アン・リーバーマン女史

 学校改革実践研究福井ラウンドテーブルは,様々な立場の人々が小グループで同じテーブルを囲みじっくりと語り合うという充実した時間を過ごし,無事お開きとなった。同じグループに,以前見かけたホームページの持ち主も居て,ちょっと嬉しかったし楽しかった。いやぁ,帰ってきて確かめたらやっぱりその方だったわけだ。Japanese Onlyでごめんなさい‥‥。
 さて,5日に行なわれた「日本における教職専門職大学院のための福井会議」には,3人の基調講演者がいて,そのうち2人が東京大学の佐藤学先生,宮城教育大学の横須賀薫先生であることは書いたが,もう一人,海外から特別ゲストで,カーネギー教育振興財団の上級研究員であるAnn Lieberman(アン・リーバーマン)女史がアメリカにおける教育再構築の取り組みについて講演した。
 いやはや,実は参加しているときには「あれはどこぞのアメリカおばさんなのか?」とハテナマークを点滅させながら,それでも「ヒヤリングの練習だ」と思って,通訳なしにじっと耳を傾けていた。後で,講演の日本語レジュメが事前に手元に配布されていたのがわかってズッコケて,さらに家に帰ってきて,彼女について調べたら,アメリカの教師教育に関する研究をしている大御所だったことがわかって,あららぁ,そんな人だったのねぇ〜,残念っ!。
 言っていたことはシンプルきわまりなかった。リーバーマン女史の取り組みにおいて「ネットワーク」形成が重要鍵語であり,昨今ではWebベースのマルチメディア教材によって知識共有をすることに関心があるようだ。なぜならば,彼女らのプロジェクトにおいて「(教育実践を)公開し,批評し,受け継がせ,積み重ねる」(Make it public, Critique it, Pass it on, Built upon it)が重要視されているからである。それが,「実践を通した」ティーチング(教師の専門技能)の研究に通ずるというわけだ。
 会議の場では誰も彼女の発表について疑問を差し挟まなかったが,もう一人の基調講演者の横須賀先生は教育系大学院に関する別文脈の発言の中で,日本の学校や教育が持つ文化的な問題(つまり古くて柔軟性のない閉塞的な伝統文化)を指摘していたことが,リーバーマン女史のアメリカ風「あっさりいったら?」的な取り組みについて日本の私たちにはどうしても海の向こうの話だよねぇ的感想しか引き出さないことの説明になっているのかなとも思う。
 言ってみれば,あの場は柔らかな「ライブドア vs フジテレビ」構図の変奏だったのだ。リーバーマン女史にしてみれば,日本の人々が難しい顔して大学院や専門職大学院をつくらにゃならんと時間を潰していることが不思議でたまらないのだろう。そんな風に足踏みするくらいなら,マインドを開いて「少しでも現場の人たちと膝つき合わせることにエネルギーを割いたら?,そこから物事はよくなるのよ」って思っていたに違いない。でもねリーバーマンおばさま,マルチメディア・ウェブサイト(webベースのマルチメディア教材)によって教師教育の改革を素朴に信じられるなんて,ライブドアを「月並みなアイデアしかない若輩者」と見なしている現代の日本人には難しい話なのです。だから,日本で「専門職としての教職」養成を実現する教職専門職大学院をつくりたいなら,若い世代の研究者だけを専任メンバーにして,あとは院外協力研究員として年輪を重ねた名だたる先達の研究者に周りを固めてもらう(ただし専門職大学院の運営にはあくまでアドバイザーで実質的には口出させない)というくらいしないとダメです。それともカーネギー教育振興財団で日本支部つくって,研究やってください。
 とにかく,リーバーマン女史の講演もまた,教職専門職大学院についての複雑化する議論そのものを「無意味じゃないの?」とひっくり返してしまう要素を持ち得ていた。みんなそのことを強調したくはなかったのだろうけれど,きっとみんな思っていたことだ。日本人の幾重にも凝り固まってしまったマインドを解き放つためだけに,新しい制度を増やしたり,問題発生の余地を膨らましている。それが「何か措置をしたのだ」という一時的な満足感を満たしはするだろうけれど,やっぱり宿題は次の時代に持ち越されるか,時間オーバーで何もかも失うのかも知れない。


 何?「競争を悪とする教育」がニートを助長?社会に出ると競争社会であることの落差に戸惑う?文部科学大臣のどういう発言を切り取ってそういう報道がなされるのか,相変わらず訳がわからない。仮にそのまま読み取れる意味のことを大臣が本当に考えているならば,誰か大臣に注意してあげて欲しい。子ども達が「社会に出てから戸惑っている」なんて悠長なことをしているわけがない。子ども達は「社会に出る前から競争結果が保証されない(正当に評価されない)ことを理解して落胆している」ということ。そういう理解の方が(全面的に正しいわけではないが)よっぽど現実に即しているのだということを。
 広田照幸氏は,最近上梓した自らの講演や論考集のタイトルを『教育不信と教育依存の時代』(紀伊国屋書店2005/1500円+税)とした。教育社会学という分野の研究者でありながら,可能な限り誠実な教育へのまなざしを堅持しようとする姿勢は,この論集でも読み取ることが出来るし,私たちにしてみれば,メディアの問題を冒頭に配し,大学における改革の時間コスト意識の無さへの憂慮を締めくくりに持ってきたところなどは痛いほど共感する(編集者の仕業かも知れないが‥‥)。
 少しずつではあるが,こうした広田氏に代表されるような研究者の成果への理解が深められつつあるように思う。ただし,私たちの持ち時間がそう多くないことも事実だ。教師の尊厳や威信が完全に失墜するが早いか,それを救い出す取り組みの効果の兆しが早いか。実は目に見えない競争が展開している。
 この「教育らくがき」も,いかにも教育不信や不安を煽る内容も多いかも知れないが,けれども着実に進展するローカルな取り組みについてもお伝えしたいし,皆さんが教育について思考する素材を提供することで刺激を与え続けたい。そういう意味では教育依存な言説拡散場所なのかも知れないが。でも,相変わらず遠回りだから,大勢に悪影響はないでしょう,たぶん‥‥。