人々が教育議論を異なる立場から交わすこと自体は好ましいことではある。けれども,このところ教育議論がどんどん拡散していて,結局何がしたいのかわからない状態がひどくなっている。
文部科学省や中央教育審議会という場が形骸化したからと,首相官邸が教育再生会議を立ち上げたところからして,税金の無駄遣い。もうちょっとマシなPR戦略に基づいて活動するかと思ったら,会議非公開の上に,肝心の議事録公開は遅いから,そのことをテレビで突っ込まれる始末。「そのことも議論してますよ」なんて,余裕こいているんじゃない!
マスコミは相変わらずそんな事態に配慮もしてくれなくて,いじめだ,未履修だ,法改正だ,ダメ教師だ,5年更新だ,なんてことばかり報道。なんだよ,これじゃ会議を非公開にしている効果がまるでないじゃん。本来的にマスコミが継続的に取り扱わなければならないのは,たとえば教育予算などといった議論である。
『アステイオン』第65号(阪急コミュニケーションズ)において,苅谷剛彦氏が「「機会均等」教育の変貌」という興味深い論考を披露している。ちょうど「教育らくがき」でも駄文「減り続ける日本の教育予算」(1)(2)で触れられなかった部分について,歴史をさかのぼって詳述している。(教育予算を「標準法の世界」で考えることと,「パーヘッドの世界」で考えるという構図の描き方は,さすが教育社会学的にキレイな論述の仕方だと感心する。)
苅谷氏の議論は,多くの人々にとっては(悲しいかな)新鮮だし,驚きのはずである。マスコミはそういう話題をしつこく扱っていくべきなのだ。それが出来ないから,この国の教育議論はどんどん迷走して,雲散霧消してしまう。不毛なんかじゃなくて,そもそも議論されていないも同然なのだ。