ワークショップをつくる

 世間は連休。ところが台風に地震にと日本列島は災害続き。今日の新潟中越沖地震は,東京でも長い時間ゆらゆらと大きく揺れた。じっと様子を観察しながら,もしかしたら直接ドカンと大きなものがくるのかと心配だった。
 雨降りの日々は家に閉じこもって,課題の本を眺めたり,パソコンのメンテナンスをしていた。ソフトウェア入れ替えのために不活性なデータをDVD-Rに退避して,ハードディスクの最適化を施す。心持ち動作もスッキリしたような気がする。これを機会に,創作意欲を盛り上げていきたい。

 今日は授業で取組んでいるワークショップづくりの打ち合わせをした。学びの一つの形として「ワークショップ」に注目が集まっていることはご存知の方もいると思う。それを実際にプロデュースすることからいろいろ学ぼうというのが目的で,私たちのグループもアイデアを練ってつくっているところである。
 旧教室文化に属する一斉授業型の指導方法が,一般的な教授学習スタイルとして認識されてきた。(と書いてみて,実のところ本当にそうなのかこの頃つくづく分からなくなってきた。世間には,こんな認識がまだ残っているのだろうか。あるいは,塾のような個別指導型の学習の方が当たり前だと思われているのだろうか。多様化する「世間の認識」を知ったかぶりして語ることが,最近酷く辛くなってきたというのが駄文からも距離を置かざるを得ない一つの事情である。もう少し鈍感になってでも話を語り継がないといけないなぁとは思うのだけど…。)
 ワークショップという学びのスタイルが新しいのかどうなのか,正直分からない。教育現場を志向した経験から言えば,豊かな学びが発生した授業や学校活動には,いまで言うところのワークショップ的な要素が含まれていたわけで,そういうまなざしからすると,今日のワークショップ議論は「何を今さら」といった気にもなる。
 かつて教員養成学部で応用教育実習という名の自主教育実習活動「YOU遊サタデー」を始め,やがて教員養成系学部大学・フレンドシップ事業という全国的な取組みになった活動に関わった。あれも広い意味ではワークショップ的な学びをつくる実習をやろうとしていたわけで,ワークショップは古くて新しいテーマである。
 ただ,それを言うと「なんだ,ワークショップなんて大したことないな」なんて認識を植え付けてしまうかも知れないので,なぜ今ごろあえてワークショップが注目されてるのかの理由を説明すると,ワークショップの方法論を明確にしようという取組みが本格化したというのがそれである。
 ワークショップの方法論を明らかにする模索から,学習科学や情報・デザインの分野との知見がリンクした形でのワークショップというものが目立ち始めて,それもまた新鮮なワークショップとして受け止められ,理論と実践共々注目を集め始めたというのが昨今のワークショップブームの発端だと思われる。

 教師の実践的な教育行為を言語化し理論化していくことの難しさや,逆に理論化したものを実践へと活かそうとする道筋の難しさは,永遠の問題とされている。
 認知心理・教育心理学者であるカール・ベライターは著書で,そこに両者の文化を融合したところのハイブリッドな文化を創り出さなきゃならないなんて書いている。そう論じる理由も分からないではない,というか,むしろそれはそうあるべきだと思うのだけど,それって私が越境的な人生送っているからなのだろうか。
 世間との認識のズレをなんとかしたいと思いつつ,ワークショップでずれまくろうと努力していることに,一抹の不安を抱えている自分であった。