて取り組める。これが毎日続くといいのに…。
中央図書館へ図書探し。研究室の自転車を借りて,シャーッとキャンパスを駆け抜ける。これもまた青空の下,気持ちがいい。必要な文献を借り,昼食を買い込み,また研究室に戻る。
先生や同級生がポツポツとやって来て,適度に人の存在も感じつつ(誰も居ないは居ないで寂しい…),しばらくしたらみんな帰ってしまったので,また独りで文献を読んでいる。途中,先生に質問できたのはよかった。
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何を読んでるかといえば,ヴィゴツキー関連の本である。レフ・セミョノビッチ・ヴィゴツキー。ソビエトの(いまは「ロシアの」と表記すべきだろうけれど…)の心理学者で,世界的に影響を与えた研究をした人物である。彼の主著『思考と言語』を日本語訳したのは,日本の教育学界の重鎮の一人である柴田義松先生である。
教育原理の講義を受けた私たちの頭の中は「(ヴィゴツキー=発達の最近接領域)→柴田義松先生」という図式がしっかり刷り込まれている。しかし,悲しいことにヴィゴツキーに関する知識はここ止まり。それこそ「発達の最近接領域」という概念の内容すら,「出来ないところから出来るところへとステップアップする過程におけるギャップのこと」という漠然とした認識でしかなかった。これは正しい説明になっていないらしい。
いやはや,そもそも私たちにとって「ソビエトの」心理学者という響きが,どんなものであったのか,当時を思い出していただきたいのだが,とにかくソビエト連邦というのは閉鎖的な国で,そこに抱いた怪しさたるや,いまでこそ戯画的すぎて笑ってしまうのだが,当時は本当に「一度いったら戻って来られない場所」という怖さがあったのである。
それもこれも冷戦下におけるアメリカとの対立や,007スパイ映画とか,「シベリア抑留」といった言葉とかから受ける操作されたイメージだったわけだ。だから「ソビエト教育学」なんて言葉を聞くと,触らぬ神にたたりなし,ソ連語なんてよくわからないし…さよなら〜,って感じで敬遠していた。
けれども,それを丹念に研究している先生たちがいた。柴田義松先生など,ソビエト教育学のもつ可能性をしっかり理解していた人たちは,僕らお子ちゃまがスパイ映画で「悪者・ソ連」を刷り込まれているのを苦々しく…思っていたのかよくわからないが…,とにかく真面目に原著を翻訳して,日本における研究の土台をつくってくれていた。
とはいえ当時,ソビエト教育学が話題にされる機会は少なかったし,柴田先生も,本当はとても優しい先生なのだが,話すまでは近づき難い方だったので,やっぱりなかなか距離が縮まらなかった。これはもう時代のせいである(と勝手に責任転嫁してしまおう^_^;)。
90年代にソビエト連邦が崩壊し,小国が離散した。あのソ連に対する戯画的なイメージが薄れ,ロシアという呼び名が耳慣れるようになって久しい頃,幸運にも再度ヴィゴツキーに触れるチャンスがめぐってきた。
近年ではユーリア・エンゲストロームによる「活動理論」の提唱と山住勝広氏による日本への積極的な導入によって,その理論的源流ともいえるヴィゴツキーの研究も注目を集め出した(ただし中村氏によればヴィゴツキーの理論は活動理論ではないという)。
さらにヴィゴツキーを扱う研究者である中村和夫氏や神谷栄司氏の議論も日本のヴィゴツキー研究を発展させていこうとオープンに展開している(ヴィゴツキー理論をどのように捉え直していくかで,なかなか刺激的な展開があるようだ)。
柴田先生自身もまだまだご健在で,『思考と言語』は今世紀に入って新訳版が出されたし,入門新書も書かれている。
まあ,ロシア語がちんぷんかんぷんなので,こうした先生方の成果に頼らざるを得ない。むかし敬遠してしまった後ろめたさを解消するためにも,あれこれ読んでみたいと思う。
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ちなみに,ヴィゴツキーに関する参考文献としては,
柴田義松『ヴィゴツキー入門』寺子屋新書(子どもの未来社2006.3/800円+税)
中村和夫『ヴィゴーツキー心理学 完全読本』(新読書社2004.12/1200円+税)
が初めて読むには手頃な感じである。
あれこれ平行して読んでいるので,実はこの2冊を読み切れていないが,「発達の最近接領域」のことも含めて,後日また書いてみたいと思う。
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葉月9日目
名古屋での集中講義を終えて,東京に戻る。すぐさま(大学院の)授業課題でもあるワークショップ準備に取りかかっていた。休む暇なく役割を代えなくてはならないので,なんだか変な気分である。
ワークショップ(WS)の本番前に必要なプレ実践を行なった。少人数ではあったが協力者の参加を得て,なんとか一通りのプログラムをこなす。あれこれ手直しが必要な部分が見つかり,これから本番に向けてさらに作業を重ねなくてはならない。
どんなWSをするのかは,詳しくは後日ご紹介したいが,「思い出」に関して何かをしようとするWSである。そのWSの参加者に向けて冊子をつくろうと考え,久し振りに編集作業をしていた。InDesignというソフトでページレイアウトしていく。昔,職場で手引き書みたいなものをつくったときも,このソフトでああでもないこうでもないと作業したことがある。それも懐かしい。
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WSの冊子に「社会の出来事年表」を載せることになったので,『情報の歴史』(NTT出版)というその筋の年表本では有名な本を参照したり,インターネット上の情報を合わせて作成した。1950年から2008年まで,ずらずらっと主要な出来事や当時流行った歌やテレビや映画が並ぶ。
年表がキレイに出来上がって,まじまじと眺めていたら,自分が結構長く生きてきたことを再確認することになった。当たり前のことだが,いま大学院で一緒になっている人たちより10年くらい余計に時代を体感している。そのわりには,キレイさっぱり忘却の彼方へと追いやっているみたいだ,ははは…。
歴史に学ぶことと,時代に固執することとは違う。けれども,私たちはどこかそれを上手く処理できていないのだ。ある種の金言名句を尊ぶことが乱世においても確かな道理だと考えることは悪いことではないのだが,変わりゆく世の変わり果てた私たちを思うとき,その言葉を今日の葛藤と合わせ置かずに唱えることは,ご都合主義になりかねない危うさがある。
本当に時代の上っ面しか触れずに生きてきたのだなと,自分を思うことがある。本質的に消費社会万歳な人なのだ。デパートは大好きな場所の一つである。モノに溢れている,この世のなんと幸せなことか。年表を振り返り,懐かしい消費の象徴たちと再会して胸が躍る。そういう幸せな世界が続けばいいなと願う。
そう願う以上,続かない現実を認識しなければならない。
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冊子づくりも一段落したので,次なる仕事に着手しなければ。過去のテレビ番組を振り返る仕事とか,学会の発表準備とか,合宿での発表の準備とか…。賑やかな夏である。それにしても暑い…。
ワークショップをつくる
世間は連休。ところが台風に地震にと日本列島は災害続き。今日の新潟中越沖地震は,東京でも長い時間ゆらゆらと大きく揺れた。じっと様子を観察しながら,もしかしたら直接ドカンと大きなものがくるのかと心配だった。
雨降りの日々は家に閉じこもって,課題の本を眺めたり,パソコンのメンテナンスをしていた。ソフトウェア入れ替えのために不活性なデータをDVD-Rに退避して,ハードディスクの最適化を施す。心持ち動作もスッキリしたような気がする。これを機会に,創作意欲を盛り上げていきたい。
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今日は授業で取組んでいるワークショップづくりの打ち合わせをした。学びの一つの形として「ワークショップ」に注目が集まっていることはご存知の方もいると思う。それを実際にプロデュースすることからいろいろ学ぼうというのが目的で,私たちのグループもアイデアを練ってつくっているところである。
旧教室文化に属する一斉授業型の指導方法が,一般的な教授学習スタイルとして認識されてきた。(と書いてみて,実のところ本当にそうなのかこの頃つくづく分からなくなってきた。世間には,こんな認識がまだ残っているのだろうか。あるいは,塾のような個別指導型の学習の方が当たり前だと思われているのだろうか。多様化する「世間の認識」を知ったかぶりして語ることが,最近酷く辛くなってきたというのが駄文からも距離を置かざるを得ない一つの事情である。もう少し鈍感になってでも話を語り継がないといけないなぁとは思うのだけど…。)
ワークショップという学びのスタイルが新しいのかどうなのか,正直分からない。教育現場を志向した経験から言えば,豊かな学びが発生した授業や学校活動には,いまで言うところのワークショップ的な要素が含まれていたわけで,そういうまなざしからすると,今日のワークショップ議論は「何を今さら」といった気にもなる。
かつて教員養成学部で応用教育実習という名の自主教育実習活動「YOU遊サタデー」を始め,やがて教員養成系学部大学・フレンドシップ事業という全国的な取組みになった活動に関わった。あれも広い意味ではワークショップ的な学びをつくる実習をやろうとしていたわけで,ワークショップは古くて新しいテーマである。
ただ,それを言うと「なんだ,ワークショップなんて大したことないな」なんて認識を植え付けてしまうかも知れないので,なぜ今ごろあえてワークショップが注目されてるのかの理由を説明すると,ワークショップの方法論を明確にしようという取組みが本格化したというのがそれである。
ワークショップの方法論を明らかにする模索から,学習科学や情報・デザインの分野との知見がリンクした形でのワークショップというものが目立ち始めて,それもまた新鮮なワークショップとして受け止められ,理論と実践共々注目を集め始めたというのが昨今のワークショップブームの発端だと思われる。
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教師の実践的な教育行為を言語化し理論化していくことの難しさや,逆に理論化したものを実践へと活かそうとする道筋の難しさは,永遠の問題とされている。
認知心理・教育心理学者であるカール・ベライターは著書で,そこに両者の文化を融合したところのハイブリッドな文化を創り出さなきゃならないなんて書いている。そう論じる理由も分からないではない,というか,むしろそれはそうあるべきだと思うのだけど,それって私が越境的な人生送っているからなのだろうか。
世間との認識のズレをなんとかしたいと思いつつ,ワークショップでずれまくろうと努力していることに,一抹の不安を抱えている自分であった。
文月3日目
今月は授業やゼミでの発表が重なっている。名簿順が後ろだと,最初は悠長としてられるが,最後に順番が回ってきたときに大変な思いをする。ああ,もしかして締め切りが迫らないとエンジンがかからないのは,長らくその条件に慣れてしまったせいだろうか。なんて勝手な理由を考えたりする。
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大学院に入って3ヶ月。ようやく学内での振る舞い方も馴染んできた。図書館が少々遠くて,入り浸り足りないが,もっと大学のリソースをあれこれ活用しようと思っている。
文系から理系の研究流儀に切り替えるのは課題も多くて,実践しながらまだまだ学ばなくてはならない。それでも,以前よりは理系流儀に対する理解も深まって,なぜ多くの人々が心理学系の大学院に行きたがるのか理由も分かってきたし,データベースのおかげで膨大な先行研究を扱えるようになった便利さも実感している。
英語文献を触れる機会が強制的にあるおかげで勉強になっている。相変わらずボキャブラリーのなさが足を引っ張るが,少しでも英語文献を手に取る時間があるというのは,大学院に入り直した一つの収穫でもある。不得意が得意になるかどうかは後から分かることだが,諦めなければ何とかなると信じていよう。
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本当なら個別の授業のことをここに書き記して,私の勉学生活を披露していくつもりだったのに,そういう展開になっていないことが申し訳ない。
いずれ個別の講義の紹介もしたいが,面白い話もあれば,月並みなときもある。私も日々の疲れと年齢のせい(?)か,しっかり授業中に居眠りなんかをしてしまうことがある。教員もやって学生もやって,どっちの苦労もどっちの足りなさも体感中。偉そうなことをだんだん言えなくなってきてしまう,ははは。ごめんなさい。ただただ日々のやるべき事に努めます。
文月1日目
あっという間に7月になってしまった。宿題が山積みで駄文書いてる暇がない(というのは正確ではなくて,本当は駄文でも書いて思考の逃避をしないとダメなのだが,後手に回っている宿題もたくさんあって,駄文書いて関係者を不快にさせるのはいかがなものかと自粛している。悩ましい話である)。とか言って,やっぱり書いちゃうんだけどね。
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米国ではiPhoneが発売されて,かなり盛り上がっているらしい。日本には2008年以降の提供になるようだ。それはそれでのんびり待つとして,むしろ今月はAdobeのCreative Suite3のマスターコレクション版が発売されることの方が大事。この機会を首を長くして待っていた。
WebデザインソフトのDreamweaverもレイアウトソフトのIn Designも,PDFソフトのAcrobatも,もちろんPhotoshopやIllustratorも,とにかくほとんど全部のソフトのユーザーなのだが,バラバラに購入していたので,ここらでまとめてバージョンアップしたい。学割でも高いソフトだが,お金確保して長いこと待ったんだから買う。
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ナントカー先生が参議院選挙に出馬して,オールなんとか先生が入れ替わりに教育再生会議委員になったのだとか。前者は困った話であるが,後者は学術会議の要望に合致するのかどうなのか,一度関係者に感想を聞いてみたいものだ。
それにしてもナントカー先生は,もうそろそろ年貢の納め時だろう。教育を踏み台にして自己顕示欲を満たすのはいい加減にしていただきたい。はあ…。それにしても,教育委員って結構なお給料なんだな。
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全国学力調査は鋭意採点中の模様。あちこちで問題の分析や調査自体の意味の検討がなされている。教育学修士時代の師匠がとある雑誌に「悉皆調査の意義は,結果が学校に返されることである」といった趣旨の論考を書いていた。悉皆調査の問題は,序列化云々の懸念や調査の費用対効果への疑問など,いろいろある。けれど,そもそもは調査が教育の改善に役立つことを企図しているのであるし,そのような意思で結果を使えばそれは不可能なことではない。その前向きな発想をしっかり掴むことを忘れてはいけないと,久し振りに師匠の文章を読んで思った。
また別の雑誌で陰山英男先生が,学力調査の問題は,「これからこの方向の学力向上に取組む」という文部科学省からのメッセージだという旨を書いていた。悉皆調査の意味と合わせて考えれば,学校現場に対して,その問題と調査結果を踏まえてこれからの学校づくりをして欲しいという事なのかも知れない。
笑ったのは,フォーサイト誌の記事「学力調査はPISAの模擬試験だった」という論旨。なるほど,確かにそういう見方もできるかも知れない。だとしても,意識は低いかも知れないが,それはそれでいい部分もあるのではないか。結局のところ,国が動くためには,そういうインセンティブが必要かも知れないのだから。
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ちょっと読んでいる暇がないのだが,神野直彦『財政のしくみがわかる本』(岩波ジュニア新書/819円+税)は,国の財政を理解するのによさそうな本である。中途半端な知識しか持っていないので,これで再勉強したい。が,読む時間がない…。
水無月8日目
なかなか更新もできず(いや実際には何度も試みようとしていくつも下書きを書き出していたけれども書き上げるには至らず),日付はいつの間にか6月。有り難いことに,賑やかな毎日を過ごせている。
大学院生ゆえに履修すべき単位もあって,今年1年はそれが結構ある。そして今週はゼミでの定期研究発表の担当。先行研究のレビューが宿題だったので,その進捗を報告しなければならなかった。さらに院生として研究プロジェクトを手伝うものと,研究者の端くれとして共同研究する仕事の定例会など,「賑やか」との表現に値する日々なのである。
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それにしても先行研究のレビューをやり始めて,この10数年に起こった研究環境の劇的変化に正直,面食らっている。いやはや世界は変りました。
10年前に教育学の修士論文を書いたときには,先行研究や文献検索は図書館に出かけて,図書索引カードをめくるか,ぼちぼちweb化された検索端末で検索をするくらい。それも大概は書籍単位までで,論文単位での検索方法は統一されていなかった。だから大学図書館の理想は,蔵書が1カ所にまとめられていて,よく整理された書棚の前を闊歩して,資料を渉猟できることだった。資料との出会いさえロマンスになりうる,そんな世界の延長線上だった。
その後,webはさらに普及し,googleの登場で象徴される検索の時代が到来。私たちが当時ERICでかろうじて体感した論文検索の世界が,とうとう日本でもCiNiiによって可能になったのである。
キーワード打ち込んだら関連する論文タイトルがずらずら出てくる。このなんてことはなさそうな作業は,理系畑の人々にとってはともかく,文系畑にとっては衝撃的である。なにしろ,公開処理された論文はPDFファイルとしてそのまま表示され,図書館いらずになってしまった。大学図書館のスペースに蔵書を集める苦労をせずとも,webのボタンから中身を確認できるようにするだけでよいのである。資料との出会いはマッチングシステムでもたらされる,そんな世界になった。
そのことで先行研究をさらう作業が飛躍的に楽になったかというと,そういう面もある一方で,検索して出てくる何千件ものタイトルを1つ1つ精査なり吟味していく作業が必要になってきた。キーワードによる検索は必ずしも万全ではないし,無関係なものや分野違いも含まれる。注意深い検討が必要だ。
それでも,手作業で探していた時代に比べれば,情報収集量は格段に多いし,それだけ過去の財産に光が当たる可能性も高まるのだから,喜ばしいことだと思う。
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というわけで,この数週間はその検索結果とにらめっこする日々もあったし,いろいろな行事に関わったり,お仕事の会議に出かけたり,小学校にもお邪魔したりと,駄文を書いている余裕がほとんど無かったというわけである。
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今日のお仕事では,日本の情報教育の黎明期を支えられた先生方と一緒になった。70代のお二人は,すでに第一線を退かれてはいたが,とてもお元気で,20年前の情報教育や学習ソフトウェアの思い出話をいろいろ語ってくださった。「あのときはFM-TOWNSでやってたんですよ,ははは」と懐かしい商品名がちらほら出てきて,私自身も記憶を巻き戻すことになった。
今日の教育界は,そうした上の世代の方々の目にはどう映っているのだろうかと,こんな機会に考える。あなたならどんな風に想像するだろうか。
そして私が歳をとったとき,この世界をどう見るのだろう。私も「パソコンの文字は細かくて困る…」なんて嘆いているだろうか。「自分の努力もまんざら悪くなかった」と思えているだろうか。
「若い人達に頑張ってもらわなきゃ」,70代のお二人は,にこやかにそんな風なことをおっしゃった。そう言われて,たまに自分が同じセリフを口にしていることを少し反省した。とにかくやるだけやろう。
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明日は内田洋行が主催しているNEW EDUCATION EXPOに出かける。去年は初めて父親と一緒に参加したという印象深いEXPOだが,今年はなぜか企画に登壇することになってしまった。こういうことで恩返しや貢献が出来るのであれば,断る理由がない。(あ,でも生活費稼ぐためにも仕事大歓迎か!感謝感謝!)
かくして,私の徒然な日々は周りの皆様のおかげで本当に賑やかに進行中であり,もうちょっとそれぞれが形になったらあれこれ駄文も書き連ねようと思っている。
皐月2日目
GWの前半は実家に帰省。必要な書類や蔵書を東京に持っていく準備をした。休むときは休もうということで,それ以外の時間はボーッと実家で過ごした。本当にボーッとした。そしてちょっと買い物した。
蔵書分散問題はしばらく悩み続けそうだ。大学に図書館があるとはいうものの,使いでのある文献は取り合い状態だったりもするし,手持ちに常備できる利便性には敵わない。もっとも「本に振り回されてる」と言ったのは,蔵書に埋もれて見るに堪えない部屋の惨状を呆れる母親。本当のことはいつでも耳が痛い。
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前の職場から同窓会報が送られてきていた。依頼されて書いた原稿が掲載されている。私もすっかり過去の人扱い。辞めて,東京で大学院生をしているなんて,卒業生達が読んだらビックリしているに違いない。サプライズ,サプライズ。
もはや教え子達と再会する機会はないが,同じ時代に生きている限り,元気で頑張っていて欲しいと思う。それが教育に携わる人間が最後に拠り所とする心情だ。
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段ボールでいくらかの蔵書を郵送し,手持ちであれこれ抱えて東京に戻った。GWの平日だから名古屋の地下鉄は学校帰りの学生で溢れ,新幹線の到着した東京駅には明日からの連休後半に帰省する人々の人集り,山手線は会社帰りの人々でごった返していた。どれにも属さずに土地を移動するのは不思議な気分になる。
いくつもの現実を眺め,それぞれに想像をめぐらし,生き方の多様性を尊重していくこと。そこには厳しさと同時に生きやすさがあらねばならないと思う。私たちの携わる教育はそれを指向しているだろうか。それに耐えうる施策を打ち出しているのだろうか。税源移譲に代表される地方分権の流れの中で,その事は共有されているだろうか。あるいは共有できるのだろうか。
自分が取組むべき事柄の前提をどこに設定すべきか。迷いに迷うGWである。
卯月14日目
講義の第1週が終わる。金曜には学生っぽいアフターの時間を過ごしてみたりと,賑やかな一週間だった。来週は授業も本題に入り出して,いよいよ濃い日々が始まろうかというところである。
テキストや参考図書が示され,いくつかは購入済み(積まれて読書待ち含む)であった。けれど,遠く実家方面の蔵書群に残してきたものもあり,いつ取りに行こうか悩ましい。そんなこと考えながら,部屋に散らかった文献を分野ごとに整理する作業をしていた。
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「学習科学」に関する参考文献を今一度おさらいしようと思う。と同時に「カリキュラム研究」に関しても見直しをする必要がある。授業研究やカリキュラム開発あたりの話は,どうも放っておくと某K先生あたりの成果に寄り掛かり気味になる傾向が周辺にはあるので,自分なりにバランスを取れるようにしたい。
まあ,学習科学分野に関しても何か(日本の)文献はないかと眺めてみると,放送大学テキストのシリーズがずらずらと上がってきてしまうという寡占状態みたいなものがある。
波多野,大浦,大島『学習科学』2004
三宅なほみ『学習科学とテクノロジ』2003
稲垣,鈴木,亀田『認知過程研究』2002
波多野,永野,大浦『教授・学習過程論』2002
大島,野島,波多野『教授・学習過程論』2006
波多野,稲垣『発達と教育の心理学的基盤』2005
これに米国学術研究推進会議編著による『授業を変える』(原題 How People Learn)北大路書房2002であるとか,わりと定番が決まっている。
そうか,そう考えれば,攻めやすいのかも知れない。それぞれ断片的にしか読まなかったところがあるので,もう少し丁寧に読み返してみたい。
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心理学(特に認知心理学や学習科学)への理解を深めていくことによって教授学習という教育の営みを考えていこうというアプローチになる。文系寄りでやって来た頭を多少なりとも理系寄りに切り替える必要がある。
佐伯,宮崎,佐藤,石黒『心理学と教育実践の間で』(東京大学出版会1998.9)は,この切り替え作業を若干は助けてくれるのかも知れない。これも読み直したい本の一冊か…。
あとは「統計学」に正面切って挑むことになる。独学我流の限界(と書くと法則化運動っぽいな)を感じていたところだから,この機会に学び直せるのは嬉しい。でもたぶん道のり険しい。
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平成17年度教育課程実施状況調査の結果が公表された。新聞報道では「学力改善の方向」とかいう風に報道されている。
経年変化を1回前との比較でしか見られない分析結果に対して評価的なコメントはできるはずもなく,慎重に見守るというほかない。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の実施も近く,それについての議論喧しいが,データを継続的に取り続けることの大切さは事前に実感し難いものである。
卯月11日目
大学院生活が始まって一週間。講義は今週からなので3日受けたところ。おおよその時間割も見えてきたので,あちこちにお知らせをしないと…。結局,平日はほぼ毎日大学に出かけることになる。
最初から駆け足調子でスタートしたのが,そのまま続いている感じ。たぶん,これを下げることなくペースアップしていくことになるんだろうなと思う。この4月中にうまくペースに乗っかることが大事なのだろう。
そのうえキャンパスのあちこちで授業が開かれるので,移動するのも大変。散歩している分には気にならなかったが,授業の移動のためとなると急に距離が遠く感じられる。体力も大事みたいだ。
卯月6日目
朝起きて,報告書を書き上げなきゃと思い,コツコツ書いてたら,用事一つすっぽかしてしまった。ああ,恥ずかしい失敗をしてしまった。やっぱり頭のネジがゆるみっぱなしかも知れない。
とにかく書いてた報告書を仕上げてメールで送る。情報の真偽を確かめるためにもっと調べたかったけれど,時間がいくらあっても足りないので,言い回しをぼかしたり,情報を捨てたりして,諦めるしかなかった。
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本日は先輩達が修士論文の途中経過を発表する会が催された。1年後には同じ事を私もすることになるわけで,どんな雰囲気かを知るためにも発表を聴いて回った。
学際情報学府は,文理混在した研究科なので,発表内容は文字通り広範囲に及び,関心の幅が広い人にとっては極めて刺激的な時間であった。もともと教育学のカリキュラム研究畑に居た,気の多い私のような人間には,世界の奥深さを再確認する良い機会にもなった。こういう多彩なもの達を,どうやればねじ伏せて見渡せる地平に持ってこれるのか。カリキュラム論的にいろいろ考えられそうだ。
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なんて余所余所しく書きっぱなしではいられない。いよいよ来週から授業スタート。ネジしめてかからないと…。