教職専門職大学院

 福井に来ている。「日本における教職専門職大学院のための福井会議」というものに出席させていただき,翌日の「学校改革実践研究福井ラウンドテーブル2005」でお手伝いさせていただくことになっているからだ。
 教職専門職大学院に関する会議は,大変微妙な感情を残したまま終わった。このごろ,この手の話のために脳みそを動かしていなかったので,とにかく話を聞くことばかりに熱中していた。同時並行して思考の逸脱をする余裕はなかったが,それにしても,その場はとても微妙な空気をつくり出していた。
 そうなった一つの要素は,3人いた基調講演のうちの一人が佐藤学先生だったこともある。雑誌『論座』の論考でご承知の通り,佐藤先生は今日の教員問題について大変憂慮している。教員採用における競争率の高さによってかろうじて維持されていた教員の質が,昨今の競争率低下,つまり人手不足によって質の低下を招くことになっている問題。これを始めとして,現在の各教員養成系学部大学の大学院の在り方,それを放ったまま教職専門職大学を(法科大学院などと同じ発想のもと)つくり出そうとする整合性の無さなど,明らかに損失や破綻を招くような制度改革に,大いなる警鐘を鳴らしている。これまで教員養成系学部大学や教職課程などにおいて教員を輩出してきたとされる教員養成教育は,はっきり言って不十分きわまりなく,確実に失敗してきたのだと厳しく指摘した。
 もうちょっと会議の内容を丁寧に記述すべきだと思う。いつもの佐藤節が炸裂していたとはいえ,もちろん,今後の教員養成や教師教育が「ケース・スタディ」を中核としてカリキュラムが再構成されなくてはならないという大事な示唆もあるし,その他にも教師の専門職性などあれこれ考えるべき項目はあった。あそこでビデオカメラを回していた誰かがちゃんと情報をオープンにしてくれれば,そういうことも皆さんに伝わるのに,なかなか難しいものだ。
 とにかく,その後に続く教職専門職大学院にまつわる委託研究の報告などを聞いていても,この最初に提示された問題の枠組み,つまり,これまでの教育系学部や大学が放置したままの問題を丁寧に拾い直して本気で変えていくよう行動しなければ,日本における教員養成や教師教育は,かろうじて残っている信頼とチャンスを完全に失うことになるだろう,という前提がすべてを覆してしまいそうだったことが,わたしにとってはとても微妙な気分だったのだ。
 私はかつて教員養成系学部で学んだ日々と,仲間達のことを思い出していた。いつか自分の母校に教員として戻ったら,現場に散らばる仲間を大学に呼び戻して,再び教育についてともに議論を深められるのではないか,そんな夢のようなことを考えた時期があった。もちろん,国立大学法人の母校に教員として採用されるにはそれなりの能力と業績が必要なので,夢のまた夢の話である。
 でもたぶん,今回の会議で求められていたのは,現場と大学の「そういう関係」ではなかろうか。研究者が現場にフィールドワークやアクションリサーチしてみても,所詮は限られたスパンで終わってしまう。しかし,会議を主催した福井大学の先生たちの熱意や取り組みを聞いたり見たりすると,研究者は現場に「一生を掛けて」付き合う覚悟が求められているのだと主張されているように思う。とある先生が口にする「ゆるやかな関係で」という言葉も,長く付き合っていくことを前提としている。
 そして,私は思ったのだ。この会議に出席した人たちを見回して,10年後,20年後,30年後生き残って教育学部を担っている奴は誰なのかと。もう一人の基調講演者である横須賀薫先生は,(半分冗談で?)「遺言」なんて言葉さえ持ち出した。上の世代の人たちは,自分のリタイヤのことを考えなければならないときに,次代の教職専門職大学院について力振り絞って考えようとしている。けれども,世代文化を枠とする思考限界だってある。あるいは,もう身体が動かないと嘆く世代だ,エネルギーの必要な内発的な改革について熱意を込めて議論する余地はもうないかも知れない。そんな人たちが,難しい顔して今後の教員養成や教師教育の在り方を一生懸命語ろうとしている。
 文部科学省から出席してきた係長は20代後半だ。大学院生は20代前半か。30代はどれくらいいただろう。40代は?この会議の中において世代毎の温度に違いはあったのだろうか。上の世代は,(学部生といった学生達を含めた)下の世代について,どれほどの意識を盛り込んで議論していただろう。下の世代は,上の世代がくぐり抜けてきたさまざまな闘争と苦悩の経験に基づいた思考の在り方にどれほどの想像をめぐらせられたのだろうか。
 教員をめぐる様々な問題について,それにかかわる私たち自身がどれほど自らの取り組みを再構築し実践していけるのか,そんなきわめてパーソナルで些細なことが問題の核心なのである。ところが,私たちは問題をパーソナルな領域にとどまらせることをよしとしない悪い行動パターンがあるようだ。なにか改善への取り組みを形にしなければならないという暗黙の要請。教職専門職大学院や教員免許更新制など,こうしたお題目と取り組みが,単なるアリバイ(改革のための改革)でないと誰が言えるだろうか。
 とにかく鈍った思考の中で,私は微妙な気分を味わっていた。