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Vistaに待った!

 英国の教育テクノロジー展示ショウBETTも本日で終わりを迎えた。英国における教育での情報活用を牽引している政府機関がBecta(ベクタ:日本語にすると英国教育工学通信協会になるが,どうもピンとこない和名だ…)である。
 そのBectaが「Microsoft Vista and Office 2007: Interim report with recommendations on adoption and deployment」という報告書を出したことが日本でもニュースとして取り上げられた。ITproのweb記事「英国教育工学通信協会,教育機関によるVistaの早期導入に「待った」」である。
 こういった明確な見識を示していく機関が存在することが羨ましい。

CESとMacWorld ExpoとBETT ((英国旅行記-04))

 ニュースでご存知のように,米国ではCESというコンシューマー向けエレクトロニクスに関するショウが開催されている。そしてほぼ同時期にアップル社のパソコンMacintoshに関するショウも行なわれる。そしてそして,イギリスでは教育に関するテクノロジーの展示会議BETTが開催される。
 この2007年は,いずれのショウにおいても今後の動向を方向付ける重要なニュースがある。CESでは,マイクロソフトによるWindows Vistaのリリースがあげられる。長らく待たされた新OSだけに,新鮮味が薄くなっているものの,1月30日に予定されている本格発売が達成されれば,今後のパソコン界はそれを中心に動かざるを得ないわけで,とにかく重要である。
 しかし,Windows Vistaに負けず劣らず,むしろより注目を集めているのがMacWorld Expoにおけるアップル社からの新製品発表である。今年の発表は,アップル社30周年を経た次なる一歩として,かなり期待度が増している。もしもこの期待にたがわぬ内容の新製品がリリースされれば,直接的にも間接的にも(iPodがそうであったように)今後のパソコン業界に強い影響を与えることになる。
 そして,そんな二大ショウの内容に影響を受けるのが教育分野のテクノロジーに焦点化したBETTだともいえる。残念ながら,こうしたショウの存在やそれと同時並行して展開される国家間の外交などは,一般の日本人にはほとんど知られていない。日本のマスコミも教育関係情報誌すら,まともに伝えようとする気概がないのだから,無理もないか。
 果たしてBETTとはどんな催しなのか。英国の学校ではどんなICT活用や教育が展開しているのか。拙いながらも,この教育らくがきが皆様にお届けする予定である。

扇情的な議論の横行

 人々が教育議論を異なる立場から交わすこと自体は好ましいことではある。けれども,このところ教育議論がどんどん拡散していて,結局何がしたいのかわからない状態がひどくなっている。
 文部科学省や中央教育審議会という場が形骸化したからと,首相官邸が教育再生会議を立ち上げたところからして,税金の無駄遣い。もうちょっとマシなPR戦略に基づいて活動するかと思ったら,会議非公開の上に,肝心の議事録公開は遅いから,そのことをテレビで突っ込まれる始末。「そのことも議論してますよ」なんて,余裕こいているんじゃない!
 マスコミは相変わらずそんな事態に配慮もしてくれなくて,いじめだ,未履修だ,法改正だ,ダメ教師だ,5年更新だ,なんてことばかり報道。なんだよ,これじゃ会議を非公開にしている効果がまるでないじゃん。本来的にマスコミが継続的に取り扱わなければならないのは,たとえば教育予算などといった議論である。
 『アステイオン第65号(阪急コミュニケーションズ)において,苅谷剛彦氏が「「機会均等」教育の変貌」という興味深い論考を披露している。ちょうど「教育らくがき」でも駄文「減り続ける日本の教育予算」(1)(2)で触れられなかった部分について,歴史をさかのぼって詳述している。(教育予算を「標準法の世界」で考えることと,「パーヘッドの世界」で考えるという構図の描き方は,さすが教育社会学的にキレイな論述の仕方だと感心する。)
 苅谷氏の議論は,多くの人々にとっては(悲しいかな)新鮮だし,驚きのはずである。マスコミはそういう話題をしつこく扱っていくべきなのだ。それが出来ないから,この国の教育議論はどんどん迷走して,雲散霧消してしまう。不毛なんかじゃなくて,そもそも議論されていないも同然なのだ。

わたしもタイゾーか

 エクセルで調査結果のグラフ化作業。エクセルは万能ソフトといわれるくらい高性能なソフトだが,フォントを変えて微調整したいときなど(DTPソフトではないので)難しかったりする。研究発表資料とはいえ,できるだけ図版の見栄えも意識したいと思う。
 青森(…ですよね ^_^)の先輩から電話をいただき談笑。学生の甘えた態度に怒り心頭といったご様子。特に女子学生の集団を相手にする場合,緩急のバランスや距離の取り方などが難しく,私も前職ではいろいろ悩んだことがある。
 ゼミで厳しく指導すると凹んだり落ち込んだり,飲み会の付き合いを諸々に配慮して断ると「付き合いが悪い」だの「じゃお金だけでも」と平気で言ってきたり…。いやはや,「お客様」相手は大変。真面目にやる人ほど神経すり減らします。
 私の場合,通常状態が「怒らない」という印象なので,「怒ると怖い」という評価を植え付けるように,たまにドカンと怒るようにしていた。たとえば,授業などで学生達から見ても「それやりすぎだ」という場面を捕まえてドカンと怒る。けれども,わたくし半分役者なので,ドーンと怒った後ケロッとまた元に戻る芸当をしたりする。それだけだと「のど元過ぎれば」になってしまうので,その授業時間が終わるまでに通常状態で振り返ったりする。
 あんまり効果のあるやり方じゃないかも知れないが,わりと学生達との距離の取り方としてはやりやすかった。許容のさじ加減で迎合してしまいがちな側面がないでもないが,その辺は臨機応変にやっていたように思う。
 高等教育という場でそんな苦労が展開しているのは,あまり感心できることじゃないかも知れない。ただ,知的領域でもそういった苦労はどんどん増えていて,(しばらく述べたくないのだが)例の高校の科目履修問題も絡んで悩ましい自体が進行中である。たとえば立花隆氏のWeb連載記事でも高尚なグチが展開している。原田武夫『タイゾー化する子供たち』(光文社2006)は私も心情的に共感する部分が多いし,著者の優秀さに「同年齢なのに努力不足でごめんなさい」という気持ち。ただ「タイゾー化」という言葉は,世間の優秀なタイゾーさん達に失礼かなと思っていた。分かりやすいとはいえ,取り上げにくいよね,ちょっと。あ,でもこれで取り上げたことになるか。
 私自身,学ぶスピードが昔から遅く,今だとさらに遅いのに,まだまだ学ぶべきことが多いので大変である。生涯学習時代だといわれて,ある程度寛容な態度で見てもらえるようになったが,やはりいろいろ障壁も多い。
 そもそも学ぶ意欲そのものが何処かへ飛んじゃった(「学ぶべきものがあったなんて知らなかった」みたいな)感じになったら,学び自体が発生しない。どうやらそういう事態が進行して,かなり危うい場所にいるということを改めて皆が気づき始めたみたいだ。結局,崖っぷちに立って初めて世間は気がつくという変わらぬ風景があった。
 もっとも私はダイソーで買い物する方が好きかな。家計が崖っぷちなので。

時間を超え場所を越え

 米Googleが,過去200年以上に遡る各種新聞雑誌記事を検索対象とするサービスを開始した。記事によっては,本文全文を閲覧するのに有料の場合もあるが,複数の新聞雑誌の過去記事を横断的に無料検索できる時代になった。10年前は,こんなことをするのに高い料金が必要だったのである。
 Googleが世界中の情報を検索出来るように猛進している成果が,またここに日の目を見たわけだ。図書館の蔵書の本文を検索できるようにしたりする試みも物議を醸したのは記憶に新しい。著作者利権との衝突はあるだろうが,なるほど,あらゆる情報が端末から検索でき,有料だろうが無料だろうが,何らかの形で手に入ることは利用者には有り難い。そこまでの目処が立ったら,Googleが情報課金して著作者へと還元する仕組みも現実味を帯びるのだろうか。EPICか…。
 もっともYouTubeに見られる動画投稿の氾濫ぶりを見ていると,すべてをネット上に持ってくることには限界もありそうだ。検索が前提とする平板化だけではビジネスは成り立たない。何らかの囲い込みが保証されないとうまくいかない。
 それにしても,こういうニュースに触れるたび,日本の英語教育戦略をどう組み立てればいいのか,悩ましい。もしも小学校段階における教育現実がもっと信頼される程度に認識されていれば,小学校への英語科目導入はそんなに問題視されなかったのではないか。
 ところが,現場の努力とは裏腹に義務教育への信頼は低減していたし,そもそも国は教育施策をないがしろにしつづけてきたわけだから,そこに新たな負担やコストをかけるような施策を打ち出しても,誰も安心してうなずくわけがない。要するに,日頃の行ないが悪い人の言うことは信用されないのと同じ理屈である。
 先日,英国との国際交流学習に関する実践の報告をBEATセミナーで聞いた。Japan UK LIVEという名のプロジェクトである。そのプロジェクトを支えている組織では,Webとメーリングリストで日本とイギリスの学校交流を取り持っている。
 このプロジェクトの素晴らしいところは,10数名もの翻訳チームを抱えて,日英の学校のやりとりを翻訳支援する点である。つまりWebもメールも二カ国語。自国語で海外の学校と思いきり交流できるのである。たまにビデオチャットでリアルタイムの交流をする際にも,オンラインで同席して通訳してくれるという手厚さ。
 発表していた現場の先生の言葉に目からうろこが落ちた。曰く「国語科で国際交流学習ができる」。これまで国際交流といえば英語科の領域か,総合的な学習の時間とか全学的な取り組みみたいなものになりがちだった。ところが,このプロジェクトの手厚いサポートのおかげで,ごく普通の国語の授業で,海外の学校と交流できるのである。
 もちろん英語を習得して直接やりとりできれば,また違った交流の展開もあり得るだろう。けれども,つたない言語能力で交流するよりも,まず言語の壁を乗り越える仕組みを確保して,思いきり交流させたなら,逆に外国語習得への意欲が増すのではないだろうか。
 早期の言語習得は,子どものもつ好奇心と習得能力の高さを利用して,自然習得に近づけることを目指している。それも一つの方法だし,小学校への英語科目導入もその路線なのだろう。
 けれども一方,国際交流によって外国語習得への意欲を十分に高める,能動的な習得を企図するやり方もあるだろう。その場合は,むしろ現在の中学高校の英語教育をより重点化していく路線もあり得る。
 正直なところ,英語教育の議論において,こんな単純な二者択一の選択肢さえ国民には明確に提示されていないのである。日本の英語教育をどう舵取りすべきなのか。それは単に学問的な適否だけではなく,こんな世の中で日本という国をどうしたいのかという国家戦略の話でもある,つまり,困難が伴おうと必要だから「やるの?」,それとも問題多いから「やらないの?」ということを選択する話なのだ。(もちろん,どんな結論を出すにしても,学問的なり事実的なり実態把握や考察を踏まえなければならないことは言うまでもない)
 とはいえ,英語に関していえば,こんなに必要性を感じるようになったのは,やはりインターネットの普及のせいである。10年以上前に英語教育を受け終わってしまった私のような人間は,日常にこんなに英語がなだれ込んでくるとは思わなかった。せいぜい,好奇心旺盛な子が,エアメール(郵便)で海外の子と文通するときに英語が必要になるだろうと思う程度だ。当時の英語の先生たちにしても,こんな大変化を予想だにしなかったに違いない。そして今日,現場で英語の先生をしている方々は,大変な立場に置かれているということになる。逆にいえば,それにも関わらずのんびりしている英語の先生は非難の対象に晒されるわけだ。
 200年分の新聞雑誌を検索できることにどれだけの価値があるかは利用の仕方次第。さらに,そういう情報に不自由なくアクセスできるかどうかという点で大きなハンデがあることをどう考えるべきか。あるいは,自国の文化を集大成するようなアーカイブを作るということにエネルギーを注ぐつもりはあるのか。選択肢は他にもたくさんあるが,これ以上,選択を遅らせることは,どれも選べなくなる可能性を高める。

MacOS X10.5の教育利用で嬉しいポイント

 新しいMacOS X10.5英語)は来春発売予定。今回公開された機能の中で注目すべきはネットワーク対応のSpotlight検索とTime Machineという名のファイル復元(自動バックアップ)のようだ。付属アプリケーションの進化としては,MailにおけるHTMLメール作成機能の充実とiChatのコラボレーション機能の追加が挙げられる。
1) Spotlight検索のネットワーク対応
 学校や職場の共有ファイルサーバーには,たくさんの書類ファイルやデータが保存されているものである。従来まで,こうした共有ファイルサーバーに保存されていたファイルを検索するのは困難だった。
 できて「ファイル名」や「ファイルの種類」を検索できる程度。しかもネットワーク経由でマウントしたディスクを検索するため,極端に時間がかかって使い物にならなかった。
 Spotlight検索は,MacOS Xにおけるシステムレベルの検索機能として,ローカルディスク内のファイルやデータを名前から内容までを対象として高速検索する機能。これがネットワーク対応になった。
 つまり,共有ファイルサーバ上のファイルやデータも,名前だけでなく内容も含めて高速検索できるようになったのである。これで,どれだけ前に作った文書でも,探したいキーワードが中身で使われているファイルを探し出すことができる。
 教育工学系で,ブログとかWikiを使って指導案や校務文書を登録して整理するという取り組みがあるが,これでそういう回りくどい努力が吹っ飛んでしまう。サーバー上の指導案等を検索したいなら,MacOS Xでファイルサーバー立てて,MacOS XでSpotlight検索すれば,実務上はあっという間にアクセスできるのである。ああ,こりゃ一大事だ。
2) Time Machine(タイムマシン)
 これは自動バックアップ機能と復元機能である。ファイルやデータのバックアップは重要であるとは啓蒙されても,実際にバックアップ作業をしている人たちは少ない。いろいろ仕事も忙しいからだ。
 そんなわけで,システムが自動的にバックアップする機能を付けるというのは,自然な発想だ。特に目新しい機能ではない。タイムマシンという機能は,ファイルが作成されたり,変更されるたびに,その変更部分(差分)を記録していく。そして必要なときにタイムホールを呼び出して,過去にさかのぼることができ,復元が可能というもの。
 要するに消去しても完全に消しているわけではないし,逆に言えば,ハードディスクを消費する機能とも言える。おそらく使用するかしないかスイッチを入切できると思うが,ハードディスクの容量さえたっぷりあれば,アップルらしいユーモアのあるインターフェイスを使ってファイルやデータの復元ができるというわけである。
 まあ,子どもたちがいろいろ削除したり変更してしまうファイルやデータを復元できたり,過去にさかのぼって古いバージョンと比較できたりするのは,なかなか便利かも知れない。
3) MailのHTMLメール作成機能
 この頃は,HTMLメールによって奇麗にレイアウトされた業者からのダイレクトメールも多くなった。そうした自由なレイアウトの奇麗なメールを個人が作成して送信するツールはなかなかなかった。
 Webサイト作成ソフトiWebの成果を活かして,それを組み込んだのが新しい版のメールソフトMailである。HTMLメールの送信や受信には,まだ抵抗を感じる人々も多いが,そろそろ高度なレイアウトのメールを可能にする環境は整ってもいいかも知れない。
 子どもたちが自由気ままにレイアウトしたメールを送信する場合,最初から文面全体をグラフィックソフトで画像を作成して,それを貼り付けるか,簡易HTMLエディタである程度自由度が犠牲になった文面で我慢するしかなかった。
 システム標準のメールソフトで,ここまで簡単に自由度の高いレイアウトメールを作成できるというのは,表現力を重視する学校現場にとって,かなり魅力的である。
4) iChatのコラボレーション機能追加
 ビデオチャットソフトとしては独自路線を行くiChatは,他のソフトとの互換性という面では劣勢。しかし,MacOS標準のビデオチャットソフトとして,今度の版では,コラボレーション機能が追加されている。
 通信相手のコンピュータ画面を共有し,会話をしながら同じ画面を操作できるというコラボレーション機能は,コンピュータのサポートや共同でのファイル作成に役立ちそうだ。また,これまで対話型のチャットが前提だったが,プレゼンテーション型のチャットもできるようになり,写真アルバムのスライドショーを大きく見せながら子画面でビデオチャットすることもできるようだ。
 こうした機能によって,学校間交流の際の活用がより便利になった。他のビデオチャットソフトと比べても,iChatのビデオ画面はクオリティが高く,従来から学校間交流などで大きく映し出したい用途に向いていた。そのうえに,相手に見せたい写真スライドを見せながら会話ができるという機能は,有り難いはずである。
 その他にも,来春発売予定のMacOS Xには新機能がいっぱい有るようだが,その全貌が完全に明らかになるのは,来年正月のApple Expoまでお預けのようだ。

Macの前進

 BEATセミナーの懇親会の席,アップルのマッキントッシュの話題で盛り上がった。出版界,デザイン教育界,米国在住経験者といった面々が居て,誰もがマック経験者。さらにNECのPC-9801シリーズの話題も飛び出して,楽しかった。
 シェアを反映してか,「教育の情報化」の諸々の前提もWindows(Win)中心に語られてしまうことが多い。もっとも一昔前に比べるとOS対立の構図は鳴りを潜め,MacとWinは「操作が違う」という程度の認識に収まりつつある。Macが風前の灯であった頃を思えば,シェアの圧倒的差はどうあれ,これからもMacが残り続けるだろうという安心のある今は,愛用者にとって有り難い状況である。
 ぼちぼちと教育利用を主眼においたマック情報ブログの更新をしたいと思っている。ソフトウェアの豊富さもWinが圧倒的であるとはいえ,Macにも使いでがありかつエレガントなソフトがたくさんある。そういうものを紹介していくことも大事なので。そうすれば,プラットフォームとしてのMacが,どれだけ安心できるものなのかも理解してもらえる。それはセキュリティとかそういう話というわけではなく,プログラミング基盤としての安定を主に意味している。
 ちなみに8日未明に,新しいMacOS Xが公開される。すでにOSとしては一定のレベルに達しているので,使いやすさや機能の進化が注目されている。また,Winとの相互利用に関しても何かしら進展が予想されている。
 願わくは,もっとハードウェアのラインナップを充実化して欲しいものだが,まあ,その辺は気長に待つしかないか。とにかく新製品にわくわくしている今日この頃だ。

マイクロソフトの不穏な空気

 このところマイクロソフトがおかしい。ん?おかしいのは昔からだし,そういうおかしさに嫌気がさしてWindowsから距離を取ってきたのもあったが,それはそれで,そんなのがマイクロソフト・ウェイだと思えば済んでいた。
 ところが,このところマイクロソフトはビル・ゲイツの引退というわかりやすいニュース以外にも,肝心の主力製品であるWindowsやらMS-Office製品の次期バージョンに関して,雲行きの怪しいニュースが飛び込んでいるのである。そうなると憎たらしい相手とはいえ,元気のない姿を見るにつけ,「ちょっと大丈夫?」と思わず心配してしまうのである。
 それはたとえば,次期製品Office2007のリリースを(これも延期されてそうなったのだが)2006年10月を予定していたのに再度延期で2007年の早い時期にと変更になったしまったこと。ドラスティックな操作体系の見直しをして,人々を不安にしているだけに,あるいはこれは嬉しいニュースなのかも知れないが,そんな調子で大丈夫なのか?と思う。
 そしてもう一つはWindows Vista。次世代OS製品としてかなり前から開発が続けられているものだ。本来であれば,2003年にリリースされているべきだったとも言われるが,現在は2007年初めにリリース予定されている。
 こういう新しいOS製品は,盛り込まれる予定の様々な目玉技術というものを何年も前から事前にプレゼンテーションして,いろんなソフトを開発する他社の技術者に理解してもらって活用してもらおうと準備する。Windows Vistaも2003年あたりから「今度の新しいWindowsは,こんなに凄い技術が搭載されて,素晴らしいパソコン環境になります!」とたくさんのアドバルーンを上げていた。もちろんその時点で完成していないものもあるが,その実現を見越して,パソコンソフト業界は勉強を続け,自分たちのソフトで最新技術を使えるように準備するのである。
 ところが,派手なアドバルーンを上手く実現できる場合もあれば,風呂敷を広げすぎて実現困難で挫折という技術もあり,これがなかなか大変なのだ。
 問題なのは,Windows Vistaというのが「次世代OS」という事を強調しすぎて,結構無理難題をたくさん抱えていたことである。そして先日,この新時代のOSで一番の目玉技術と考えられていた「WinFS」という技術プロジェクトが,ひっそりと中止宣言して大問題になっているのである。
 私はWindowsの技術者ではないので,正確なことは書けないが,要するに「WinFS」技術は,「Windowsをデータベースにしちゃいましょ」っていう技術なのである。
 パソコンがある程度便利になってきて,そしてインターネットからたくさんの情報を得られるようにもなってきて,たくさんのデータを管理する時代になっている。皆さんの使う頻度や程度がどうあれ,パソコンでは無数の情報が管理されているのである。そういうのを細かく見ていくと,重複した情報というかデータが存在したりする。編集しているうちにたくさんのバリエーションが増えたワープロファイルとか,住所管理ソフトとか,メールソフトとかいろんなソフトで管理している知り合いの住所とか。とにかくコンピュータの中を調べていくと,似たようなデータがいっぱい。
 そこで「Windows自体がデータベースになっちゃえば,こういう重複したり似たりしているデータを整理して,効率的に使えるんじゃない?」と考えた技術者がいて,その基礎技術として頑張っていたのがWinFSである。
 もしWinFSってのが実現すると,Windowsで動くソフト全部,データベースの機能を使えて,しかもソフトの違いにかかわらずお互いの情報を効率的に利用できるので,「ワードファイルと一太郎ファイルが混ざってダメじゃん」ということを心配しなくてもよくなるのである(ちょっと嘘ついてるけど…)。
 だから,ソフト開発をしている技術者の皆さんにとって「WinFS」って技術こそWindows Vistaの肝であり,それが実現するんだったら,Windows万々歳,という感じだったのである(まあ,そこまで脳天気な開発者はいないけど)。
 ところが,先に書いたように,この「WinFS」がひっそりと中止宣言。正式発表ではなく,マイクロソフト開発者のブログで,「計画を変更します」と説明する形で明らかになった。
 この「ブログで明らかになった」というところがマイクロソフトにおける不穏な空気を醸し出しているところで,もしかしてこれはWindows Vistaそのものの開発やリリースに関しても,何か悪いニュースが控えているのではないかという憶測にも繋がってしまうのである。少しでも世間のショックを和らげるための工作が展開しているような気もするのだ。
 Windows Vistaのベータ版についても,ベータ版といいながらまだまだ完成の域には達しておらず,開発現場では大変な努力が展開しているらしいことも伺える。これが経営サイドと開発サイドの乖離という事態を示しているのではないことを祈ってあげたいが,もしそうだとすれば,巷でいわれているソニーのような状態になって,もしかしたらマイクロソフトに大きな陰りがやってくる可能性も否定できない。
 WindowsやOfficeが新しくなることで,完成度が高いか低いかのいずれにしても,振り回されてしまうのはいつも消費者,エンドユーザーだということ。距離を取っている人間としても,ちょっと気になる空気である。

所得格差が学力格差?

 読売新聞Web記事「学力の差、「親の所得が影響」75%…本社全国世論調査」のような内容は,「〜との意識を多くの人が持っている」という記事の書き方からもわかるように,あくまでも意識調査である。
 本当に所得格差は学力格差へと連関するのかについては,いろいろ調査があり,条件によってはそうとはいえないこともある。たとえば日本全国どこでもその現象があるわけではない,とか。けれども,全国報道でそんな論が取り上げられると,人々の意識は自身の周辺実態とは別にそのように染まってしまうものかも知れない。
 子どもの学力や学習意欲が向上するための家庭内条件とは何か。そんなことを考える長い長い土日を過ごして,必ずしも所得だけが全てではないとあらためて思った。ブルデューを始めとして論じられる経済資本と文化資本の関係も確かに働いているとは思うものの,それは単に個々の家庭の所得という形ではなく,社会全体が教育施策に費やす程度も変数になるだろうし,あるいはそれに値する経済活動からの効果のようなものも無視できないかも知れない。いずれにしても,単純でないことだけは確か。
 また,たくさんの人たちに出会った。初対面ながらも気さくに迎えていただいたことに感謝。私の場合,笑顔と度胸が資本です。

発信無し状態の意味

 とあるML(メーリングリスト)で久しぶりに発言メールを発信した。MLでよく起こりうる特定人物の空回りシチュエーションに対して,疑問と提案をするメールであった。そう受け取るかどうかは人それぞれという微妙な内容だが,まあ,余計なお節介をしてみたわけである。
 で,ML上で返ってきた反応に対して,今度は私からのメールを発信すべきだと思うが,少し意地悪な私は私の考えをこちらに先に書いてしまおうと思うのである。その意図するところを理解してもらえれば有り難いが,決してふざけているわけではなく,いろんな意味でお互いが望む結果に近づくことが出来るのではないかという可能性を期待しての選択であることを信じていただきたい。たぶん名前を検索して,ここにもたどり着いてくださっていると思うので,こちらで説明できることは,こちらでやってしまおうと思う。
 今回私が何を疑問に感じ提案をしたかというと,このところMLで,ある人の発信が量・内容とも一方的になっており,そのことが気になったので,MLの発信スタイルとしていかがなものかと疑問を呈し,もう少し工夫されたらどうかと提案したのである。ありがちなシチュエーションに,余計なお節介。多くの皆さんにも経験があり,ピンと来るものだと思う。
 MLというものに人々が何を期待して登録をしているのか,あるいは実際にどのように活用しているのか,様々だと思う。MLの設置目的や規模,運営の仕方もいろいろだ。だから,その使い方というものに唯一の正解はないし,別の言い方をすれば,様々な目的と利用実態が共存できるという特徴がMLにはある,とも言える。
 MLの「正しい使い方」がこうだから,あなたのそれは間違っていると指摘したかったわけではない。けれども,あなたが期待している反応を得るためには,MLへの発信スタイルに調整を加えた方がよいのではないか。そうでない状態を続けている状況を眺めていると,少し気の毒になる気持ちも出てくるし,そしていよいよ気の毒な気持ちを通り越して,どうしてアプローチを変える努力をされないで他者の反応ばかり期待されるのか懐疑的になってくるし,そろそろ不快にも感じ始めたのである。
 その方は,とても律儀な方なので,こういった反応について丁寧に心理分析を加えて,変化への拒否反応であること等の可能性を指摘してくれるのだけれども,それもまた,私にとってはあんまり嬉しくない話である。また,私の過去の発言から,ああこの人は大学関係者だったのかと判明すると,「学会」とか「圧力」みたいな言葉と憶測も出てくるに至って,なんか研究の世界ってそんなに「権威ぶってる?」と,とても悲しい気分にもなる。というか,思うにそんな指摘や憶測は一般的に失礼である。
 ただ,もう「一般的に」という言葉がどこかへ吹っ飛んじゃったようなメディアであることは,先に「様々な目的と利用実態が共存できる」という特徴から考えてもあり得る話なので,嬉しくない話も悲しい気分も「そりゃアンタの勝手な感情だ」となってやりにくい。だから,ML上で直接このことを指摘するのは避けることになる。それは私が提起した事柄とは違う話でもあるからだ。
 600名以上の登録者を集めているMLに私が登録していられるのは何故か。600名もいれば,異なる考え方で相容れないだけでなく,関係を持つことすら拒まれる相手もいるかも知れない。それでも同じMLに登録できるのは,実はMLが情報発信するために繋がっているメディアだからではなく,情報発信が無い状態で繋がっていられるメディアだからであると考えられる。
 立場を変えて表現しただけに思えるかも知れないが,この観点は大事なのである。当然「情報発信がない」は「情報発信がある」という可能状態を前提にしている。つまり表裏一体の関係。そのどちらの状態が定常的になるのか,あるいはどんな周期で波がやってくるのかは,もちろんML毎に異なる。
 私にとってML登録者の過半数が,仮に性格的にも思想的にも,まして生理的にも相容れなかったとしても,MLで「発信しない」状態があるからこそ共存できるのである。また「発信する」状態があっても,それは許せる頻度や程度であり,「発信しない」状態に戻ることを前提するからこそ登録を継続することが出来る。それがMLの特性に対する「一つ」の理解である。
 だから,この「一つ」の理解からすれば,もしも長期的に連続的に何かを情報発信したいということになれば,他に適したメディアが存在するし,それらを組み合わせて利用し,MLの使い方を調整した方がより望ましいのではないかという提案も可能である。そしてそう提案してみた。
 実のところ,私がMLで返信をしていないのは,たまたまタイミングがそうなっただけだが,一方で意図的に時間を置くためもある。もちろん,「意図的」と書くと相手が不快に感じることもあるだろう。誠実さが足りないと思われるかも知れないし,自分を優勢にするための作為があると思われて変に敵意を持たれてしまうかも知れない。だから余計な感情を生みたくなければ,本来は「書かなくても(発信しないでも)いい」話である。それでもそう書いたのは,私がすぐに返信しないことで起こる出来事を見ていただきたいということでもある。
 私が1通発言したことでご本人から返ってきたメール数は6通。追補や自己レスもあるとはいえ,もう少し落ち着いて返信をいただければ数通で済むと思う。
 しばらくして,オーディエンスの中から幾人かの方が自分の考えを披露された。私とはまた異なるバランス感覚でご意見を表明されているので,MLにはいろんな人々が登録しているのだということをあらためて確認できる。
 つまりこういう事なのである。もしも自分の投げかけた話題についてオーディエンスの中から発言して欲しいならば,オーディエンスを意識した「内容」を発信し,参加する「間」を用意する(発信しないで待つ)ことも,一つの方法だということ。待ってもダメなときはある。ならば,もう少し内容を工夫して,間を開けてから再度投げかければいい。相手に余裕を与え,自分にも余裕を与えるということが有効なときもある,ということである。
 もしも対話というものをMLに期待するというならば,そうした発信の工夫をする作法も心得たい。それだけのことだ。
 しかし,再度確認すれば,それは「私の考え」であり,また「必ずうまくいくやり方」というわけでもない。だから,連続的に発言して,オーディエンスに対して発言を促すという方法も「有り」だし,発言を継続することでいつしか重い腰を上げて相手をしてくれる人を待ち続けるというアプローチが「成功する」かもしれない。
 だから,私がご本人に聞きたかったことは簡単で,「私なりに上手いやり方があると思いますが,あなたはそのやり方をとる余裕がありますか。それとも従来通りのやり方に固執して連続的な発言を続けられるのですか」ということなのだ。
 「ご意見了解した。それも一考に値する工夫なので,やってみよう」となれば,私にとってはハッピーだし,もしかしたら相手にとってもハッピーになるかも知れない。それが私の一番の目標。
 「ご意見は拝聴した。でも私は連続発言が効果的と考えるので続ける」ということで,現状に変化が見られないのであれば,それは仕方ない。私がそれを了解して,私の側で対処することを考えるまでのことである。気にしないように努めるとか,メールソフトの機能を活用するとか,ML自体を退会するとか,選択肢はまだ残っている。それでもとりあえずハッピーになる。
 私にしてみると,ハッピーでないのは,話がこじれることである。私は相手を非難したいわけでも攻撃したいわけでもない。まして相手の発言を阻止したり排除したいというわけでは決してない。単に,私が自分の行動をどうするか決めるために情報を得たかっただけである。
 ただ,そのためにはいろいろな関門をくぐらなければならない。「逃げるためじゃないのか」とか「きっと問題意識が薄い人間なんだ」とか「発言が邪魔になったんだ」とか「圧力があって潰そうとしている」とか「この程度も我慢できない人なんだ」とか「底浅っ!」とか,きっと様々に心理分析されたり,推測されたりするんだろう。過去の発言をさかのぼったり,インターネットで検索して,私がどんな人間でどんな考えをしているのか詮索されたりもするだろう。もしやりとりがうまくいかなければ,どちらかが捨て台詞を書くか,そのままフェードアウトして気まずい空気のままで喧嘩別れをするかも知れない。それらはどれも,あまりハッピーな事とはいえない。
 ただ,必要があれば,私は悪者を引き受けても構わない。このまま返信しないでMLが穏やかに進むならば,「返信しなかった輩」として評価されても何も困らない。MLが多様性のもとにあるメディアというならば,私の今回の役柄が「卑怯な奴」だったとしても何の不思議もないのである。問題は,そういう結末を,別の機会に持ち出そうとして話をややこしくすることである(それが必要な場合もあるとは思うが…)。
 「律儀なあなた」と「卑怯なわたし」がオーディエンスの前で仲良く手を取り合って事態解決という構図は,具体的にどんな形のことを指すのか正直イメージが難しい。もしかしたら,振り上げた拳を下ろすことなく,先に幕を下ろすことの方が良い場合だってある。そしてもっと大事だと考える事の方へエネルギーを注いだ方が生産的ではないだろうか。
 それが私がいま考えていることだし,そうなるかどうかは別として,その可能性について相手にも了解しておいて欲しいと思うのである。もっとも,ここに書いてあることを相手が読むのかどうか,読んだからといって了承するかどうか,了承しても実行するかどうかはまったくわからない。どっちにしても意地悪な私は,ちょっと違った方法を使って事態を再利用している。どちらかといえばオーディエンス志向の行動原理を持つ人間なのであった。小泉さんみたいに劇場型でごめんね。