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教員を取り巻く現状への理解を

 最近は他の人たちの教育関連ブログを楽しんでばかりで,自分の駄文書きが滞っていることをちょっと反省。ただ,いよいよ「教育らくがき」終焉の時代が来たのかも知れず,このままフェードアウトするがいいのかも知れない。

 「YOの戯れ言」さんの「専門職大学院構想(また意味のない形の提案)」エントリー(投稿記事)を見た。読売新聞の記事を紹介されているので,私も読んだ。

教師力向上へ、専門大学院
[解説]中教審の議論迷走
 教職専門職大学院についての記事と,義務教育費国庫負担金問題に関する記事で,どちらも6月7日付けの記事。

 教職専門職大学院については,私も「教職専門職大学院」と「アン・リーバーマン女史」のエントリーで駄文を書いたが,そういう懸念はまったく閑却されて構想がまとめられたようだ。
 佐藤学氏が『論座』2005年2月号と『現代思想』2005年4月号に寄せた論考で,教職専門職大学院を導入しようとする進行中の議論に対して特大の危機を表明したにもかかわらず,なんら対論を示さないまま「相変わらずの調子」で進んでいる。

 義務教育国庫負担金の問題に関しても,記事では「「財政再建に迫られる国の負担金制度と、改革が必要な地方交付税制度のどちらが安定的か」という水掛け論になる可能性もある」として,いかにも悩ましいジレンマがあるように表現している。
 しかし,「e-Japan戦略」における「教育の情報化」に関して,地方は明らかに国策を理解できないまま,せっかくの予算措置を不意にしている現実がここ数年続いている。とうとう最後の2005年度になって,教育分野だけは達成度が著しく低いという体たらく状態から,いかに駆け込みで達成率を上げるかという情けない議論が展開しているのである。
 これだけ取り上げても,ごまんとある地方自治体の基礎体力がそれぞれバラバラで,「信用して任せてくれよ」という言葉を信じられるところと信じられないところがあることは明白。それなのに議論に決着を付けられないのは,みんな面子で仕事しているからである。退場世代は,ここまできてもまだ次代に禍根を残そうというのだろうか。

 現実には,退場世代が本当に退場する時がやってきたとき,教員の人手不足は深刻で,さらには教員給与にかかる総額も退職金のおかげで右肩上がりの膨大なものとなる。「人がいないから人を雇いたいけど,人を雇うためのお金が足りないから,どうしよう‥‥」という時代が来る。そんなときに,教職専門職大学院という新たな教員養成コストがかかる機関をつくり,さらにそこを出て現場で活躍する人たちには無い袖を振って給与を優遇しましょう,と中教審のワーキング・グループの人たちは言っているのである。
 幼稚園児でも「おかしい」とわかる理屈を,有識者たちがまとめているのである。こういう大人の恥になるような,つまり,子どもたちに示しのつかない非教育的な活動を,どうか止めていただきたい。

 このZAKZAKの記事は,地方公務員法で禁止されていたアルバイトを「した」という悪気がある出来事だったのか,あるいは「させてしまった」という教育現場の仕方のない現状での出来事として考えるべきなのか。真実はどちらだと思われるだろうか。
 新幹線の車内誌でもある『WEDGE』2005年6月号の記事「進む教員の高齢化/教育現場は疲れ果てている」は,教員を取り巻く現状についてコンパクトにまとめている。記事の最後を結ぶ文章は,「教員は「聖職」ではあるが,学校は「聖域」ではない時代に入ったようだ」となっている。なかなかうまいが,聖域ではない場所に聖職者が宿り続けることもないし,教職は聖職だが,教員一人一人は生身の人間だ。だから高齢化の問題を議論しているのだろう。

 そうそう,もう一つだけ。夜回り先生・水谷修氏について,水谷氏の存在をどう捉えるのが一番いいのか,いろいろ考えていたが,すでに明快な答えを出していた論者がいた。諏訪哲二氏は『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ/740円+税)で,はっきりと「夜回り先生は「教師」ではない」と明言してくれていた。その考えの真意は,本を読んで確認して欲しい。

 教員を取り巻く現状を踏まえようとする努力を怠ってはいけないと思う。

ブロードバンドスクール特別講演会

 30日(月曜日)の主菜「特別講演」とは,特定非営利活動法人ブロードバンドスクール協会が設立一周年を記念して行なった特別講演会のことであった。文部科学省初等中等教育局参事官の中川健朗氏,社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会専務理事の久保田裕氏,独立行政法人メディア教育開発センター理事長の清水康敬氏という豪華な方々の講演である。

 ところで,6月2日〜4日まで,毎年恒例でお馴染みの大規模な情報教育関連イベント「New Education Expo」が東京で行なわれる。毎年行きたい行きたいと思い続けているのに,あれこれ事情で参加できていないのが実情。今年も怪しそうなのだ。
 ところが,今回の特別講演のお三方は,New Education Expo2005にも登場される予定。ならば,先取りの美味しいとこ取りでブロードバンドスクール協会の特別講演会に参加してしまおうということにしたわけだ。

 インターネットから流れる情報を介して,お三方については存じ上げていたけれど,どんな温度をお持ちの方かは,会ってみなければわからない。そういう意味で,直接お話を聞いて,その語り口や考えに接することができたのは大きな収穫だった。講演会の後には,懇親会が設定されていたが,協会設立一周年のパーティーでもあることだし,新幹線の時間もあることなので,懇親会には参加せず。その代わり,質問をすることにした。(ちなみに講演会の様子のページに映っている質問者らしき人物は,私です。)
 お三方それぞれに質問を投げかけて,お答えを返していただいた。その質疑応答内容や講演会自体の様子のレポートは次回。実は私一人で質問時間を消化してしまったので,大変申し訳ない気持ち。もともと時間がおしていたとはいえ,罪滅ぼしも兼ねて,私から見た講演会や,情報教育の風景をご報告したい。

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プロジェクトに参加

 日曜日と月曜日,東京に出掛ける。とあるプロジェクトの初会合。結構たくさんの人たちで構成される取組みなので,楽しみでもあるし,緊張もする。全体の方向性を掴まえた上で,良い意味で持ち味を出せたらと思う。

日本OpenCourseWare

 大学の講義にかかわるシラバスや講義レジュメ,講義内容などの情報を無料で公開するOpenCourseWare。これは米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)で公開されたMIT OpenCourseWareとして有名だが,日本でも複数の大学で公開されることになった。
 2005年5月13日に日本OCW連絡会が発足したようだ。当初は,大阪大学,京都大学,慶應義塾大学,東京工業大学,東京大学,早稲田大学の6大学で構成。各大学すべての授業が対象ではないにしても,すでにこれまでの蓄積をOCWの規格にデザインした形で公開がスタートしている。
 複数の大学が連絡会という形をとりながらスタートしたということにいい意味で驚きを感じた。任せる人に任せれば,日本でもこういった動きを起こせるのかと希望が持てるという意味でもグッドニュースだ。「MITをお手本に」というあたりが,いかにも日本的であるし,だからこそその強みが発揮されたとも言えるし,なかなか興味深い。
 こういったOCWのような素晴らしい試みを賞賛しつつ,一方で,比べものにならないほど低レベルな「教育らくがきFiles」を本サイトも頑張っていこうと思う。そっちが50人なら,こっちは1人だ。負けんかんね。

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教育らくがきFiles更新

 思いつき企画「教育らくがきFiles」はちまちま更新しています。20050507更新のお知らせです。
教育らくがきFiles FileNo.002 「学力問題周辺文献資料不完全リスト」
教育らくがきFiles FileNo.001 「学力」
 以上。未完のまま,次回のNo.003は考え中。

教育を曖昧化する

 「教育は不可能である」ということが,いまだに口をついて出てくるような常識にならないのはどうしてだろうか。こんなにも学問的なツールを使って教育の深層が浮かび上がり,教育の困難性については理解を得られているようにも見えて,「不可能なんだ」と深くうなずくまでに至らないのは不思議なことだ。
 けれども実は,同じような構図にある話が,他のところにもある。私たちの社会生活の在り方。資源の浪費を前提とした私たちの消費生活そのものが,この地球環境や社会の持続性を考えたときに「不可能なこと」であるにもかかわらず,私たちはそうした認識を日頃意識することはない。そうした精神構造のもとでは,「教育の不可能性」を前提とすることが困難なのかも知れない。

 一時期の教育言説において,「幻想」という言葉が大いにもてはやされた。70年代から80年代にかけて,私たちの社会に深く根付いた「学校教育」を解体するような動きが盛り上がる中で,それを幻想と呼んだのである。それは,もう少し手前の時代に位置する様々な闘争の事件や社会風潮の影響も色濃く,何かしらの解放を求める時代の空気に突き動かされた言説現象だったのかも知れない。
 けれども,豊かな社会が訪れて,その先にあるものを必要としたとき,結局誰もそれを示し得ず,誰もが裏では幻想に寄り添ったのは疑いようもない事実だ。かつて人々に学校教育を受けてもらうために導入された「学歴」というニンジンが,時代は変わっても腐ることなくそこにある(あって欲しい)と人々は期待を寄せたのである。

 一度愛想を尽かした連れ合いと,別れてからそのありがたみを知ってもう一度よりを戻そうとすることのぎこちなさを,私たちはよく分かっているのではないか。それでもその関係がうまくいくためには,あえて「幻想」を抱くこと以外にどんな方法があるだろう。一つひとつの細かな不満に対して,一つひとつを許していくような道のりが立派なのか。あるいは自分の気性を丸くし,細かな一つひとつについては気がつかない振りをしてやり過ごす方が心穏やかなのか。それは映画『マトリクス』でモーフィアスから差し出された錠剤を選ぶのにも似ているのか。

 内田樹氏は,師弟関係を「美しい誤解に基づく」と表現し,恋愛にも似ていると表した。つまり一種の幻想だ。他の人から見ればどうしようもない相手だとしても,恋をした当人にとって相手はナンバーワンであり,そう幻想するからこそ恋が成り立つ。つまり細かな部分部分を曖昧化とすることでもある。
 一方,宮台真司氏は,現実を覆い隠すようなタイプの幻想アプローチではなく,「世界の未規定性」を拾い出すことによる幻想世界の提示に可能性を示唆する。底が見えたかのようなこの世の中にも,まだ底知れぬ可能性を期待できる次元が残されていたと「思う」ことが出来れば,立ち向かう意欲を駆り立てられるのだろう。
 広田照幸氏が,教育の不信と依存が極端な形で併存している現実を描くのも,二つの事象の紐帯に,教育の持つ曖昧さや未規定性が織り込まれている故なのだろう。両極端な事象を記述するのは,氏が誠実な社会学者だからに他ならない。それはもう一人,社会学者として名の知られた苅谷剛彦氏にしても同じことである。故大村はま先生に寄り添い「教える」ことの魅力を唱えたことと,データに基づく学校教育の実態把握や教育行財政の在り方への言及という両極。その狭間におけるストラグル(もがき)を広田氏のように書いて見せることはあまりしないという点に違いはあるものの,両極の間に教育の方途があることを予感させる態度であるには違いない。

 そういう意味では,まさに広田氏にしても苅谷氏にしても宮台氏にしても,彼ら社会学者がもっとも教育的な態度を(結果的に)とっていると言えるのかも知れない。私たちにとって,社会学という学問は,精巧なツールを用いながらも暴き出そうとする深層の曖昧さを全面に押し出している点で,きわめて教育的なのかも知れない。もっとも,示される成果に夢は少ないけれど‥‥。

 江戸時代の万年時計を再現するプロジェクトで,万年時計を解体・解析した高度な技術を駆使した後,新たに組み立てるための技術には苦心したそうだ。結果的には,工作機械のみでは通用せず,手作業が必要だったのだという。
 教育の解体が始まって今日まで。解体のしすぎで,組み立てが困難になっているのだろうか。教育社会学が分析してきた世界を,組み立ててくれるのは教育工学だろうか。最終的には教師個人個人の手作業が必要となるのだろうか。
 そのとき,教師たちは教育に恋していられるのだろうか。学校に幻想を抱けるのだろうか。それとも現実と幻の狭間に位置するオブラートの役目を担うのだろうか。それは甘く苦い道筋なのだろうか。問いかけばかりが続く。

教育らくがきFiles No.002

 夜更かしして,学力問題に関わる文献資料のリストを触っていた。中途半端に放っておいたため,あまり出来のいいリストではないのだが,せっかくなので教育らくがきFilesの一つとして盛り込もう。

教育らくがきFiles FileNo.002 「学力問題周辺文献資料不完全リスト」はこちら
(ExcelファイルをZip圧縮)

教育らくがきFiles開始

 Webサイト「教育フォルダ」では,新たな企画をスタートすることにした。なんとか,駄文の隙間に入り込んだちょっとくらいは役立ちそうな情報をまとめられないかと思案していたが,今回「教育らくがきFiles」という情報ファイルシリーズを製作することにした。
 本当はまとまった著作物でも執筆するつもりで開始したかったが,どうもそれをするのは歳をとって落ち着いてからの方がやりやすそうなので,様々なファイルが中途半端に同時並行的に執筆されていく形をとることにした。順番とかも気にしていると書けなくなるので,そういう配慮はバサッと捨ててしまうわけだ。

教育らくがきFiles FileNo.001「学力」はこちら。(実験版なのでちょっとサイズは大きい)

 いろいろ問題も出てくるとは思うが,一つのチャレンジとして,またこっそり見守っていただければと思う。とにかく,私にできることは,インターネットによる教育研究成果の情報提供に関する試みを不完全でもやってみせることだ。特に一般の人々にとってのアクセシビリティ配慮やミーハーっぽさやユーモアなどを活かした興味関心の引き出しをやってみたい。
 さて,今回の企画は長続きするかな,どうかな。

東京大学・初中等教育高度化推進機構構想

 東京大学で日本教育学会の臨時総会と緊急シンポジウム「教職プロフェッショナル・スクールの可能性と危険性」が行なわれた。教職専門職大学院の福井会議に出席した縁もあるので,シンポジウムもそうだが,ついでに臨時総会にも出てみようと思って日帰り東京出張をした。
 臨時総会とシンポジウムは,どちらも大きな転換にかかわる事柄だった。臨時総会では,日本教育学会が社団法人化することを決定した。会員とはいえ学会運営なんてお任せなのだが,たまにこうして話を聞くと興味深い。とにかく夏の総会に向けてさらに準備をすすめていくとのこと。定款案はさらに見直されるし,現在の会則を運営規則として移行させる作業もあるらしい。ああ,それは学会事務局が広報することですか,はい。
 シンポジウムの方は,やはり微妙かつ淀んだ雰囲気であった。詳細はまた改めてご報告したい。なにしろ話を突き詰めようとすればするほど,プロフェッショナル・スクール(専門職大学院)以前の問題を追及することになり,つまりこれまで教員養成を担ってきた人々や自分たちへの批判合戦となって,くら〜い気持ちになるのだ。その上,あの場に集っている人々は,専門職大学院に絡んだ様々な問題意識を持ってそこにいる。シンポジウムの内容が生の教員養成現場とリンクしていないことを嘆く(確かに僕だってちゃぶ台をひっくり返したくなる)のは簡単なのだが,それぞれの問題意識をもう少しかみ合わせていく必要があると思う。ああ,また今度書こう。
 シンポジウムに先立って,東京大学総長・佐々木毅先生のスピーチがあった。正式な発表や報道がなされるとは思うが,東大総長の公式見解として次のようなものがあった(注:文言はこの通りではない)。「東京大学では,現在の学力水準を問題視している(いまの学力水準は困る)」「このような中等教育の現状では,国際競争で勝てない」「専門職大学院の議論についても,大学を挙げて注視しているが,ネガティブなものを取り除くようなアプローチでは不十分」「積極的なメリットがなければリソースをかける意味はない」「(専門教育において)もっと知識を増やすことに腐心すべき,それなくしてハウツーだけではダメである」など。
 斯様な認識を東京大学では全学的に議論しているとのことで,その結果,専門職大学院の文脈とはまったく別に,初等中等教育の水準を引き上げるための積極的な取り組みをする必要があるとの認識に達したようだ。そして今後,東京大学としてそのような取り組みのための組織を作っていくような体制になりつつあるという。
 このあと,佐藤学先生から,全学的なバックアップのもとで初等中等教育の高度化を推進するための機構が出来るという補足があった。正式名称などはまだわからないが,教育研究の分野に野心的な研究センターが出来るということが事実上発表されたというわけだ。
 外部の人々にすれば「また東京大学だけが,どうしてそういうことできるかなぁ〜」という気持ちもないわけではないと思う。ただ,それはいかにも東大らしいアプローチというだけであって,そんな構想でなくても,自分たちの大学機関で出来る取り組みから始めればいいのである。だから,東京大学が初等中等教育に対して何かしら本腰を入れたというところの波を上手に捕まえて,全国で地道な取り組みが起こればいいのだと思う。

大阪の談話

 広島から帰った翌日,大阪某所へと出掛ける。科学研究費補助金というものがあって,申請の上で認められると補助金を得て研究活動が出来るという制度になっている。認められた研究活動グループの一つに入れてもらっているので,その研究会に出席したわけである。
 広島で少し打ち合わせた研究の分野が「教育社会学」や「教科の歴史研究」から現場の実践に迫るものとすれば,こちら大阪での研究会は「教育工学」や「カリキュラム分析」から思考力育成する現場の実践へとつながる授業モデルを提示してみようというもの。
 研究会はとても面白かった。というのも,今回は研究代表K先生の大学の学部生と大学院生の皆さんも参加して研究会が行なわれたからである。さながら大学のゼミのように進み,よくある英訳の議論から用語定義の問題,ちょっとした眠気など,いやぁ,また大学院で勉強したい気持ちになってしまった。

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