広島へ出掛けた。ご存知の通り,福岡沖玄界地震が起きた直後。私が乗った新幹線も状況の推移を見ながら運転するような事態であった。ちょっと無謀な気もしたが,予定は決まっていたから,とにかく向かう。これに似た気分を以前にも味わったなと思ったら,テロ事件の一年後に出掛けたNY行きのときだ。
広島での出来事や途中で寄った場所のお話は,少し後で書くとして,帰宅するために乗った地下鉄で,ある吊り広告を見つけた。ボーッと見ていた週刊ポストの見出しのその隣り。「子育てに迷ったり,悩んだり,困ったら,保育所へ」という見出しに次のようなことが書いてあった。
(1)子育てに関して誰かに相談したい。発育の違いについて誰かに教えて欲しい。→保育士がご相談をお受けします。
(2)通院しなければならない。急用が出来てしまった。子どもを誰かに預かって欲しい。→保育所で一時的にお預かりすることが出来ます。
そして「これからの保育所は大人も育んでいきます」のセリフとともに,子どもと若夫婦が園児帽と鞄を持っている写真が添えられている。厚生労働省の「もっとみんなの保育所へ。」広告。
細かい文面はうろ覚えなのでまた確認していただきたいが,とにかく突然出会ってビックリしてしまったのだ。確かに保育所(一般的には保育園として聞き慣れているかも知れないが‥‥)は,子育て支援の機能を持つようになり,地域に向けてサポートをしている。これは子どもを入所させている保護者にだけではなく,地域のすべての人々に提供されているサービスなのだが,なかなか知られていないのも事実。そこでこうした中吊り広告などのPRが必要というわけだ。
ところが,まぁ,インターネットで探してみても,この広告に関する情報は皆無。当の保育所には,当然情報がいっているのかも知れないが,このPRは,なかなか微妙な影響も与えそうだ。
一つには,保育士の専門性のアピールをして専門家として相談をお受けするというわけだが,相談する側としては,もう少し具体的な段取り解説が欲しいところだ。というのも,訪問してみるとわかるが,保育所というのは入り口が千差万別で職員室にたどり着くまで大変なのである。それに外部のお客さんを迎え入れる部屋やスペースが確保されているとも限らない。もちろん支援センターとして形を整え始めている保育所は増えてはいるのだが,多くの保育所はまだまだウェルカムな状態ではないと思う。
二つめには,一時預かりをPRしている点。これも本当に急用があって預けたい事態になった人々には有難い支援なのだが,これを逆手にとって,都合よく利用してしまう人たちにどう対処するのかは課題だろう。各保育所でルールのようなものはあるとしても,無理強いをしてくる利用者対応をうまく処理できるのかどうか。保育現場にとっては頭痛のタネだ。
厚生労働省は,こうした子育て支援の条件や環境整備を強化しつつ,保育士資格の取得に関しても養成校の教育水準維持と保証の強化に乗り出している。専門家による子育て支援体制を整備するためには,専門家としての保育士の養成が不可欠。それはいま滞りつつある保育士養成課程の四年制化(四大化)を今一度推し進めようとする動きなのかも知れない。
そんなことにも思考を逸脱させながら,この広告は電通(広告代理店)の作品なのだろうか?とぼんやり考えていた。
「教育」カテゴリーアーカイブ
アン・リーバーマン女史
学校改革実践研究福井ラウンドテーブルは,様々な立場の人々が小グループで同じテーブルを囲みじっくりと語り合うという充実した時間を過ごし,無事お開きとなった。同じグループに,以前見かけたホームページの持ち主も居て,ちょっと嬉しかったし楽しかった。いやぁ,帰ってきて確かめたらやっぱりその方だったわけだ。Japanese Onlyでごめんなさい‥‥。
さて,5日に行なわれた「日本における教職専門職大学院のための福井会議」には,3人の基調講演者がいて,そのうち2人が東京大学の佐藤学先生,宮城教育大学の横須賀薫先生であることは書いたが,もう一人,海外から特別ゲストで,カーネギー教育振興財団の上級研究員であるAnn Lieberman(アン・リーバーマン)女史がアメリカにおける教育再構築の取り組みについて講演した。
いやはや,実は参加しているときには「あれはどこぞのアメリカおばさんなのか?」とハテナマークを点滅させながら,それでも「ヒヤリングの練習だ」と思って,通訳なしにじっと耳を傾けていた。後で,講演の日本語レジュメが事前に手元に配布されていたのがわかってズッコケて,さらに家に帰ってきて,彼女について調べたら,アメリカの教師教育に関する研究をしている大御所だったことがわかって,あららぁ,そんな人だったのねぇ〜,残念っ!。
言っていたことはシンプルきわまりなかった。リーバーマン女史の取り組みにおいて「ネットワーク」形成が重要鍵語であり,昨今ではWebベースのマルチメディア教材によって知識共有をすることに関心があるようだ。なぜならば,彼女らのプロジェクトにおいて「(教育実践を)公開し,批評し,受け継がせ,積み重ねる」(Make it public, Critique it, Pass it on, Built upon it)が重要視されているからである。それが,「実践を通した」ティーチング(教師の専門技能)の研究に通ずるというわけだ。
会議の場では誰も彼女の発表について疑問を差し挟まなかったが,もう一人の基調講演者の横須賀先生は教育系大学院に関する別文脈の発言の中で,日本の学校や教育が持つ文化的な問題(つまり古くて柔軟性のない閉塞的な伝統文化)を指摘していたことが,リーバーマン女史のアメリカ風「あっさりいったら?」的な取り組みについて日本の私たちにはどうしても海の向こうの話だよねぇ的感想しか引き出さないことの説明になっているのかなとも思う。
言ってみれば,あの場は柔らかな「ライブドア vs フジテレビ」構図の変奏だったのだ。リーバーマン女史にしてみれば,日本の人々が難しい顔して大学院や専門職大学院をつくらにゃならんと時間を潰していることが不思議でたまらないのだろう。そんな風に足踏みするくらいなら,マインドを開いて「少しでも現場の人たちと膝つき合わせることにエネルギーを割いたら?,そこから物事はよくなるのよ」って思っていたに違いない。でもねリーバーマンおばさま,マルチメディア・ウェブサイト(webベースのマルチメディア教材)によって教師教育の改革を素朴に信じられるなんて,ライブドアを「月並みなアイデアしかない若輩者」と見なしている現代の日本人には難しい話なのです。だから,日本で「専門職としての教職」養成を実現する教職専門職大学院をつくりたいなら,若い世代の研究者だけを専任メンバーにして,あとは院外協力研究員として年輪を重ねた名だたる先達の研究者に周りを固めてもらう(ただし専門職大学院の運営にはあくまでアドバイザーで実質的には口出させない)というくらいしないとダメです。それともカーネギー教育振興財団で日本支部つくって,研究やってください。
とにかく,リーバーマン女史の講演もまた,教職専門職大学院についての複雑化する議論そのものを「無意味じゃないの?」とひっくり返してしまう要素を持ち得ていた。みんなそのことを強調したくはなかったのだろうけれど,きっとみんな思っていたことだ。日本人の幾重にも凝り固まってしまったマインドを解き放つためだけに,新しい制度を増やしたり,問題発生の余地を膨らましている。それが「何か措置をしたのだ」という一時的な満足感を満たしはするだろうけれど,やっぱり宿題は次の時代に持ち越されるか,時間オーバーで何もかも失うのかも知れない。
教職専門職大学院
福井に来ている。「日本における教職専門職大学院のための福井会議」というものに出席させていただき,翌日の「学校改革実践研究福井ラウンドテーブル2005」でお手伝いさせていただくことになっているからだ。
教職専門職大学院に関する会議は,大変微妙な感情を残したまま終わった。このごろ,この手の話のために脳みそを動かしていなかったので,とにかく話を聞くことばかりに熱中していた。同時並行して思考の逸脱をする余裕はなかったが,それにしても,その場はとても微妙な空気をつくり出していた。
そうなった一つの要素は,3人いた基調講演のうちの一人が佐藤学先生だったこともある。雑誌『論座』の論考でご承知の通り,佐藤先生は今日の教員問題について大変憂慮している。教員採用における競争率の高さによってかろうじて維持されていた教員の質が,昨今の競争率低下,つまり人手不足によって質の低下を招くことになっている問題。これを始めとして,現在の各教員養成系学部大学の大学院の在り方,それを放ったまま教職専門職大学を(法科大学院などと同じ発想のもと)つくり出そうとする整合性の無さなど,明らかに損失や破綻を招くような制度改革に,大いなる警鐘を鳴らしている。これまで教員養成系学部大学や教職課程などにおいて教員を輩出してきたとされる教員養成教育は,はっきり言って不十分きわまりなく,確実に失敗してきたのだと厳しく指摘した。
もうちょっと会議の内容を丁寧に記述すべきだと思う。いつもの佐藤節が炸裂していたとはいえ,もちろん,今後の教員養成や教師教育が「ケース・スタディ」を中核としてカリキュラムが再構成されなくてはならないという大事な示唆もあるし,その他にも教師の専門職性などあれこれ考えるべき項目はあった。あそこでビデオカメラを回していた誰かがちゃんと情報をオープンにしてくれれば,そういうことも皆さんに伝わるのに,なかなか難しいものだ。
とにかく,その後に続く教職専門職大学院にまつわる委託研究の報告などを聞いていても,この最初に提示された問題の枠組み,つまり,これまでの教育系学部や大学が放置したままの問題を丁寧に拾い直して本気で変えていくよう行動しなければ,日本における教員養成や教師教育は,かろうじて残っている信頼とチャンスを完全に失うことになるだろう,という前提がすべてを覆してしまいそうだったことが,わたしにとってはとても微妙な気分だったのだ。
私はかつて教員養成系学部で学んだ日々と,仲間達のことを思い出していた。いつか自分の母校に教員として戻ったら,現場に散らばる仲間を大学に呼び戻して,再び教育についてともに議論を深められるのではないか,そんな夢のようなことを考えた時期があった。もちろん,国立大学法人の母校に教員として採用されるにはそれなりの能力と業績が必要なので,夢のまた夢の話である。
でもたぶん,今回の会議で求められていたのは,現場と大学の「そういう関係」ではなかろうか。研究者が現場にフィールドワークやアクションリサーチしてみても,所詮は限られたスパンで終わってしまう。しかし,会議を主催した福井大学の先生たちの熱意や取り組みを聞いたり見たりすると,研究者は現場に「一生を掛けて」付き合う覚悟が求められているのだと主張されているように思う。とある先生が口にする「ゆるやかな関係で」という言葉も,長く付き合っていくことを前提としている。
そして,私は思ったのだ。この会議に出席した人たちを見回して,10年後,20年後,30年後生き残って教育学部を担っている奴は誰なのかと。もう一人の基調講演者である横須賀薫先生は,(半分冗談で?)「遺言」なんて言葉さえ持ち出した。上の世代の人たちは,自分のリタイヤのことを考えなければならないときに,次代の教職専門職大学院について力振り絞って考えようとしている。けれども,世代文化を枠とする思考限界だってある。あるいは,もう身体が動かないと嘆く世代だ,エネルギーの必要な内発的な改革について熱意を込めて議論する余地はもうないかも知れない。そんな人たちが,難しい顔して今後の教員養成や教師教育の在り方を一生懸命語ろうとしている。
文部科学省から出席してきた係長は20代後半だ。大学院生は20代前半か。30代はどれくらいいただろう。40代は?この会議の中において世代毎の温度に違いはあったのだろうか。上の世代は,(学部生といった学生達を含めた)下の世代について,どれほどの意識を盛り込んで議論していただろう。下の世代は,上の世代がくぐり抜けてきたさまざまな闘争と苦悩の経験に基づいた思考の在り方にどれほどの想像をめぐらせられたのだろうか。
教員をめぐる様々な問題について,それにかかわる私たち自身がどれほど自らの取り組みを再構築し実践していけるのか,そんなきわめてパーソナルで些細なことが問題の核心なのである。ところが,私たちは問題をパーソナルな領域にとどまらせることをよしとしない悪い行動パターンがあるようだ。なにか改善への取り組みを形にしなければならないという暗黙の要請。教職専門職大学院や教員免許更新制など,こうしたお題目と取り組みが,単なるアリバイ(改革のための改革)でないと誰が言えるだろうか。
とにかく鈍った思考の中で,私は微妙な気分を味わっていた。
新・中教審はじまる
ニュースでご承知の通り,新しいメンバーによる中央教育審議会が15日に始まった。毎日新聞がweb記事[1,2]でその辺の状況を詳しく伝えている。
以前ご紹介した2つの国際学力調査の結果を受けて,日本の教育を抜本的に見直す必要があるという構図だ。そのために「生活科」や「総合的な学習の時間」といった取り組み始めた部分に関しても例外なく議論の対象とすることも明言されている。(この辺が変に注目されてしまったので,文科省としても「新聞報道について」というコメントを出して理解を求めている。ちなみに,こんな風にマスコミ報道に対してきちんとコメントする姿勢が出てきた。大事なことだと思う。)
毎日新聞記事が審議事項についてまとめてくれているが,どうもレイアウトが間延びして見難いので,引用して整理してみよう。大きな事項は次の3つ。
●「初等中等教育改革の推進方策」
●「地方分権時代の教育委員会の在り方」
●「教員養成・免許制度の在り方」である。
このうち●「初等中等教育改革の推進方策」の中に2つの事項。
「<1>学校教育の諸制度の在り方」
「<2>教育課程と指導の充実・改善方策」
そして,「<2>教育課程と指導の充実・改善方策」がさらに細かくなっている。
「(1)「人間力」向上のための教育内容」
「(2)学習指導要領の枠組み」
「(3)学ぶ意欲を高め、理解を深める授業の実現など指導上の留意点」
「(4)地域や学校の特色を生かす教育の推進」
この審議項目の箇条書きを眺めると,大項目の後ろ2つ,「地方分権時代の教育委員会の在り方」と「教員養成・免許制度の在り方」は,<1>の諸制度の在り方と<2>の指導充実改善方策を考えるのにそれぞれ対応しているようにも見える。一筋縄ではいかないことがこういうところからも感じられる。
とはいえ,ドイツがPISA国際調査結果による「PISAショック」なるものを受けたのと同じく,日本でも教育に関する議論が盛んになること自体悪いことではない。大事なのは,冷静に議論を吟味することだ。たとえ日本の学力調査結果が如何様であったとしても,日本の教育には,あれこれ見直さなければならない事柄は多かったのである。
保育分野のテキストである加藤繁美『子どもへの責任』(ひとなる書房2004/1600円+税)などといった視点から眺めてみても,あるいは前日に起こった小学校での刺殺事件にまつわる短絡的な反応も含めて,たぶん人々が考えておきたいことはたくさんあるのだ。それは,子ども達を取り巻く環境そのものをどうするかというより,それにどう接していくかという「大人の態度とは何?」を示して欲しいという欲求なのだと思う。座席の2つや3つで「波乱のスタート」という相変わらずのことしていていいのかってことでもある。
歴史をなぞる
昨年末に発表されたOECD-PISAとIEA-TIMSSの学習・教育到達調査の結果が,学力低下傾向を示していたことに端を発し,学力重視の主張がさらに激しさを増してきているようだ,そして,18日付報道にもあったように,中山文科大臣の学習指導要領の抜本的見直しを公に明らかにした。日本教育新聞の記事では,すでに昨年の中教審総会にて,見直しに関する要請が伝えられたことが報道されている。
2つの国際調査が学力低下傾向を表したとはいえ,それは単なるペーパーテストの結果と解すべきではない。特にOECD-PISAが行なった学習到達度調査の内容は,昨日の駄文に対するlee氏のコメントにもあるように,今後のますます複雑化する時代を生き抜くに必要なリテラシーとは何かを詳細に吟味した上で設定されたものであるのだから,中山文科大臣が発言したような教科中心主義への比重移動の必要性は,すり替え議論でしかない。『論座』2005年2月号には,その辺の話も含んだ,佐藤学氏による「「改革」によって拡大する危機」という論考が掲載されている。
「文科大臣の発言は個人のものではあり得ない。」雑談の中でそう言われて,少しハッとした。それはそうだ,見過ごすところだった。すべては文科省のとある勢力や大臣の取り巻きがお膳立てしたシチュエーションの中で起こっていること。そう考えると,なるほど過去の歴史にその構図の見本がある。教育基本法改正問題も,過去の制定過程を調べてみれば,どうしても変えたがっている理由のようなものが見えてくる。日本国憲法を変えるためには,教育基本法を変えなければならないという暗黙の理屈を踏襲しようとしているようなのだ。その歴史の周辺には「国語重視」のような考え方も散見される。要するに,今あらためて60年前などの歴史の段取りをまねて物事を変えようと画策している人たちがいるということだ。
その人達にとって,忘れん坊で煽ること大好きなマスコミは便利な道具だし,「ゆとり教育」なる言葉は正式なものでないとしても攻撃しやすい分だけ有り難いレッテルなのだろうし,様々な現場の人たちの感情的な発言や意見は議論のすり替えの余地をもたらす点で大歓迎なのだろう。政治問題になりにくいといわれる教育は,実はもっとも政治的に操られている分野である歴史は変わらないようだ。
年明けの文部周辺
センター試験であれこれ問題が出てきて賑やかだと思ったら,今度はいよいよ「総合的な学習の時間」の削減も視野に入れた学習指導要領の抜本的見直しを中山文科大臣が明確にしたというニュースが飛び込んできた。
それにしても年明けの文部行政周辺はいつも慌ただしい。ご存知のように今年に入って読売新聞には,教育基本法改正に関する作業部会だかどこかの提案原案を取り上げたアドバルーン記事がお目見え。かつて文科省の「ゆとりから学力重視」の方針転換を年明け早々にすっぱ抜いた読売らしい記事である。まあ自民党大会で改めて年内の改正が誓われたのではあるが‥‥。
今回,中山文科大臣がスクールミーティングの後で明らかにしたとされる意向は,「主要教科の授業時間数拡大確保」「総合的な学習の時間の削減可能性容認」「土曜日授業実施の弾力的容認」となっている。個人的な見解として「国語を重視」といったところのようだ。スクールミーティングで現場の先生たちの意見を聞いた後ということもあるだろうが,これらの意見は中山文科大臣自身が前々から取り組みたかった懸案事項のようでもある。
それにしても,この不十分な情報からすると,中山文科大臣の発言は単なる復古主義にみえる。要するに改革する前の状態の方がマシだったことを受けて,そこへ戻してもいいんじゃない?と言っているだけじゃないか。それを中教審はどう吟味するつもりだろう。学習指導要領の抜本的見直しは必要としても,そのどさくさに紛れて「総合的な学習の時間」削減論を,さももっともらしく立論してしまうのは,これまた乱暴としか思えない。教育研究はどこまで蔑ろにされてしまうのか。
皆さん,よく考えていただきたい。そして本来切り分けて考えなければならない事柄を混同させてしまう落とし穴に気をつけていただきたい。あたかも現場の声を吸い上げて,ゆとり教育なるものを見直し,かつての学校教育を取り戻せるかのように思わせる今回の動きは,改革の新たなバリエーションを増やすことに加担して,実のところ更なる混乱を引き起こしかねない。
物事を変えるにあたって,大胆な決断や行動の必要性は認めるとしても,教育研究がその決断と行動のために研究成果を蓄積し続けているにもかかわらず,参照され熟考されることなくマスコミ報道の盛り上がりの声によって事態が進展してしまう実態。実は,それこそが私たちが繰り返している過ちなのではないだろうか。
Back to Basic
新しい年が始まった。私は元旦からトラブルに巻き込まれて,穏やかさを味わう暇もなく慌ただしい2005年を過ごし始めている。いや,本当に死ぬかと思った出来事だった。今年一年は,堅実に歩まなければ‥‥。
そんな元旦を過ごして,今年をどんな年にしようかと思案していたが,やはり「基本に戻る」ということにした。思うに,職場の事務仕事を優先させたここ数年の間は,教育・研究方面について充実させることが出来なかった。むしろ貯金を使うが如く,元金を減らしてきたことは明らかだった。基本的な勉学に力を入れて取り組むべきであると痛感する。
それから,生活改善をするということも引き続き大きな課題だ。身体的にも精神的にも健全であることは大事だと思う(もちろん,何が健全かは人によって異なるとはいえ‥‥)。たとえば,広島県尾道市・土堂小学校校長の陰山英男氏は,「睡眠不足と学力低下の関係性」について注目しているが,これも生活実態の如何が知的作業に与える影響を指摘した論のひとつだ。物事が積み重ねの上に成り立つのであるとすれば,各段階において見直しの余地があるのも当然で,生活実態に着目する論も必要だし,教育内容や方法について論じる必要性なども等しくあるべきなのだ。
というわけで,私自身の仕事が知的活動であるとするならば,もうちょっと自分のライフスタイルに配慮すべきだろう。昨年末より,事ある毎に教師問題に触れる理由も,そんな意識があるからだ。ま,この辺は自分の生活のことなので,地道にやっていくほか無い。
スマトラ島沖地震・津波は,テロや戦争以上の大惨事をもたらした。自然の恐ろしさという基本事項についても私たちは今一度認識すべきだろうし,環境という基盤の異常な変化についても何かしらの哲学と行動を求められている。年明け早々のトラブルを経て,生きられる時間と使えるエネルギーの有限さに改めて気づくとともに,自分が取り組むべき事柄を精選するための努力が必要だと思った。
2005:教育問題
職場も本日をもって年内の業務を終える。しばらくは自宅でゆっくりと時間を過ごせそうだ。この時期にやらねばならない事柄は多い。けれども,とにかくプライベートな時間がなかったために自宅の研究環境が酷く混乱中。これを整えることだけに年末年始は費やされそうだ。文献資料の配置などを再構築しなければならない。ああ,今年も年賀状が危うい‥‥,三年連続出しそびれか?!
2004年の教育時事を振り返るべきところだが,まだ教育新聞の整理も出来ていないし,今年一年は動向追跡をすっかりさぼってしまった感もあるので,おいおい記録していくことにする。それでも2005年に向けて注目が拡大する話題はいくつかあげられるだろう。たとえば先日の学力調査結果に関連して文部科学大臣の「ゆとり教育見直し」なる路線転換発言と称されるものなどだ。(ところで,「ゆとり教育」という言葉は文科省によって正式に使われただの,使われていないなどの議論はもう片が付いたんだろうか。どうしてこうも教育議論や言説は,積み上げ的なやりとりが出来ないのかと思う。)
それから,昨今の教師問題は,2005年に本格的な議論へ発展しそうな気配である。それは教員養成・教師教育に限らず,免許更新制導入,教員採用定数・給与,教職倫理,ライフサイクル,メンタルヘルスなどの問題にいたるまで,あらゆる問題を含みうる。これらは新しい問題ではなく,長いこと個別にくすぶり続けてきたものばかり。いよいよそれが焦点を結びそうなのである。
IEA TIMSS2003
12/7付けOECD PISA2003の学力調査結果に続き,12/15付けIEA TIMSS2003の学力調査結果が発表され,マスコミでもちょっとした学力論争再燃ムードである。これ自体が,この国で学力を語る際の構図をよく表している。
あちこちの記事を参照している皆さんには先刻ご承知のことと思うが,簡単にご紹介しておこう。世界ではいくつかの機関が学力調査を行なっている。特に世界各国を股にかけて継続的に大規模な調査を行なっているものとして有名なのが,OEDC PISAとIEA TIMSSだ。日本も国立教育政策研究所を通して,この2大学力調査に参加している。
【OECD PISA】経済協力開発機構(OECD)は,先進諸国が政策協調を行なうために様々な事柄を研究したり提言する場所として作られた国際機関。教育も主要なテーマであり,各国の教育水準の維持や確保が経済的利益につながるという考えから,学習到達度調査(PISA)などをもとにした様々な研究や提言が行なわれている。
2000年に第1回調査が行なわれ,以後3年ごとに予定。調査対象は加盟国を始め非加盟国も含めた各国の15歳児。調査内容は,数学的リテラシー,読解力,科学的リテラシーの3分野。実生活に即した知識・技能,問題解決能力について調査するのが特徴。
【IEA TIMSS】国際教育到達度評価学会(IEA)は,各国の調査機関や政府研究機関が一緒につくった国際学術研究団体であり,各国政府の政策決定などに必要な教育関連調査を提供することを目的とした独立組織。先進諸国といった条件がない分だけ,PISAと調査参加している国に違いも見られる。国際数学・理科教育調査(TIMSS)とリーディング・リテラシー調査(PIRLS)が行なわれているが。日本はTIMSSだけ参加している。
1964年に第1回国際数学教育調査が行なわれた。調査対象は第4学年(小学4年生)と第8学年(中学2年生)とし,4年後の調査で同じ調査対象の学力変化も調査する。TIMSSとしては1995年と1999年に調査が行なわれ,今回の2003年も段階調査のひとつとしてつながっている。調査内容は数学と理科の教育到達度を調査するため,小中の基礎学力的なものであるという特徴がある。
とご紹介したが,どうか学生さん,インターネットリサーチの一環でonline plagiarism(オンライン盗作)のために利用をしないように,確実に笑われます。
OECD PISA2003
12月7日にOECD PISA2003の結果が発表された。前回は2000年に行なわれた。すでにいくつかのメディアで紹介されているように,読解力(reading perfomance)における低下が指摘され,文科省も苦々しいコメントを出している。
有り難いことにOECD PISA2003報告書全文は無料で公開されている。英文読むのも一苦労だが,今回の調査結果ではPISA2000とPISA2003の違いを比較できるという点で大変興味深い内容であるし,また,前回調査との違いなども注意深く読むべきだろう。先ほどの読解力低下も,全体というよりは下位層の低下によって分布が広がっていることなどがわかる。
単純に順位が下がったから学力低下したということではない。そのことの認識は,前回の学力論争のおかげでだいぶ理解が広まったのではないだろうか。いよいよ,実効ある学力論を始める時期が来たのかも知れない。