投稿者「rin」のアーカイブ

睦月28日目

・内田樹『下流志向』(講談社2007)立ち読み
 →ブログも人気な内田樹氏の新刊。教育問題を中心とした本なので,当然買いたかったのだが,他のことでいろいろお金使いすぎたのでグッと我慢。内田氏の機知と含蓄に富んだ文章には大きな価値があるのだけれど,教育トピックス的には真新しいものがあったわけではないので…。でもきっと買っちゃうのだと思う。長い休暇も終わることだし,ぼちぼち稼ぐことを本気で考えるか。
・飲み屋社長はやっぱりダメダメだと再確認
 →飲み屋の社長がまた教育問題でテレビ生出演。どの言葉も威勢はよいけれど,前提としていることや提案内容のもつマイナス影響に対する認識がずれていることに,はてなマーク。一企業や一学校で通用する論理を,全体にそのまま適用しようとする無邪気さが,この人のイイところでもあり,ダメダメなところでもあり…。何を言われてもへこたれずに笑みを浮かべようとするところに,ワンマン社長らしさがにじみ出ていた。こうやって,人の話を聞かないんだな。マスコミは今後も,ビジネスの面で話題提供して欲しいから関係を壊したくなくて社長に甘いが,少なくともこの人は教育再生会議のスポークスマンには適さないことは明白。多くの視聴者が,女性司会者による社長へのツッコミに気持ちよさを感じたに違いない。
・その他
 →声を出す機会もなく過ごし続けて,買い物に出かけ突然声を出そうとしたらうまく声が出ない。たまにゃカラオケでも行って発散せにゃならんのだろうか。それと,しゃべる機会がないから,いざしゃべるときに早口になるのかも知れない。
 テレビで赤ちゃんについて取り上げられていた。意外なパワーと能力を持っているというお話。赤ちゃんにとって,無表情が一番怖いのだそうだ。そして動きのある表情が大好きらしい。そうか!なぜ小さい子ども達が私の顔を見つめることが多いのか,謎が解けた。子どもを見るときの私の表情に動きがあるからだ。人間が変化を好むのは,こういうところからも始まっているのかも知れない。
 広報専門誌「PRIR」によると,社団法人日本PR協会が毎年発表している「日本PR大賞」の「PRパーソン・オブ・ザ・イヤー」に,脳トレでお馴染みの東北大学・川島隆太教授が選ばれたという。ははは,なんか不思議というか,なんというか。隣のページにゃ,向山洋一氏の名前載っている。金融教育の教材づくりで広報関係者と連携,らしい。PRとうまく関わる人,関われてない人。中身とは違ってそういうところで差がつくこともあるわけだ…。
 いつも長駄文におつきあいありがとうございます。

教育システム情報学会研究会・発表

 共同研究グループの先生が発表を行なうので,八王子市のとある会場で行なわれる「教育システム情報学会」の研究会に参加した。研究世界に馴染みのない皆さんには,こぢんまりとした規模にビックリされるかも知れない。
 教育情報・工学系の学会は数あって,それぞれの特色も大きさも様々である。学会同士には親子関係や敵対関係にあるものもあって,新参者にとっては学会選びも楽ではない。とはいえ,「研究を発表する」という行為が学術研究活動にとって命で,特に理系ではその頻度も重要な指標となるため,発表の機会や場があれば選り好みしないことも大事になってくる。
 その上,自分の発表を上手に切り分けて,切り分けた断片の特色と発表学会の特色を組み合わせていくということができるとよいらしい。この一年は,そういうイロハを実体験できて,とても勉強になった。
 ちなみに今回は「研究会」という場。皆さんが思い浮かべる学会は一年に一回行なわれる「大会」と呼ばれる規模の大きな場の方だと思う。けれども,発表の場が一年に一回だとぜんぜん足りないという事情もあって,小規模で数ヶ月に一回という頻度の研究会が用意されていたりするのだ。そんなわけで,この日の参加者も20名弱とこぢんまりであった。
「教材の活用促進を目的とした親と子向けのナビゲーションシステムの開発」
堀田博史(園田学園女子大学),堀田龍也(メディア教育開発センター),林向達(椙山女学園大学),星野徹,牛島大介(株式会社ベネッセコーポレーション)
 こうして私たち研究者の研究成果は,「学会発表した」という記録が残ることになり,あとから研究成果を参照したい人たちが学会の発表リストをさかのぼることで過去の研究成果を確認できるわけである。
 発表者側にしてみると,こうやって自分の研究内容を部分的・段階的に発表するのを積み重ねていき,一通りの流れを出し終えたら「研究論文」として全体をまとめて発表する。それでひとサイクル。
 文献に埋もれて,知見を溜めて溜めて…というスタイルばっかりやってきたものだから,こういうスタイルはある意味新鮮。計画上手にならないといけないなぁと頭では分かるのだけど,根っからの無計画さんの私は前途多難だな,こりゃ。

「確かな学力」の向上を図るICT活用

 2006年3月2日に文部科学省委託事業成果発表フォーラム「IT活用による学力向上の証し」開催。それから10ヶ月ほど経過した2007年1月26日には継続研究成果を発表する「「確かな学力」の向上を図るICT活用」というフォーラムが催された。
 昨年のフォーラムについてはブログ駄文で書いた。教育現場のIT環境の条件整備が進まない実情に対して整備の意義を実証研究成果として示すため,文部科学省から独立法人研究機関へ委託した研究事業の成果発表である。つまり,お金を出す根拠を学術的にも証明しましたと宣伝するイベントである。
 しかし,そのような目的にもかかわらず,研究成果自体は「お金を出させる根拠に足る説得」にはなっていなかった。学術研究成果として止まったままだった。行政当局や財務当局にお金を出させるには,言葉が足りないというか,翻訳する必要がある。その翻訳作業が全く手つかずだった。その発想自体がなかったとも言える。昨年の成果発表を聞いて,その点に酷く手抜かりを感じたし,だから辛口の感想を書いた。
 さて,今年のフォーラムである。継続事業の2年目の発表会ということもあり,実証研究自体はブラッシアップされた検証方法のもとで事例が積み上げられていた。事業を統括している清水康敬先生も,「ICT活用」の効果を継続して検証してきたというイントロダクションで今回のフォーラムの口火を切った。「ああ,割り切ったんだな」と思った。今回の登壇者に文部科学省以外の行政関係者が配されていなかったことも,事業の研究を学術的に追究していくことで責務を果たす割り切りの現われだと思ったのである。
 私自身も,昨年辛口過ぎたので,今年は出来るだけニュートラルな立場で受け止めようと思っていた。だから,逆に割り切り姿勢が見えたとき,思わずホッとしたのである。「お金を出させる根拠を提供する」なんて意識するような色気は出さず,学術研究というか,ICT活用の事例の蓄積と研究に徹することが一番いい。それを行政措置や財政措置に結びつけるかどうかは,文部科学省にやらせておけばいいのである。研究を委託しといて,その成果を活かさないのは,委託した側の問題なのだ。
 ところが,後半のパネルディスカッションで,昨年の悪夢が再来する。質問紙に対するコメントとして「この研究はアカデミックな研究を目指しているのではなくて,日本のICT活用を推進するために行なっている」と説明されたのである。つまり「学術研究が主ではなく,(ICT活用の)推進・普及が主である」と明言してしまった。
 あいたたた。委託事業としての経緯として「推進・普及が主」と言うのは理解できるとしても,ここでそれを「主」だと位置づけると「お金を出させる根拠の提供」という問題に再度ぶち当たってしまう。成果を語る範囲においては,学術研究として立派なエビデンス(証拠)を提供する事に徹して,普及・推進にはあえて触れない方が焦燥感を抱かず済む分健全だと思う。
 純粋な学術研究として展開させていくといっても,単に実証結果の確定と公開というだけでなく,登壇者の先生方が指摘していたように,教員研修プログラムへ吸収されるように持って行くことが,今後の妥当な展開ではないだろうか。つまり,地方自治体にIT環境の条件整備を推進させるうえで,「実証研究成果に基づいた教育研修プログラムのリソース提供も行なう」というインセンティブ(誘因)を準備できるように研究成果を発展させていくこと。今日の発表はそういう方向に行くことが示唆されていたのだと思う。(管理職向けのICT活用プログラムを作成しようという動きについては毎日インタラクティブのこの記事参照。)
 IT環境の条件整備を迫って「整備しても教員に使う能力がなければ意味がない…」と返されるのであれば,「IT環境の条件整備をしてくれれば,国としてこういう実証研究に基づいた教員研修プログラムを提供するから,ワンセットと思って整備してくれ」と提案できるようにするわけだ。これなら「普及・推進」にも貢献することになる。
 (ただ,一抹の不安は,事例データベースを公開しますっていう程度で終わってしまうと,巷で使われずに宙に浮いているコンテンツポータルの二の舞になりそうだということ。官製研修として提供しないとインパクトがない点が日本の困った実情である。もっとも,教員免許の国家資格化が叫ばれる流れの中で,教員養成や教員研修の位置づけも変わるのかも知れない。)
 もう一つ,蓄積された検証事例の中で,ICT活用がマイナス効果を生んだものをどう扱うかという問題が論じられた。昨年の実践報告の中で,現場の先生達から「失敗例もしっかり共有されるべき」という発表内容があって表面化した主題だ。成功事例ばっかりじゃダメ,失敗も見つめなきゃ,という現場の人間らしい発想である。
 その事の重要性については,この研究事業においても認識されているようだが,こうしたshould not(すべきでない)という扱い方のものは日本では少なく,馴染みがないという見解らしく,成功事例と同時に公開というわけにはいかないらしい。ICT活用がマイナス効果を生む場面について考えることは重要だが,少なくとも今回の研究の範疇を超えるというわけである。
 さて,改めて研究成果発表を捉え返してみるなら,学術研究として着実に前進しようとしているという点では,評価できると思う。この国における教育の情報化を語る上で,欠かすことの出来ない基幹研究成果として位置づけられるよう深化することを願う。その成果が教員研修プログラムなどに波及すれば望ましい。
 残る問題は,委託した研究を活かすかどうかということである。現時点でこの部分は,失望以外の何ものでもない。昨年同様,文部科学省から嶋貫和男・初等中等教育局参事官が出席し,文部科学省の取り組みをアピールしていた。けれども,文部科学省の後退振りは明らかで,いまは教育の情報化どころの話ではないことが雰囲気として伝わってくる。結局,2005年度末というゴールを通り過ぎたのは,かなり手痛い結果となってしまったようだ。「IT新改革戦略」や校務の情報化に触れる言葉もどこか余所余所しく聞こえた。
 誤解しないでいただきたいが,文部科学省(の情報化関係者の人々)は「教育の情報化」について積極姿勢を崩してしまったわけではない。実際,綿貫参事官は様々な案を披露して,推進・普及に努力していることを語った。むしろ,その語りの向こう側の奥歯に挟まっていた物は,文部科学省ひいては日本の教育が取り囲まれてしまった様々な「政治問題」だと思われる。
 もちろん情報教育分野も,今度の「教育3法」云々は無関係じゃない。むしろ情報化に向けた様々な動きを法律などによって明文化する好機となっている。だから,法律が可決されることを良くも悪くも待たなくてはならない。いわば足踏み状態なのである。可決されれば,ヨーイ・ドン!と勢いよく走り出せるかも知れない。
 日本の教育の情報化は足を取られ続けて遅れに遅れてきた。けれども,別の文脈から見るとこの「遅れ」は災い転じて福となるが如く,情報機器の進歩や激変の影響を最小限にしてきたともいえる。
 パソコンOSは,あと数日でWindows Vistaの時代に突入する。古いパソコンと新しいパソコンの互換性や連携の問題などいろいろあるが,少なくとも教員1人1台支給のパソコンはVista対応パソコンで統一されるという点ではタイミングがよい(リナックスになるのでは?という可能性も残るが…)。
 液晶プロジェクタの性能向上や価格低下もどんどん進み,本格導入するには十分な水準になってきた。もう少し待てば,さらに使い勝手の向上が期待できるだろう。そういうものが教室に入った方が楽である。
 インターネット周辺の(Web2.0に象徴されるような)リソースやソフトウェアなども充実してきた。ほんの数年前は,グーグルさえ日本人にとって馴染みがなかったのである。そう考えると,ここまで引っ張ってきた甲斐があったというものだ。
 日本の学校教育が,MS-DOS以前からパソコンの教育利用の可能性を気にし続けていたにもかかわらず,ずっーと禁欲的に対応し続けた末,気がつけばパソコン界隈は大変リッチになっていたのだから,これは一種のご褒美である。その分,教育現場が学ばなければならないこと,準備や配慮しなければならないことも膨大になってしまったのが厄介だけれども…。
 実際,いろいろな流れが寄り線になって教育の情報化が進められているので,パッと見がよく分からないのである。また近いうちに英国のICT施策の周知手法について概観してみたいと思うのだが,素人にも大黒柱の姿が分かるようになっているのね。日本は関係者じゃないと,何がどことどう繋がっていて,それぞれ何に向かって走っているのかがわからない…。
 結局,国民の眼とか国籍の違うの人々の眼を意識しているかどうかの違いなのである。だから,それぞれが好き勝手に研究会開いたり,プログラムつくったりしているようにしか見えないのである。繋がっているのは何かというと,誰それ先生が関わっているとかそういう人ベースの重複。その証拠に,日本の情報教育に関して交わされる会話のほとんどは「○○先生の情報教育プロジェクトで〜」とか「○○先生にご指導いただいている〜」とか「○○先生に声をかけられた〜」という風に人が主語なのだ。普通の国民は,誰それ先生を普通は知りません。
 一方,主語が組織や団体ベースになる場合,ほとんど「文部科学省」が主語になってしまって,個別の主題が曖昧化してしまい分からなくなってしまう。そして文部科学省集権体制のために,せっかく様々存在する公的機関や研究プロジェクトも国民からはほとんど見えなくなる。そのうえ,文部科学省絡みのルートには,教育委員会制度など問題が山積。こんな状態で何か一つのことを通そうと思っても,通らないのは当たり前かも知れない。
 話が拡散したが,研究成果を活かせるかどうかという問題は,情報教育の推進の仕方にも疑問を投げかけている。少なくとも関係者にだけ分かっていて,一般人には全体像がつかめないような現状で,教育の情報化が前進するとはとても思えないのである。注目を集めるのは,トンチンカンな七つの提案(24の小項目!)っていうのだから,コンセンサスが得られるわけがない。
 もっと周到な喧伝戦略を練るべきである。それは情報教育という領域に限らず,学校教育そのものについて(保護者マニュアルみたいな発想も含めて)様々な手段を使ってプレゼンされなくてはならないと思う。マスコミ任せではなく。
 フォーラムが終わって,アンケートを書いていたら,また一人会場に残されてしまった。知っている方々がいなかったわけでもないのに…,どうも皆さんと行動波長が合わないらしい。同じ波長の人間がたくさんいても意味はないと思うし,逆に違うから広がりがあると信じたいが,こういう場面に遭遇すると「疑問に思っている私の方が間違っているのか?」と戸惑ったりする。 たぶん,そうなのだろうけれど…。
 ああ,やっぱりわたくし,迷子かも知れません。

「浮きこぼれ」!?

 「月刊ascii」03月号の第2特集は「落ちこぼれより深刻,『吹きこぼれ』」。学力の高い生徒に対して学校の授業が応えられず,不満を抱かせたり,ドロップアウトさせたりしてしまう状況を指す言葉らしい。
 いやはや,今回もお恥ずかしい話だが,この「吹きこぼれ」もしくは「浮きこぼれ」と呼ばれてきたらしい言葉は初耳である。現象自体はお馴染みだったのだが,こんな名前がついて呼ばれていたとは,今回初めて意識した次第である。
 けれども,私だって可能な限りあちこちの教育文献・資料を渉猟しているつもりの人間である。なのに「浮きこぼれ」という言葉が活字として強く意識されたのが初めてとは,ちょっとどうなっているのだろうか。
 インターネット上の百科事典として有名なウィキペディア(→浮きこぼれ)によれば,学校用語だと解説されている。それ以外も「浮きこぼれ」という言葉で検索してみたが,どこもかしこもウィキペディアが引用もとになっている状態。ちらほらどこかの論考原稿に掲載されたような記録も見つかるが,大々的に文字になっている言葉ではないようにみえる。
 いったい「浮きこぼれ」という言葉の出所はどこだろうか。 「落ちこぼれ」の対語という説明を勘案すれば,誰でも言えそうな言葉なので,どこかの校長先生か,指導主事か,教育長なんかが使った言葉が歩き出してしまったのかも知れない。「ゆとり教育」という言葉も正直なところ,曖昧なまま歩いているし…。
 本日は文部科学省委託事業である「教育の情報化の推進に資する研究」の成果発表フォーラムがあった。昨年3月に行なわれたものの続きである。昨年の内容についてかなり辛口で厳しく駄文を書いたが,今年はそれもあってわりとニュートラルな気持ちで聞いていた。別駄文として詳しく書くことにしよう。

睦月24日目

・教育再生会議の第一次報告が出た。
 →Webページにも(議事録を追い越して)第一次報告「社会総がかりで教育再生を〜公教育再生への第一歩〜」が掲載された。同時に(やっと2ヶ月ほど遅れて)「いじめ問題への緊急提言」も掲載された。もしかして,官邸サイトのWebサーバーの更新作業って,何かしら制限があるのだろうか。そう簡単に更新できないように,いろいろ手続きやらを複雑にしている気がしてきた。
 七つの提案の吟味はこれからしたいと思う。十七から七に減量した努力(したのかどうか…)は認めるが,七つでも多すぎ。関係者にとってはお待ちかねの「教育3法」の改正フェーズが始まり,この七つの提言がアリバイとして使われていく様を再生会議委員一同は苦々しく眺める事になるのだろう。とりあえず第一次報告が出てきて一段落したところで分かったことは,飲み屋の社長は自分の会社や学校は語れても,日本の教育を語るにはダメダメだったということと,同じ年齢で頑張って欲しかったヤンキー兄ちゃんが事務方相手だと熱くなる前に放水を浴びてダメダメだったということなど。今後に期待ということで…。
・週刊「東洋経済」1/27号・特集「ニッポンの教師と学校 全解明
 →結構なボリュームの特集。週刊「ダイヤモンド」でもお金を生む教育に関する小特集があった。お父さんメディアというと,この手の経済雑誌しか有力なものがないのだろうかと思う。そういえば,テレビで村上龍が「団塊世代男性向けの雑誌が欲しい」なんて言っていた。そういう類はいっぱいあるような気もするが,考えてみると消費行動誘導目的の雑誌ばかり。論壇誌では,たとえば「世界」で特集「教師は何に追いつめられているか」とか,「中央公論」が特集「大学下流化時代」とかを相変わらずの調子で取り上げているけれども,月刊論壇誌も伝えるメディアとしてはだいぶ影響力を落としているらしいことを聞く。
 やはりテレビは,やらせ問題で揺らいでいるとはいえ,伝搬力は依然大きい。クローズアップ現代では「私立大学が変わる」というテーマが放送されたり,昨年11月にも「地域の学校が消えていく?」といった話題を取り上げた。もっとも難点は,この番組がたくさんのテーマを扱ってくれるので,見逃したり,たくさんの主題の中に一つ一つの主題が埋もれてしまうことか。
・いじめ,未履修に続き「給食費滞納」問題
 →22億円分だそうだ。これは誰の責任として問題を扱うのだろうか。問題の扱い方も気になってくる。これから始まる国会は「教育国会」にするらしい。ぜひとも教育予算倍増計画をぶちあげて,実現して欲しいものである。悲しいことにグローバル市場の中に教育を放り込むために一番障害になっているのは「言語」の壁である。この壁さえなければグローバル市場にある安価な教育リソースを自由に使えるはずなのだ。しかし,残念ながらこの国の教師と子ども達がしゃべるのは日本語。その市場の特殊性を考えると,教育コストはもっとかかってしかるべきなのだが,何故か他国に比べて教育予算額は最低ライン。摩訶不思議な国である。
 小学校からの英語教育によって,もし日本の子ども達が英語を第二言語にしてしまえるなら,いずれは英語圏の巨大教育市場の中で提供されるものの恩恵を受けられるだろう。そんなことを夢見ている人も英語教育推進派にはいるのかも知れない。もっとも,そこへ至るまでに必要な条件整備コストを払う苦痛に耐えられるほど,この国の財務関係者は教育分野を大事にしてくれない。国民が自分で払えばいいでしょと,国民が家計から支払う潜在的な教育費の方に繰り込もうとするんだろうな。だとしたら,結局は所得格差が教育機会格差につながっている構造は,未来永劫変わらないって事になる。勝ち逃げ組にとってはそれが一番都合がいいのだから。
・その他
 →帰国してから,まだ日常とうまくシンクロできていない。足が地に着いていない感覚。駄文書いてりゃ戻るかなと思うのだけど,なんかそれも全然ダメで,頭の中が刹那主義になっているみたいだ。それじゃ,パァーッと映画見よう!と思って出かけたが,観た映画が「それでもボクはやってない」…。凄く興味深い映画だったことは事実なのだが,裁判制度の矛盾や関係者の葛藤については話題として聞いたことがあったので,自分の中での(テーマの)目新しさは小さかった。でも司法現場の実情が垣間見られるなど,この映画は何かの機会があれば観ておきたい一本である。問題は,映画のチョイスが悪くて,晴らそうとした気分が,別の意味でどんよりしてしまった…ははは。司法現場もそうだけど,教育現場もひどいことを思い出したりして…。
 焦る気持ちとポワーンと怠けている調子が同居している状態が,なんとも気持ち悪い。リズムを取り戻せるように,あれやこれや試してみるしかない。ゴメンねぇ,気分屋で。

マルチ・タッチの時代

 英国の教育テクノロジー展示ショウ(見本市)BETTについて,その視察内容をぼちぼちまとめようと,持ち帰った資料を紐解いて整理し始めたり,Webで公開された会場レポートビデオを確認しているところ。
 イギリスの教育の流れ(あるいは基本)はPersonalizationである。今回のBETTショウでも,そのような方向性を推進する様々なテクノロジーが展示されていた。個別の学習に役立つ教材・学習コンテンツは当然のことながら至る所で展示されていた。それに負けず劣らず,学校として一人一人の子ども達をしっかり支えるための情報システムに力を入れる企業が目についた。
 管理教育という言葉は,日本の文脈では負の印象で語られる。しかし,時代は「監視」をベースに動いている。皆さんはこの社会の中であらゆる形で監視管理されている。電話番号,銀行口座,定期券,メールアドレス,社員番号など…。
 学校は責任を持って子ども達の学習を管理することが求められ,そのためにICTが活用されるべきであるという発想は,世界の主流である。日本は,話題をずらして,とことんお金を使うつもりがないらしい。おっと,その話はまた別の機会に…。
 会場の至る所,液晶プロジェクタと一緒に「インタラクティブ・ホワイトボード」というものが設置されていた。英国の情報教育環境を語る上でよく引き合いに出される機器である。電子情報ボードとか,アクティブ・ボードとか,スマート・ボードとか,いろんな名前で登場するが,要するに液晶プロジェクタの映像を映すスクリーンそのものがペンタブレットになっているという機器だ。
 現地の学校視察をすれば,ほとんどの教室にプロジェクタと電子情報ボードのセットがあって,ごく普通に授業で活用されている。短時間ながら使ってみると,慣れれば支障はない使い勝手。反応速度は接続しているパソコン次第。大学の講義のつもりで板書をしてみたが,それなりに記録が出来た。
 それを同行して見ていた日本の某大手電器メーカーさんが「子ども達が同時にやってきて,算数の答えみたいなものを板書することはできますか」と尋ねてきた。「う〜ん,今のところパソコンのマウスと同じでフォーカス出来るのは1カ所ですよねぇ」と返事をしてみたが,とてもよい質問だと思った次第である。
 学校視察で見た授業でも,スクリーンの使い方は,教師からの提示がメイン。子ども達が操作する場合でも,一人の子どもが先生に代わって操作するというスタイルである。
 けれども,日本の授業(黒板を使った場合)には,複数の子ども達が前に出てきて,同時に板書をするという場面が結構ある。この同時並行的な板書によって,その後すぐ,板書を比較しながら授業を進めることが出来る。
 けれども情報機器を使うと,この同時並行的な板書や提示が知らぬ間に排除されてしまう。スクリーン画面の狭さという制限ゆえに,そういう使い方を前提しないという形になっているのである。
 ちなみに,日本の悪いところは,そういう仕方のない欠点を導入しない理由に仕立て上げちゃうところなのだ。私のような口の悪い研究者は,文句を言うのが仕事だから,自由度の小さい現状の情報機器を叱咤するけれど,現場実践を担う人々は逆にメリットに注目して,どんどん前向きに情報機器を導入して活用すべきである。そういう役割分担の無理解は,もう少し正していかなくてはならないと思う。これは余談。
 で,BETTに展示されていたものにこの手の同時板書が出来るシステムがあるかを調べてみると,残念ながら電子情報ボード上でマルチ・タッチするものはまだ登場していない。ただし,ワイヤレス・タブレッを組み合わせてコラボレーションする機能を持つソフトウェアはあるようなので,タブレットが複数あって,それを各自操作すれば同時板書は可能かも知れない。
 といわけで,いずれは電子情報ボード自体が複数の電子ペンをサポートして,ソフトウェア的に同時板書を可能にする機能が標準搭載されるはずである。商品がバージョンアップする道を考えれば,そういう方向性しかない。
 マルチタッチといえば,この教育らくがきでも取り上げた「Multi-Touch Interaction Research」という研究プロジェクトが思い出される。そこで紹介された衝撃的なビデオは,パソコンが進化する上で当然避けては通ることの出来ない方向性である。いずれ衝撃どころか,当たり前の操作風景になる。
 そして,それを具現化しようとしているのがApple社だ。BETTに先駆けて行なわれたMacworld Expo基調講演で発表されたiPhoneという新しいスマートフォン(多機能携帯電話)は,ユーザーインターフェイス(UI)として「Multi-touch」が採用されている。
 指先操作というUI自体は珍しくはない。Apple社が凄いのは,UIを生かしたソフトウェアをつくってしまうところである。基調講演ビデオをご覧いただくといいのだが,このiPhoneという携帯電話で写真を扱う際,写真を拡大縮小する操作方法が,まさに上記の研究プロジェクトのビデオで見られるそれそのままなのである。
 このiPhoneのMulti-touchインターフェイスの発表について,研究プロジェクト側も知っているらしく,ページには「Yes, we saw the keynote too! We have some very, very exciting updates coming soon- stay tuned!」(ああ,僕らも基調講演は見たよ!こっちも凄い刺激的な最新情報があるから,待っててね)とリアクションが書いてある。
 Apple社iPhoneが採用したMulti-touchインターフェイスとそのソフトウェア自体は(現時点の情報を見る限り),真のマルチ・タッチではないと思われる。2つの指が触れて,その動きを関知すること自体は現在のパソコンでも可能である。それをソフトウェアとしてどのように具体的な操作や動作に落としていくのか。もしかしたら春前にリリースされるMac OSX 10.5という新しい基本ソフトにおいて,何かしらの未来を見ることが出来るかも知れない。
 いやぁ,だって私たちはすでにWiiなんかで複数同時並行の操作というものに触れている。パソコンなどの情報機器の自由度をゲーム機に近づけることは,もしかしたら緊急の課題じゃないかとさえ思う。

睦月18日目

 帰国後,寝ずにそのまま転移研究会へ。時差ぼけと睡魔に負けながら参加した。これやっぱり年齢のせいかなぁ…。終わり頃になって,時差が追いついたのと眠気も若干薄らいだが,皆さんには大変失礼な状態だったなぁと反省。
 翌日も研究協力の会議。終わって家帰ったら,さっそく眠った。ものすごく眠って,睡眠貯金がしたい気分。しばらくはそういう感じの日々が続きそうだ。それでも本日は,朝起きて,旅行で貯まった洗濯物を一気に片付ける。宿題も一個やった。
 英国から持ち帰った資料も整理したいが,まずは2007年の始まりを仕切り直さないといけない。新年早々飛び出しちゃったから,なんだか混乱気味なのだ。スケジュールも見直さないといけないし,やるべき事がいろいろ出てきたのにリストアップが出来ていないから,はやく整理しなければ…,って思うところに時差ぼけ睡魔が…あぁぁ…,zzzzz。

そして誰もいなくなった ((英国旅行記-11))

 いよいよ英国滞在最終日。帰国の翌日にある研究会のレジュメがまだ形になっていないので入力しなければならないという宿題があり,勉強場所を探してロンドンをさまよう。
 大英図書館に再度足を運んだら,今日が日曜日でお休みだって事を知った。ああ,日本だったら開いていそうなのに…。それに駅のトイレは20pで有料。こんなとき異国の面倒くささを感じる。
 日本にたくさん不満があって,いつも身内の文句ばかりを書き綴っている。けれども,こうして諸外国に出てみると,日本の直しべきところだけでなく,日本の良さも強く感じる。むしろその良さがどんどん失われていくことに危機感を抱くことが多いのか。
 日本国の国籍はあれど,どこか純粋日本人です,と思えない自分がいる。日本の風土が好きだし,それを愛国心というなら,私にも十分あるような気がしている。けれども,私は根無し草みたいな人間。片隅にも住まわせてもらえないなら,どこかへ流れていくしかない。
 正月早々から日本を旅立って英国の地にやってきた。途中,他の研究者の先生方と合流して,学校視察などに同行。一通り仕事が終わると,皆さんは帰国。そして周りに誰もいなくなり,また一人でスタバに長居している。
 浮き足立っている自分が,ますます世界から切り離されて漂い始める。理屈を考えるには都合がいいが,人々と一緒に社会の中で生きていくことを前提として研究をしていくことから遠ざかってしまう。
 そろそろ,この迷子の研究者にも潮時が近づいているのかも知れない。残された時間はたったの2年,あるいは運がよくても5年。その間に自分の満足いくように未来が見通せないなら,違う世界に出かけた方がよいのだろう。諸外国に飛び出るたびにそんな危機感が増す。日本は研究者にとってはますます生きにくい国になっているし…。
 イギリス・ロンドンは素敵な街並を持った場所であった。それを肌で実感できたことは大きな収穫だった。視察した学校の子ども達はそれぞれ魅力的だったし,先生達も日本とはまた異なった専門職意識のうえで誇りを持って仕事をされていたのは,同じ教育に関わる人間として嬉しかったし,羨ましくあった。
 まだまだ観光すべき場所が残っているのだけれど,これで時間切れ。足りない分は,自分の想像力で補うことにしよう。物理的移動による旅行は貴重だし,体験できることも多い。けれども,想像上の空想旅行も素敵なものである。現地の空気や感触は,今回の旅で手に入れた。それを手がかりに想像上のロンドンに旅してみるのもまた楽しい。
 やがて時は流れて,フライトの時間がやってくる。いくつかの忘れ物を残して,この場所を後にしよう。そのとき,誰もいなくなる。

Vistaに待った!

 英国の教育テクノロジー展示ショウBETTも本日で終わりを迎えた。英国における教育での情報活用を牽引している政府機関がBecta(ベクタ:日本語にすると英国教育工学通信協会になるが,どうもピンとこない和名だ…)である。
 そのBectaが「Microsoft Vista and Office 2007: Interim report with recommendations on adoption and deployment」という報告書を出したことが日本でもニュースとして取り上げられた。ITproのweb記事「英国教育工学通信協会,教育機関によるVistaの早期導入に「待った」」である。
 こういった明確な見識を示していく機関が存在することが羨ましい。