計算が紡ぎ出す

 長時間稼働させて不調となったRAIDハードディスクを復旧する作業を走らせている。もっともその作業にたどり着く前にハードウェアの不調があり,それを乗り越える試行錯誤もあった。偶然にもハードウェアが復活したので,ファイル修復ソフトを動かして,あとはスキャン作業を待つだけである。もちろん,修復が成功するのかは終わってみないとわからない。

 RAIDハードディスクなのにハードウェアが故障しては本末転倒。しかもRAIDのタイプをデータ保護優先にしなかったために復旧も面倒と泣きっ面に蜂状態だ。次回からはRAIDのタイプを保護優先で使うことにしたい。

 Macには「Data Rescue」という優秀なファイル修復ソフトが存在している(PC版も存在する)が,今回はハードウェア側の試行錯誤があだになって,本領発揮が難しいかもしれない。いずれにしても,高度な計算を繰り返しながら修復可能性のあるファイルを探し出している最中である。最後には,修復が成功しているかどうかを目視で確認しながら修復する。

 SNSに情報やつぶやきを投げ込むことが当たり前になってきて,インターネットを介して閲覧する表現物が多様な形をとるのも珍しくなくなっている。

 ツイッターのタイムラインが各人異なっており,大量のツイートが機械計算によって振り分けられて出力されていくのは,最初の頃には馴染みが薄く理解するのに苦労した。

 Facebookの近況書き込みやコメント,いいね反応なども,さまざまな利用履歴を分析して計算した上で表示結果が算出される。変化に富んでいるといえば聞こえはいいが,落ち着きがないから情報の軽重も定まらないまま押し流されていく。

 ブログも頻繁に更新すると落ち着かないものだが,それでも最終的な表現結果について人間本人が責任を持っているという点では,計算で紡ぎ出されたものより安心かもしれない。

 計算で紡ぎ出すものが非人間的だからダメとかいう話をしたいわけではない。仮にそれが非人間的だとしても,嫌ならば最後に人間が介在すれば済むことであって,時々は自分の直面している事態を引いて眺めてみるのは大事だよねという,いつもの駄文に過ぎない。

 教育の情報化に関する議論は,いつも引いたところで他の選択肢のことを慮って,それぞれの選択を主張すべきだと思うのだが,わりと引き足りない人たちが多くて古めかしい型式の議論に閉じこめられている人が多いように思える。

 デジタルがアナログを駆逐するはずもなく,むしろ思惑とは裏腹にアナログな作業がさらに要求されることを見て見ぬふりしているだけなのだ。その増えるアナログ部分にこそ本当の力を注ぎたいというにもかかわらず,まるで不必要な仕事が増えるかのようなとらえ方しかしてもらえない。

 ある商品を見るとき,その商品を実現たらしめている技術や設計のフレームワーク理解をする。根幹に採用されている仕組みが理解できれば,どれだけ根や葉を気にしているかもわかってくる。

 私たち人間も論理的な行動をとる場合には,判断材料と判断基準があって,それを思考して判断結果としての言動が決定される。もちろん飛躍も人間にはつきものだが,それもおおよそ経験則で捕らえられるものである。計算高い人間がいることはよく知られたことでもある。

 そんなことをぼんやり考えながらファイル修復作業が進行しているグラフを眺めているが,果たして修復されようとしているファイルは正常なものなのだろうか,そもそも修復されようとしているファイルにはどれほどの価値があるというのだろうか。

 実のところ,そのままハードディスクの故障とともに消え去っても良いデータばかりなのかもしれない。計算が紡ぎ出すものの中身は,結局,その程度のものなのだと思ったほうが残りの人生を楽しめるというものだろう。