教育界世代議論メモ

○世代役割
70歳代以上 〜歴史を語る
60歳代 〜経験を語る
50歳代 〜責任を引き受ける
40歳代 〜現実を動かす
30歳代 〜課題に邁進する
20歳代 〜挑戦する
10歳代以下 〜世界を学ぶ
○世代特徴後
70歳代以上 〜理想
60歳代 〜回想
50歳代 〜俯瞰
40歳代 〜冷徹
30歳代 〜野望
20歳代 〜情熱
10歳代以下 〜夢
○つぶやき
 年齢規範と世代規範という枠組みを使用したのは稲増龍夫氏であった。googleで検索しても,このキーワードを使っているページはほとんどないので,あまり一般的に認知されているとは言い難いようだ。枠組みの妥当性があるのかないのかは置いておくとして,示唆に富んでいることは確かである。
 いまの若い人たちが「子どもと友達でいたい」という線引き曖昧な関係を好んでいるのは悪いことではないが,だからといって線引きできなくなってしまうことは決して望ましいことではない。
 団塊の世代以上の人たちが「気持ちを若々しく保ちたい」という人生我が世の春を謳歌したいというのは悪いことではないが,だからといって引き際を忘れていつまでも舞台中央に居座ることは決して望ましいことではない。
 中間の世代の人たちが「誰にも迷惑かけない自分の生活が大事」という開き直りで過ごすのも悪いことではないが,だからといってみんなが好き勝手に動いてバラバラでしかないのは決して望ましいことではない。
 けれども,どうしてそうなってしまうのか。そのことを想像力めぐらせて考えてみることが大事だと思う。「そうせざるを得ない世の中」だとしたら,それは何かしら変えていけるかも知れない。
 個々人の思いや希望は個々人の自由であるから,それに働きかけられるのは直接対峙する人たちだけである。何かしら包括的なアプローチをとりたいというなら,「そうせざるを得ない状況」そのものに注意を向けて,働きかけられるかどうか考えないといけない。もっとも教育基本法なんてのは的外れもいいとこである。
 稲増氏は『パンドラのメディア』(筑摩書房2003)でその対象としてテレビを扱った。その題材選びはとても的確だと思う。日本には宗教がない代わりにテレビメディアがそれを立て替えちゃっている現実がある。
 『日経ビジネス』2006.12.4号の特集はベネッセ・コーポレーション。会長インタビューのタイトルには「宗教を超える株式会社へ」とある。その響きに違和感を感じないわけではないが,けれども,それは真面目に議論されるべき事柄だと思う。
 日本国内で過ごす分には,曖昧な宗教観が心地よい。けれども世界と対峙する段になれば,主張する何かを持たなくてはならない。テレビか,株式会社か。学校や教育という神話が崩れつつある今,目立った選択肢がこの二つくらいというのも寂しい話。
 それよりも何よりも,どこもかしこも倫理観も哲学も失われた世界。世界を学ぶ次代の子どもたちに,胸を張って示すことの出来る何かを残していかなくてはならない。それが先に生まれた私たち世代の共通した義務のはずである。