投稿者「rin」のアーカイブ

SNSから解かれて

 ブログをかなり放置していたのは,日々が慌ただしいということもあるが,やはりSNSなどのネットツールに依存している状況のためでもあるように思う。人々の関係性の中に身を置くことは,流布する情報に接するのに都合はいいものの,孤独に思索を深めて物を書くにはあまりに他人との距離が近くなりすぎである。

 新年度に入って配属が変わったこともあり,また違った慌ただしい日々を送っている。それで,この機会にSNSの方も付き合い方を切り替えることにして,Facebookのタイムライン表示の設定を変更した。ほとんどの「友達」のフォローをやめることにした。ページやグループのフォローはそのままにしたので,いまのところ表示されるのは記事や宣伝系に絞られて,周りの人々の普通の投稿は出てこない。美味しそうな料理が流れてこないのは寂しいし,周りが注目している出来事を終えなくなるのはもったいない気もするが,グループのやりとりやメッセージは従来通り使うので,それほど問題にもならないだろう。

 昨今の教育界の風景は,現政権になってからの様々な政策推進によって変わってきている。ある意味では懸案事項に躊躇なく取り組み始めたということでもあり,そうした積極的な姿勢には期待も持つ。たとえば高大連携に伴う大学入試の見直しなどは,議論の段階から具体的な取組みの段階へ移行してしかるべき課題であっただけに,この機会をうまく活かしたいところではある。

 しかし一方で,政治主導による強引な取組みに対して警戒も必要になるだろう。たとえば先頃の学習指導要領一部改正における「道徳の教科化」は,「こころのノート」の問題に関して十分な議論による納得がないまま実行された感が強く,丁寧さの欠如に懸念無いとはいえない。

 私が主に関心を抱いている「教育の情報化」は,「ICT活用」という文脈で推進されているところではあるので,その動きが盛り上がること自体は歓迎ではあるものの,これも周辺議論の整理が十分ではないまま,新しい機器の導入そのものが先行してしまう性急さに不安はつきまとう。

 丁寧な議論の積み重ねと論点整理が必要な一方で,政治・世論の関心が高まっていることによる具体的なアクションへの足がかりをどうバランスをとって実のあるものにしていくのか。私たち自身も動向を理解して見通すことが必要になっている。

 何度かのブログ回帰宣言が,また頓挫するのか,今回こそ成功するのかは分からないけれども,なるべく考えを綴っていくようにしたい。

 

 

2014年を想う

 慌ただしいのはいつものこととはいえ,2014年はまた違う感覚でスッと過ぎ去る年になりそうだ。

 フューチャースクール推進事業や学びのイノベーション事業が3月に終わり,ようやくマイペースな日々が戻ってきたかと思われたが,教育と情報の歴史研究や7年ぶりの海外出張,毎週月曜夜のネット上の教育ICT談義などでてんやわんやだった。

===

 1月は「教育と情報の歴史研究会」の催事を計画することから始まった。一人で年表を作る活動から,いろんな方に歴史の重要性を認知してもらうことや個々の履歴を通して歴史を語っていただくことへと活動を前進させるためであった。

 7月の千葉と11月の東京で開催した研究会には30〜40名の参加者に集っていただき,ニューズレターも発行することが出来た。歴史をまとめることや,それを踏まえた「教育と情報」の歴史学や教育学,あるいは社会学といった研究の必要性を再確認することが出来た。これを学会ベースの学術活動にするためにはもっと蓄積が必要だと思うので,私自身は来年以降も地道に資料収集や情報整理を続けていきたい。

 こうした歴史を追いかける活動のおかげで,最後の方には哲学・思想的な議論にも触れることができ,久し振りにイリイチなどの成果を勉強し直す機会を得たのも嬉しい展開であった。

===

 2月は出張で賑やかな月だった。

 宮古島のフューチャースクール推進事業実証校である下地中学校の公開授業参観と講演。沖縄地域に行ってみたかった長年の願いが,この事業の出張で叶った。

 しかし,2013年10月の訪問では台風,2014年2月の訪問では大雪という天候の不運に影響されて,なかなか大変な移動であったのは思い出深い。

 2月の訪問時には経由地である那覇空港での滞在時間を長めに確保して,短時間でも那覇の街へと出歩いてみようと画策していたのであるが,羽田が大雪で大混乱をきたし,その影響で那覇行きの飛行機が大幅遅れとなって,せっかく確保した那覇での滞在時間は吹き飛んでしまった。それでも結局,宮古島には予定通り到着と相成った。

 また,帰りの飛行機の出発までレンタカーで島内をドライブして楽しんでいたのだが,いよいよ空港に向かって帰ろうという段になってガソリンを満タンにしてから乗り捨てるという約束を思い出し,さてガソリンスタンドに寄ろうとしたら意外と無い!空港に一番近いはずのスタンドは工事で休業中。その次を探して走れど走れど見つからない。迫り来る出発時刻に焦りながら,やっと見つけたスタンドで急いで給油して,一心不乱に車を走らせ空港の所定の場所に乗り捨て,荷物を持ってカウンターのでダッシュ。「私を待つ」空港スタッフに「りんです!」と叫んで保安検査場に飛び込んだのも…まあ,いい思い出といえばいい思い出である。  (かつて似たようなことをシアトル空港でやったことがある。あれも大変だった。)

 2月はその他にも東京出張をして賑やかだった。

===

 3月も出張など。

 でもこの頃珍しく倒れていた。メニエール病じゃないかということで,とにかく目が回る感覚になって何も出来ない状態が発生した。

 疲労のせいだとか,ストレスだとか,いろいろ理由はありそうだけれども直接の原因は分からない。個人的に思い当たる節があるのは,ある日,顎が外れそうになったことがあり,それ以来,口の開閉のときに片方の付け根が痛い。まさにそちらの耳が聞え難くなっていたので,それが間接的にも理由じゃないかなぁと思っている。実際,その後,コンビニのパンをもぐもぐ食べている時に頑張って顎の動きを補正してから調子は戻っている。健康は大事だとつくづく思った。

 そんなこんなで,学びのイノベーション事業の会議を傍聴しに行ったり,実家の荷物を整理したりしていた。

===

 4月は教育と情報の歴史研究会のニューズレター発行や大阪市で始まったお仕事関係の出張など。

 大阪市の教育センターは学校教育ICT活用事業に取り組んでいるが,今年度から始まった小中一貫校「むくのき学園」も新たにモデル校に仲間入りすることに。その担当コーディネーターとしてお呼ばれした。

 すでに7校の小中学校が先行してモデル校としての取り組みを始めており,それぞれの学校に担当コーディネーターの先生方と全体を統括するアドバイザーの先生がいる。私はそこにひょっこり加わることになった。

 新しく小中一貫校になるということも大変だというのに,そこにICT活用に関する取り組みが加わるなんて(しかも英語教育に関してもモデル校になるという),そんな大変な取り組みをコーディネーターとして見守ることが出来るのか心配で仕方がなかったが,フタを開けてみれば,とっても順調に小中一貫校の一年目が進んでいるようで,校長先生始め先生方の日頃の努力の素晴らしさに感心している次第。

 頻繁に通えていないことが悔やまれるし申し訳ないが,コーディネーターの立場として何が出来るのか,引き続き考えてお手伝いをしていきたい。

===

 5月や6月も出張の季節。教育とICT関連の展示会が催されていたり,動画教材作成のワークショップの依頼を受けて開催したりした。

 教育ITソリューションEXPOやNew Education Expoは,様々な企業の出展を見て回り情報収集をする良い機会。それから人が集まるのでこの界隈の人々に会うことが出来るのも良いメリットである。なにしろ徳島に住んでいると人と会う機会が少ないので,こんな機会を捉えることも大事になる。

 動画教材ワークショップは,反転授業に注目が集まる中で依頼を受けた。いろいろ準備はしていたはずなのだが,当日はどの方法に焦点化すべきかを決められず,かなりブレながら説明をしたため,実際の操作で躓かせることが多くなってしまった。

 その後,動画教材の作り方の資料を詳しく作って提供する約束をしたのだが,あれやこれやで後手になり,まだ約束を果たせていない。宿題を持ち越すのは恥ずかしいが,タイミングを作って取り組みたい。これはずっと頭をもたげている課題であった。

===

 7月は千葉県柏市で記念すべき「教育と情報の歴史研究会」第1回開催。

 会場確保や様々な準備そしてメインの内容に至るまで何から何まで千葉の西田先生にお世話になりっぱなしで開催となった。期待を寄せてくださった30名の方々が参加。進行を担う私が十分に対応出来ていなかったという反省点はあるものの,こうした歴史をたどる研究会が必要なのだということの確信を得ることができたのは良かった。

 参加者はいずれもこの界隈でご活躍されてきた重鎮や有名な方々で,呼びかけ人の私なんて歴史のこれっぽっちも理解していないのであるが,それでも,いろいろな事柄を引き出して教えてもらえるように,また若い世代にも参加してもらっていろいろ受け継いでもらえるように活動を継続できたらと思う。

 この他に,初めて鳴門教育大学の大学院で集中講義を担当する機会を得た。これも手探りではあったけれども,現職で通われてきた大学院生の皆さんと対話しながら進めることが出来,なんとか3日間のお役目を果たした。

===

 8月は名古屋での集中講義と教員免許状更新講習の担当。

 椙山女学園大学で担当している集中講義「カリキュラム論」も12年目を迎えた。夏だけとはいえ,一番長く雇ってもらっていることになる。鳴門教育大学の集中講義と連続していたこともあり,ちょっと私自身パワー不足であったかもしれない。来年度はもっと内容を見直して改善したいなと思う。

 そして,職場で行なわれている教育免許状更新講習の一コマを担当することになった。これも初めてのことなので,どうしようかと悩ましかったが,とりあえず受講生同士で学んだことのディスカッションなどをしてもらいつつ,これからの教員として在り方や私がかかわっていることに関していろいろお話をした。まあ,これも来年引き受ける場合は見直しをしないと。

===

 9月は学会出張など。ネット上にスナックが開店。

 EDUPUB2014という教育向けEPUB規格の技術ワークショップが日本で開催されるというので参加することにした。私自身は開発の人ではないけれども(趣味の開発はするけれども),注目される標準規格の策定作業を生で目撃したいという気持ちから申し込みんだ。一日中,英語で交わされるやり取りは非常に疲れるものだったが,この規格に関わる人々のスタンスを知ることが出来て大変勉強になった。

 日本教育工学会が岐阜大学で開催されたので,実家を宿して参加した。こちらは第30回大会という節目の大会ということもあり,「課題研究」という活動単位を発展的解消して,新たにSpecial Interest Group(SIG)を立ち上げるといった動きがあった。総じて,前向きな雰囲気に包まれ,徐々に世代交代を経ていくのかなと思わせる大会だった。私は主に「教育の情報化SIG」に参加することにしたが,異なるテーマのSIGに参加することも出来るので機会があればいろいろ出てみたい。

 実は,この月から「スナック・ネル」というネット上の仮想飲み屋が開店し,私は常連客として参加することが始まっていた。

 このゲリラ的な取り組みは,洒落っ気から始めたものではあるが,同時に,とにかく教育とICT界隈の事柄について定期的に対話していく場を作りたかったので始めたものである。  それも建前で終わるのではなく,むしろ誰もが躊躇って言えずにいた本音の部分をオープンに語って,それを契機にどうしたらよいのか出し合っていく空気を作りたかった。多角的な現状認識と批判的検討を経て,未来を探りたいということである。

 たぶん,こういう当り前のことが意外とこの界隈で出来ていない。それはたぶん関係している人たちが固定化していて事情を知り過ぎているから,あらためて多様な角度から現状認識する必要性を感じない上に,批判的検討を加えることが難しいからだろう。  そして,そのことがまた新しい人たちが入ってくる時の障壁にもなっていて,素朴な疑問を問うてはならないように見えたり,もうすでに誰かが批判的検討して現状があるのだろうと勘違いしたり,見えない慣習に阻まれてしまう機会も少なくない。

 何か批判的なことを発言したり記述すると,対象全体を否定していると誤解されやすいが,もちろんそんな単純な話であるはずがない。そのことは誰でも分かっているはずである。だから,私はその先のところで何かを語り合えたらと思う。

 こんな危なっかしい企画が始まって,とうとう年内は18回まで続いた。カウンター席に見立てたGoogleハングアウト・オンエアには毎週ゲストまでやってきてくれる。一昔前では考えられなかったことである。

 いまある道具立てで,正直なところを話し合う。シンプルなことをしただけではあるが,それがつないだご縁はとても力強いものだと思う。

===

 10月は日本教育工学研究協議会が京都であった。

 日本教育工学協会(JAET)には理事として関わっている。私のような人間は肩書き仕事に不向きなのだが,他の団体と比べて学校の先生方の活躍が多いということもあって,それに幾ばくかのお手伝いが出来るのであればと思って理事をお引き受けしたのだった。

 とはいえ,拝命したものの何をしているわけでもなく,研究協議会が開催されれば参加して理事会に出るくらい。しかも今年は仕事を断るまでするから使えない理事である。

 実は,JAETでは今年から「学校情報化認定事業」というものを始めることになった。これまで「学校情報化診断システム」として研究されていたものを土台として立ち上がった取り組みである。

 この事業を手伝って欲しいと依頼されたが,いろいろ考えて今回は遠慮させていただくことにした。なぜなら私がこの事業の背景を十分理解できていないからである。

 とはいえ,事業自体が目指す趣旨は分かるし,そのことを否定する理由もないので一理事として支持しているということになる。

 これについて私の考えていることを書くと長くなるのだが簡単に説明すると…

 もともとこの事業は英国の「ICT Mark」を参考にしたもので,英国の教育情報化推進機関であったBECTA(British Educational Communications and Technology Agency)が各関係機関と連携して作成した学校ICT整備評価枠組み「Self-review framework(SRF)」をもとにつくった認定マークである。(BECTA廃止後,現在はNaace (National Association of Advisors for Computers in Education) が管轄している。)

 JAETの「学校情報化診断システム」から「学校情報化認定」への流れをしてBECTAの事業を参考にしているのがわかる。もちろん診断内容自体は日本独自のものであり,ここが研究成果の肝でもある。つまり,これが学校における取り組みのひとつの理想像を示しているわけだ。

 しかし,英国BECTAの「Self-review framework/ICT Mark」とJAETの「学校情報化診断システム/学校情報化認定マーク」とでは,文脈も位置付けもかなり異なってしまい,日本で英国と同様な効果を期待することは難しいというのが私の考えである。    というのも,BECTAという組織は英国の準独立公共機関であり,日本の独立行政法人のようなものとされている(BECTAはその中でも慈善事業目的の特殊な部類だったようだ)。とにかく,政府機関ではないが国に近い公共機関であった。

 このようにBECTAが,国家政策に関して情報発信をしたり地方の教育局や学校への窓口を担っていた機関であるゆえ,そのBECTAによる評価制度や認定制度となればその影響力は絶大ということになる。

 さて問題は,それを参考にしたJAETがBECTAほどの影響力を持ち得るのかということだ。そして学校を選択する制度の英国に対して,通学する学校が居住地域でほぼ決まる日本の制度の中で学校が独自に認定マークを取得する必然性があるのかどうか。

 JAETの事業がこの点についてどのような見解をもち,対応を考えているのか,残念ながら私の不勉強があって十分理解できなかったのである。それが協力を承諾しなかった理由である。

 あとは黙って推移を見守り,現実がどう展開するのかを理解するしかない。よい方向へ転べばそれが事実として積み重なるし,課題が生まれたならその対応を考えなければならない。いまはもう,そういうフェーズなのだ。うまくいくことを願うしかない。

===

 11月は韓国出張と研究会のはしごであった。

 韓国の旅は実に興味深かった。韓国の情報はネットを経由して得ていた方であるが,実際にその土地に行ってネットから伝わる雰囲気と現実の雰囲気の差異を調整することはとても重要だ。KERISへの訪問も果たせた。またぜひ韓国に訪れたいと思う。

 京都の公開授業,東京での研究会,そして「教育と情報の歴史研究会」と3連続で催し物に参加した。そこでまた多くのスナック・ネル仲間と会うことになり「リアル・ネル」と呼ぶオフラインの会合みたいになってしまった。

 先ほども書いたようにネットの片隅で細々と営むことになるのではないかと思っていたのに,会う人会う人「ネル面白いですね」とか「リアル・ネルだ,リアル・ネルだ」とか口にしてくれる。たしかに3人が実際に揃うのはこの時が初めてであるから,そういう意味では記念すべき機会だった。とはいえ,こんなに多くの方々に広まっていることに正直ビックリしている。そしてPodcast化の覚悟を決めたのだった。

 第2回「教育と情報の歴史研究会」は当初の日程を変更するなど慌ただしかったが,今回も岐阜の芳賀先生にほとんど助けられて東京・お茶の水女子大学附属中学校で開催することが出来た。学校とインターネットの初期の歴史について,また様々なことを語っていただいた。この記録も整理して公開しなければ。

===

 そして,12月は恩師や先輩後輩達との再会。

 名古屋大学大学院の時の恩師である安彦忠彦先生が徳島市に講演出張でいらっしゃるというので連絡をもらうことができた。講演仕事の後ではお疲れだろうから,翌朝空港に送るのを兼ねてお話をすることに。

 安彦先生の近況をお聞きしながら,昨今の教育界の流れなどについてもいろいろお話できた。新しいものと古いものの対比というほど単純なものではないが,いろんな立場から物事を考えなければならないことの重要性を改めて感じた。

 東京大学大学院の時の恩師である山内祐平先生が教授にご昇進されたということで昇任お祝いのパーティーが催されたので東京にお出かけ。山内研究室の歴代院生が勢揃いするという大変珍しい機会となった。

 山内先生を囲んでとにかく賑やかなパーティーとなった。主役であるのに先生はあちらこちらへと慌ただしい。最近はネットで近況が伝わってくるとはいえ,直接会うのは久し振りなので,あちこち会話で盛り上がっていた。最後は先生からのサプライズもあって最初から最後まで楽しく過ごすことが出来た。

 そして先日は,日本教育工学会のSIG-04でつくっている「教育の情報化 整備ガイドライン」の制作ハッカソンがネットで行なわれた。

 Googleハングアウト・オンエアを使って,ガイドラインを共同編集しようという試みである。どこかのスナックの方法に似ているが,まあ,細かいことは気にせず,とにかくリアルタイムに一緒に編集すれば少しは形になるだろうという目論みである。

 幸い,Googleドキュメントでの共同編集は第一歩を踏み出すのに十分な進捗があったようだ。バラバラに編集しても遠慮があって進まないこともあるが,リアルタイムにいろいろ書込んでみるという取り組みはアイデアを絞り出す圧力にはなるようだ。参加者が協力的だったのも大きいとは思う。

 いつもの癖で,周りの議論を見たり聞きながら表にまとめる編集を勝手にしていたら,まあまあ受けも良かったらしく,それもたたき台として採用されそうである。そして後日SIGコアメンバーの打ち合わせがあったらしいが,私に編集長のおはちが回ってくるとかこないとか。乗り掛かった船なので最後まで付き合う予定。

===

 というわけで,振り返ってみたらほぼ毎月出張している。まぁ,悪いことではないとしても落ち着かない一年だったという印象はそのせいかも知れない。

 来年はもう少し閉じ篭もる必要があるかも知れないが,やれることやろうということは変えずに頑張りたい。

海外の旅

 東京暮らしでスッカラカンになって,その後も低空飛行で貧乏暮らしが続き,海外に出かける事がほとんど無かった。何度か仕事で海外視察の声もあったけれど,どれも実現せず,国際シンポジウムでの発表の誘いを受ける形でようやく久し振りの海外だった。

 今回,9年ぶり2度目の韓国。しかし,前回は数日釜山に連れていってもらっただけ。ソウルを始めとした他の都市を訪れるのは初めてなので,ほぼ初めての韓国旅行に近い。実際,韓国一人旅は初めてだ。

 まっさらなパスポートに久し振りの出国スタンプ。

 本当なら韓国語会話の勉強をもっとすべきだったのだが,ハングルの読み方で足踏みをしていたので,基本会話もままならないまま現地を訪問する事になった。まぁ,外国語は度胸と愛嬌,そしてジェスチャーである。

 仁川国際空港に降り立ち,税関審査を抜けて出口に向かうと,外には国際シンポジウムのサインを持った女性が2人。「コタツ・リン先生ですか」と日本語で聞かれ,「はい」と答えた時の安堵感。韓国滞在はそうやって始まった。

 そこからバスでシンポジウム会場であるホテル・リヴィエラのある大田へ。

 前回の海外渡航は,iPhoneもスマートフォンもなく,通話は国際携帯を借り,ネット接続はホテルの回線を期待するしかなかった時代だが,いまやiPhoneはそのまま国際ローミングに対応し,LTEのWiFiルーターも安価に借りられる。バスの中でも地図アプリで現在地を確認でき,滞在中は翻訳アプリで言葉を調べられるのであるから,隔世の感がある。

 語学がハングルで足踏みしていたのは悪い事ばかりでもなく,文字の形には慣れてきたので,見たままをキー入力する事はストレスがなかった。そのため滞在中はiPhoneの韓国語キーボードをONにしたまま,Google翻訳アプリに韓国語を入力しては日本語に直す事を繰り返していた。意味が分かると嬉しいので,それは結構楽しい作業だった。

 ネットには韓国情報が溢れているのだが,日本から韓国へ旅行するにあたって大変参考になったのが「コネスト」という韓国旅行情報サイトであった。

 日本語による韓国旅行関連情報を何から何まで網羅している感があり,地図サービスまで展開しているのは驚いた。それがまた本当に役立つから有り難い。

 LTEルーターやホテルの予約をコネストのサービスで利用したりもした。

 海外渡航するにあたって,インターネットというのは本当に役立つのだなと改めて実感した次第である。もっとも,韓国のネット環境は恵まれているから利便性が高いのであって,もしも他の国であれば,ネット環境が整わずここまで役立つかどうか分からない。

 国際シンポジウム期間中は日本語対応スタッフさんたちのおかげで不安もなく過ごす事ができた。

 初日の夕食だけ自分でとらなければならず,かといってマクドナルドへ行ったら負けだと思ったので,現地の餃子鍋屋さんでほぼジェスチャーと簡単な英語だけで注文しようとしたのは大変だった。こういう時は,あまり好き嫌いがない食嗜好が幸いする。

 とうとうシンポジウムが終わると,鉄道移動しながら一人で韓国国内の旅。大田から大邱,大邱から慶州,慶州からソウルへと訪ねる。

 

  今回訪問した場所を地図にプロットすると,そこそこ移動したのだなと思う。一つ一つの滞在時間は短かったのだけど,アドバイスに従って動き回ったのは楽しい経験となった。最後の方は,言葉のハンデも忘れて,結構滞在が楽しくなった。

 念願のソウルも街歩きを堪能し,恒例の書店めぐりも果たした。7日夜は清渓川での「ソウルピッチョロン祭り」にたまたま遭遇し,8日は市庁前広場の「ソウルブックフェスティバル」の準備風景も眺める事ができた。

 明洞ではAppleプレミアムリセラーであるFrisbeeというお店も発見し,これまた偶然にも以前から気になっていたワープロソフト「Hancom Office ハングル」の最新マック版を見つけ,迷わず購入した。Hancom OfficeはWindows版がメインのソフトウェアだったのだが,昨年末にマック版が登場していたらしい。

 そうやって街歩きばかりしていたら,もう空港へ行かないとまずい時刻。お土産をじっくり探して買う余裕もなく,仁川国際空港行きの列車に乗ってちょうど間に合うくらいの時間に搭乗口にたどり着いた。お土産は空港で慌ただしく購入。そのまま関西国際空港へ飛んだ。

 腹八分の気持ちの良い状態で韓国渡航すべての日程を終えた。

 再度出かけたいという気持ちが生まれたのは良かった証拠である。今度は韓国語会話を少しでも覚えて,もう少しコミュニケーションのある滞在をしてみたい。

 表面的な景色は,韓国も日本もよく似ていた。その似ている部分のおかげで滞在中の振る舞いも困る事が少なかった。しかし,見えない部分の深層では,いろいろ考え方が違うという事もなんとなく垣間見えた。その辺についてもまたいろいろ学べたらと思う。

盆の裏

 
 集中講義と帰省のセットを終えて,本日(8/15)出勤である。徳島は今日まで阿波踊りで賑わっている。
 
 周囲と遊離して動くのは,端から感じの良いことではないかも知れないが,物事に一定の距離を置くことが必要な仕事には都合が良かったりする。今もそんな仕事が舞い込んで,いろいろと作業をしているところだ。
 
 お盆の裏方仕事は,それなりに勉強になる。ああ,こんな風に世間の仕事は回っているのだなと,自分の目で確認できる機会を与えてもらえたことは幸せだ。直接の仕事が終わったら,この経験をシェアできるようにしたい。
 
 そういえば,例の事業で有識者になった経験についても残していかなくてはならない。これは教育と情報の歴史研究の方で具体化したいと考えている。
 
 
 5月下旬から予定が立て込んで,ずーっと自転車操業的な綱渡りの日々を送っていた。先日の集中講義でやっと一段落したが,夏の宿題はまだ幾つも残っている。
 
 積み残しの仕事を片づけつつ,夜は賑わいを覗きに行こうかと思う。

憧れ漂えば

 6月は毎週のごとく東京または大阪へ出張していた。呼ばれたものもあるし,自分で出かけたものもある。どの出張も好んでいたものの,出張準備で日々が自転車操業の様になっていたのは辛かった。

 そんな慌ただしい日々があったせいで,このブログも3月から更新していなかった。幾度となく書こうとして,途中までの下書きがたくさん溜まっていたのだが,公開に至らずお蔵入りが続いたという次第である。この駄文もどうなるかは分かったものではない。

 国の事業に関わっていた副物産として始めることとなった歴史研究会が慌ただしくなり,しばらくはそれを軌道に乗せるための作業で頭も手もいっぱいといったところ。

 コツコツと作成してきた年表も、いろいろ公開手段を模索しながら提供を開始している。最初は珍しいから年表も魅力的に見えるかも知れないが,手に入れば見慣れてしまって急速に関心が薄れるのも想定内のこと。問題は,いかに人々の履歴を引き出して年表づくりに参加してもらうかであり,そのためにもニューズレターや研究会が大事かなと思う。

 そういう研究のプラットフォーム形成は,研究会を開くだけなら勢いでできないことはないけれど,次代に残していくつもりなら地道な作業を通して踏み固めながら続ける以外に王道はない。しかも,これから生み出す身軽な未来を相手にするのではない,酸いも甘いも溜まりに溜まった重たい過去と現在を扱うのだから,それ相応の覚悟が必要だと覚悟しなければ。

 そんな研究の傍らで,とあるアプリのことを考える日々が続いている。Share Anytimeである。

 私の好きなアプリにNote Anytimeというノートアプリがあって,仕事や出張時のメモやノートとして常用している。iPadがメインの場合は、Note Anytimeでアイデアや文章を考えて,適宜ほかのアプリと連携するという使い方である。また、作成した文書の校正作業もPDF化してNote Anytimeに読み込んで行なったりする。

 そのNoteAnytimeの姉妹アプリがShare Anytimeである。

 Note Anytimeはタブレット端末上での手書きノートという課題に本気で取り組んだアプリだったけれども,Share Anytimeはインターネットを介したコラボレーションノートという課題に取り組んでいるアプリだ。

 Note Anytimeを真っ先に小学校の出張授業で活用したことを事例として取り上げていただいたご縁で,MetaMoJi社に訪問したとき,このアプリのプロトタイプを見せていただいたことがあった。50人が同時に書き込む実験を行なった,あのデモ映像を見た時の衝撃は大きく,これを教育の分野で活用する可能性に思いを巡らせた。

 しかし一方で,コラボレーションアプリを教育学習に活かすことの難しさも感じていた。それに関してはりんラボのブログでも書いた。コラボレーションアプリには一定の利用価値があるけれども,よほど上手に場面設定しないと個に返る学習成果には結びつかないことも起こり得る。仕組みや現象としての協働活動自体には,それほど大きな意味はないからだ。

 そして,何よりこの手のアプリで一番難しいところは,利用環境の設定や整備である。

 コラボレーションするためのコラボレーションアプリというものが,そもそも個人を基本とする学習環境でどのように導入されるべきなのか,実際のところしっくり来ていないのである。

 フューチュースクール推進&学びのイノベーションの両事業において,校内ネットワークをベースとした授業支援システムやコラボレーションソフトを利用した授業というものを幾つも見てきたし,それはそれで成り立っているように思う。けれども,私にとっては,そこで協働作業された一切合切のデータがいまどのように保存されたり,再利用されたり,あるいは処分されているのかの方が数万倍重要な研究対象だと思っていて,もしそれが授業支援システムやコラボレーションソフトでなければ見られなかったとしたら,児童生徒はのちのち自分の学習にアクセスするのが大変だと思うのである。

 もちろん,協働学習で生成されたデータなど,学習が終われば(目標が達成されれば)見返すにも値しないものだと見なすのであれば,授業支援システムやコラボレーションソフトに閉じていようが,都合によって破棄されようが問題ではないのかも知れない。しかし,わざわざ入れたシステムやソフトによる結末がそれだとしたら,私にはそのことがよく分からない。だったらデジカメで撮影して残せばと言われたら,もっと分からない。

 だから,Share Anytimeのプロトタイプを見た時,これがNote Anytimeに装備される機能だと思って,可能性を見いだしたのだった。個人が日常的に使うノートアプリが,必要に応じて他者とのコラボレーションにも使え,その成果を自分のノートに残しておける。協働学習の成果を個人に返すことが出来る初めてのアプリが登場すると夢想したからだった。

 コラボレーションを実現するアプリに関する思索は,もう少し前からしていた。

 私が東京暮らしで2度目の大学院生をしていた時,後輩が大学の講義におけるバックチャネルとノートテイキングの学習への可能性について研究していた。ゼミで「協同ノートテイキング」に関して報告と議論をしていた時に,私なりに考えていたデジタルノートのコラボレーションの在り方を発言したことが,私の中で思索を深めるきっかけとなった。

 ちょうどその時期,小学校に出入りしていたので,学校の文書を既存のグループウェアで管理することの難しさについていろいろ考えを巡らせていて,アクセス権限というものを根本的に考え直す必要があるのではないかと思っていた。協同ノートテイキングも,自分の書いたノートを相手とどのように共有するのかという点にアクセス権の考え方の再考が必要だと思ったのだった。

 その時に思い描いたのが,普段は自分のノートなのだけれども,自分のノートの好きな部分を外部に対してオープンにできて,お互いが相手のノートの許された部分を覗き合えて,それを引っ張ってくることも出来るというものだった。あるいは逆に,基本は外部にオープンなノートであり,指定した部分をプライベートにできるという使い方もできるもの。そうすれば,同じ講義を受けているもの同士でノートを共有でき,後輩の研究の文脈でいうバックチャネルも活性化するのではないかと考えていた。

 しかし,それを実現するには技術的な課題も多く,無い物ねだりといった認識で立ち止まっていた。少なくとも,あのプロトタイプを見るまでは。

 遠くない将来に製品化するという言葉を社長さんから聞き,私はのんびり待った。待つのは得意だ。しかし実際には,それほど待つこともなかった。

 やがて登場したのは,コラボレーション機能付きNote Anytimeではなくて,Share Anytimeだった。正直なことを書けば,困惑というか,「う〜ん」という気持ちが先に立った。独立したアプリになるとは思わなかったから。

 いろいろ触らせていただいて,Share AnytimeをNote Anytimeの代替アプリに使えないかと試したりもしていた。けれど最初のバージョンは大好きな万年筆のペン先選択が無い…。代替アプリとしてはまだ成熟を待たねばならなかった。うん,待つのは得意だ。

 何でもかんでも一つに詰め込むのはよくないという考え方も正解だろうし,2つのアプリが連携すればよいだけのことだし,ビジネス的なこともあるだろうから,新しい妹アプリの誕生を素直に喜ぶことにした。

 とにかく,多人数の書き込みがリアルタイムに反映されるシステムというのはインパクトが強かった。それ以上に,場所と時間を超えて情報の差分を届けることができることに感銘を受けた。

 授業で多人数が書き込めればそれで学習が成り立つわけではないが,このアプリの可能性を生かす場面がどこかにあるんじゃないかとも思い,それ以来,あれこれ考え続けているというわけである。

 先日(7/7)にNote AnytimeとShare Anytimeの新バージョンが登場した。

 Share Anytimeはシェアノートの書き込み権限の考え方を一新した。旧版は,フリー会議と限定会議という種類を用意して,シェアノート作成者が種類に応じて権限を設定する方法をとっていて,分かりやすいとは言えなかった。

 新しい方式は,種類を撤廃して,作成者が権限を設定するシンプルな形に変化した。これは重要な改善の一歩だと思う。あとは作成者が権限を設定する方法をどれだけ現実的な状況にあわせて簡便にできるか解決するだけだから。

 それでもShare Anytimeを実際に活用しようとするには「ハードル越え」の必要性が残っている。いざ利用すると決めて環境を整備するような導入方法なら問題はないが,そのための環境を用意するわけでもない私のような教員が授業で軽く使い始めるには超えなければならないハードルがいくつもある。

 これはShare Anytimeに限った話ではない。ほとんどのコラボレーションアプリがこれに失敗しているのである。だからほとんどのコラボレーションアプリは会社やビジネス利用のような大掛かりな事例しかなく,個人が気軽に使っていますという事例を聞かないのだ。

 Share Anytimeは確かに目新しいコラボレーションシステムを売り物にしているけれど,私にとってShare Anytimeの生命線はNote Anytimeの姉妹アプリであるということに他ならない。個人に返るコラボレーションは,個人のノートに返せるシェアノートとの連携なしには実現しないからである。

 この利点は,他のアプリやソフトにはない。だからずっとShare Anytimeの事を考えている。

早寝早起き

 恒例の歳取りがあって,早寝早起き生活をすることにした。あえて無理しなくても歳取れば嫌でも早起きになるのかも知れないが,この3〜4年間のフューチャースクール追っかけ生活が一段落するにあたって,新たなペースを確立しなければならない時期がやってきたとも思うので,積極的に切り替えることにした。

 残業&夜更かし生活に慣れたところを朝型&早朝出勤に変えられるのか怪しいものだが,3月は授業が無いだけに融通を利かせやすく,意外とあっさり切り替えてしまった。

 いままでは夜の暗い環境の中だとゆっくり作業に没頭できると感じて寝ずに起きていたりして,それが終わりのない夜更かしになりやすく睡眠時間を短縮させていたわけでもある。

 けれども,暗い環境で作業するのが好きならば,一日の未明に作業するのも同じこと。

 残業して遅い時間に帰宅する生活も,精神衛生的にも寂しいので,明るいうちに帰るように心がけることにした。

 やってみて大きな変化は,一日が長く感じられるようになったこと。

 朝のドタバタがないので,一日の始まりに落ち着きがある。いままでゴミ出しもドタバタしていると後手に回って家の中に溜まりがちだったが,家事をしてゴミ出ししても出勤に慌てることがない。

 職場もまだ出勤する人も少ないので,残業して人が少ない環境に似ている。むしろ,学生たちが行き来しない分だけ静かなので理想的でさえある。授業が始まってみないとどうなるか分からないが,この調子なら授業の朝準備も慌てずに行なうことができそうだ。

 帰りは,明るいうちに職場を離れるのが若干後ろめたい気分が残るものの,お店が閉まっておらず活気がある頃に帰路につけるのは気分的にも嬉しい。夕食の材料をスーパーに買いに行く際も商品が残っていて選択肢が増える。

 デメリットは,テレビ番組を見てしまうと就寝時間がずれ込んだりすること。しかし,幸いテレビ離れも進んでしまったし,見たい番組は録画すればタイムシフト可能だから,これはやり方次第で解決する。これからは,自宅での作業も含めて,とことん未明や朝にシフトさせていくことがポイントだなと思う。

 また,他人と合わせて動く時には,この早寝早起きは途端に難しくなるのかも知れない。夜仕事を終えてから飲みに行くなんて機会があると,次の朝が辛いかも。まぁ,これも幸い付き合いがほとんどないので日常的には心配なさそう。

 どれだけ早く寝て,いつもの時間の早く起きれるか,ゲーム感覚で自分に課して続けよう。

年度の隙間

 2〜3月は年度末ということもあって慌ただしくもあり,逆に授業が一段落ついたので時間的な柔軟性が増す時期でもある。悪巧みはこういうときに膨らませやすい。

 果たして国の事業に関わっていなかったら出張をこんなに頻繁に出かけていたのか,今となっては分からないが,時間的な融通は東京出張などもし易い。平日に国立国会図書館などで資料探しをすることができるのも,この時期ならではである。

 とはいえ今年は,関東地方が大雪に見舞われて大変な事態になっているので,その渦中に飛び込むかと思うと不安も大きい。なんだかんだと悪天候にあってもギリギリのところですり抜けて逃げ出せることも多いのだが,今回は覚悟が必要かもしれない。

 最近はあれこれ図表化する作業を片手間に進めている。

 情報デザインやインフォグラフィックには関心を持ち続けていたので,そうしたテイストを盛り込めないかと思うのだが,関心があることと出来ることは違うのだというのは当たり前で,やはり絵心って大事だなと思ったりする。

 とにかく論文にしろ書籍にしろ執筆するには収集した情報を整理して見える化しなければならないことは明らかで,そろそろその作業も並行して進めないと時間的にもきついのかなと思っている。まぁ,わりとそういう作業は好きな方なので苦痛ではない。

 さて,いろいろ雑事も多いが頑張ろう。

計算が紡ぎ出す

 長時間稼働させて不調となったRAIDハードディスクを復旧する作業を走らせている。もっともその作業にたどり着く前にハードウェアの不調があり,それを乗り越える試行錯誤もあった。偶然にもハードウェアが復活したので,ファイル修復ソフトを動かして,あとはスキャン作業を待つだけである。もちろん,修復が成功するのかは終わってみないとわからない。

 RAIDハードディスクなのにハードウェアが故障しては本末転倒。しかもRAIDのタイプをデータ保護優先にしなかったために復旧も面倒と泣きっ面に蜂状態だ。次回からはRAIDのタイプを保護優先で使うことにしたい。

 Macには「Data Rescue」という優秀なファイル修復ソフトが存在している(PC版も存在する)が,今回はハードウェア側の試行錯誤があだになって,本領発揮が難しいかもしれない。いずれにしても,高度な計算を繰り返しながら修復可能性のあるファイルを探し出している最中である。最後には,修復が成功しているかどうかを目視で確認しながら修復する。

 SNSに情報やつぶやきを投げ込むことが当たり前になってきて,インターネットを介して閲覧する表現物が多様な形をとるのも珍しくなくなっている。

 ツイッターのタイムラインが各人異なっており,大量のツイートが機械計算によって振り分けられて出力されていくのは,最初の頃には馴染みが薄く理解するのに苦労した。

 Facebookの近況書き込みやコメント,いいね反応なども,さまざまな利用履歴を分析して計算した上で表示結果が算出される。変化に富んでいるといえば聞こえはいいが,落ち着きがないから情報の軽重も定まらないまま押し流されていく。

 ブログも頻繁に更新すると落ち着かないものだが,それでも最終的な表現結果について人間本人が責任を持っているという点では,計算で紡ぎ出されたものより安心かもしれない。

 計算で紡ぎ出すものが非人間的だからダメとかいう話をしたいわけではない。仮にそれが非人間的だとしても,嫌ならば最後に人間が介在すれば済むことであって,時々は自分の直面している事態を引いて眺めてみるのは大事だよねという,いつもの駄文に過ぎない。

 教育の情報化に関する議論は,いつも引いたところで他の選択肢のことを慮って,それぞれの選択を主張すべきだと思うのだが,わりと引き足りない人たちが多くて古めかしい型式の議論に閉じこめられている人が多いように思える。

 デジタルがアナログを駆逐するはずもなく,むしろ思惑とは裏腹にアナログな作業がさらに要求されることを見て見ぬふりしているだけなのだ。その増えるアナログ部分にこそ本当の力を注ぎたいというにもかかわらず,まるで不必要な仕事が増えるかのようなとらえ方しかしてもらえない。

 ある商品を見るとき,その商品を実現たらしめている技術や設計のフレームワーク理解をする。根幹に採用されている仕組みが理解できれば,どれだけ根や葉を気にしているかもわかってくる。

 私たち人間も論理的な行動をとる場合には,判断材料と判断基準があって,それを思考して判断結果としての言動が決定される。もちろん飛躍も人間にはつきものだが,それもおおよそ経験則で捕らえられるものである。計算高い人間がいることはよく知られたことでもある。

 そんなことをぼんやり考えながらファイル修復作業が進行しているグラフを眺めているが,果たして修復されようとしているファイルは正常なものなのだろうか,そもそも修復されようとしているファイルにはどれほどの価値があるというのだろうか。

 実のところ,そのままハードディスクの故障とともに消え去っても良いデータばかりなのかもしれない。計算が紡ぎ出すものの中身は,結局,その程度のものなのだと思ったほうが残りの人生を楽しめるというものだろう。

“有識者”なるものに座ってみて

 2010年にひょんなことから総務省フューチャースクール推進事業に関わることになり,末端の研究者で地域担当ではあったものの「有識者」なる座席につくこととなって3〜4年が経過した。

 始まる直前に書いた駄文には,えらく前のめりなことが書いてあるのだが,結局のところ,その席に座ってみたからといって私はほとんど何も変わらなかったし,何も出来なかったと思う。

 いや,おかげさまで国の事業の仕組みがある程度は勉強できた。

 現実逃避は過去に遡って,年表のようなものを生み出した。

 関係者だとかこつけて,国内のあちこちに出張することもした。

 しばしの間,ちやほやもされた。

 そうやって,なんとなく仕事やっています風の数年が経過し,とりあえず私の仕事は残り数ヶ月で終わろうとしている。一実証校を担当するだけの研究者が騒いだ成果としては悪くないともいえるが,とにかく長かったお祭り騒ぎがようやく一段落するのかと思うと,ちょっとだけホッとする自分もいる。

 担当になった実証校は素晴らしい小学校で,月に一度訪れるか訪れないかといった頻度では,まったく追いつけないほど目まぐるしく変化する学校だった。それは日常的に変化を楽しんでいるというか,いろんな可能性を試してみることに躊躇がないというか,とにかく全国に10校ある実証校の中で最も冒険的な性格を持つ実証校だといえる。

 それというのも,その地域が教育における情報化の対応について早い時期から取り組んでいたという歴史があり,先生方に情報機器の活用に対する一定程度の認識が共有されていたこと,また長年にわたって地域の情報化対応に尽力されてきた先生が実証校に在職されていたことも好影響した。必ずしも全ての先生方がICT機器の活用に長けているわけではないけれども,取り組みを支える環境としては申し分ない条件があらかじめ揃っていた。

 その上,フューチャースクール推進事業では常駐ICT支援員が1名配置され人的な補助も加わることになるのだが,やって来たICT支援員は好奇心と向上心に満ちた類いまれなる才能をもった人物だったことは特筆すべきことのひとつだと思う。

 ICT支援員は,ICT環境のトラブル対応などを前提とした役割で配置されたが,学校に勤務する以上は教職員の一人として学校に加わり,児童達からは(パソコンを主に扱えど)「先生」という存在として関わり始めることになった。その中で,技術的なスキルの向上はもちろんのこと,学校教育における様々な事象についても学ぶこととなり,取り組み当初はハードウェアなどのトラブル対応が主だった仕事も,目立ったトラブルが治まってからは授業づくりに積極的に関わる仕事内容になったことは当然の成り行きだったと思われる。

 斯くして,担当していた実証校は,教育という本筋を押さえながらも,ICT機器のもっている可能性を探るため,あれこれ気軽に使い倒してみる雰囲気が出てきた。先生達同士のざっくばらんなコミュニケーションの中で,冗談のようなアイデアが飛び出した時に,ICT支援員がそれに応えようと本当に実現してしまったりする機会が増える毎に,全員がICTを活用した授業づくりのアイデアを練る楽しさに引き込まれていったことは想像に難くない。

 最後の公開事業研究会の際,実証校から「学びのイノベーション事業は,教師の協働的な学びや授業作りを促した」というまとめが発表されたことは,そのことを指していると思う。

 さて,担当研究者である。

 たまに実証校に顔を出せば,次から次へと興味深い取り組みや変化を聞かされる。それも,ほんの一部なのだろう。最初はできる限り把握するように努めようと思ったが,時間も経たず,そんな努力は無意味なことだと理解した。次にやって来れば,前に聞いた話はガラッと変わっているのだから。

 担当実証校について訳知り顔をすることはできなかった。

 担当者としてプレゼンを求められても,間違っているのではないかと不安ばかりが募った。

 私は何を「有識」しているのだろう。

 次々に会う関係者は数が多くて覚えるのが大変だった。

 話題にされる名前や言葉は耳慣れないものが多すぎた。

 これは一体全体,何をゴールにした事業なのかさえ分からなくなってきた。

 私は旅に出ることにした。

 まずは,省庁で行なわれる研究会や協議会を傍聴しに出かけた。

 雲の上の連中は,一体何を話し,何を見ているのか,確かめたかった。

 けれどそこに何があるというわけではないことが分かった。

 ならば,他の実証校はどうなのか。

 雲の上に何もないなら,全国10校の実証校では何が起こっているのか。

 私の当て所もない実証校巡りの旅が始まった。

 視察という体の良さとは裏腹に,事業にどう関わればよいのかという問いの答えを探すような旅だった。

 それと同時に,過去に遡ることもした。

 歴史を掘り起こそうとは,前々から考えていたが,絶好の機会だった。

 過去から現在に至る道のりを辿れば,関わり方のヒントが見出せるかも知れない。

 知らない名前や言葉も,そうする中で理解できるかも知れない。

 やみくもに古い資料を漁り続け,コピーし続けた。

 旅の途中の様々な出会いは,嬉しい出来事にも繋がった。

 途中,何度も苦い思いを味わった。

 怒りを感じた時も多々あるが,そういう目に遭うのは自分の足りなさのせいでもあった。

 もちろん,いろいろ迷惑もかけた。自由すぎる自分の器の小ささは諦めるしかない。

 そうやって時間を潰してきて,気がつくともうすぐお役御免である。

 教育の情報化対応についてあれこれ蓄積することはできたものの,フューチャースクール推進事業や学びのイノベーション事業において何か自分なりに達成感があるかと問うと,何もできなかったという答えしか思い浮かばない。達成感というよりは,疲労感たっぷりである。

 もっとも,そういう問いは自問自答するものでもないので,他者の評価にゆだねるしかない。

 ところで,旅の成果はあったのか。

 答えらしきものは見つかったのか。

 全国をめぐってぼんやり思ったのは,めぐることに意味があるということだった。

 四国八十八ヶ所めぐりのような境地とはまた別なのだろうけれど,巡り訪れ,相手の話を聞いたり自分のことを話したりする,そのこと自体に意味が生ずるような感触を得たりした。

 研究者はどんなにひっくり返っても外部の存在。ならば,そういう立場で接するという行為自体に儀式的な意味があるのだろう。実用的には役立っていないとしても,巡って訪れる者が居るという世界の中で,私たちは何かに取り組み営んでいる。ただそれだけなのだ。

 でも,私の貯金は底をつきそうなので,それもそろそろ終わらないとね。