授業や研究の仕込みのために文献をひっくり返している。
学校での「学び」あるいは学習というものが,方々で論じられたり語られているのを見るにつけ,「こんなにも学習に関するの知見というものは共有されていなかったのか…」と感じることが多くなった。
これがプロパーな世界に生きている人間のダメなところなのかも知れない。世間からズレてしまった自分の認識や常識を見直し続けるのは,なかなか大変なことなのだと思う。
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ネット上で話題になった記事が幾つかある。
20100203「学校の授業を19世紀(工業化社会)型から21世紀(情報化社会)型に変えてしまうTime To Know」(TechCrunch)
20100430「なぜいま「21世紀型スキル」の教育が必要なのか? – インテルに聞く」(マイコミ)
つい最近もこんな記事が公開された。
20100508「「21世紀型スキル」とは何か」(教育家庭新聞)
こうした記事が書かれ,話題にされているのを見ると,いま求められているスキルの全体像が変わっているとみんなが気にしていて,そのことをある程度認めているか,認める空気があるんじゃないかと感じる。
ただ,どんな前提を下敷きにこうした話題を受容しているのか,一様ではない。
もしかしたら,過去や現在まで進行してきた学校教育は水で洗い流すように消して,空いたところに,何か新しい21世紀型の学習というものが置き換えられなければならないという考えで受け止めているかも知れない。
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今後,私たちの行動や決断のレベルでドラスティックなものを要求される場面がないとは言わないが,これまでの学校教育や学習の在り方を捨て去って転換しなければならないという考え方は,あまり妥当な考えではないと思う。
ところが,専門家同士でさえ,どうも誰かが「新しい学び」だの「21世紀スキル」だの「情報知識社会における新しいツールの導入を」とぶち上げると,「それは現場にそぐわない」とか「ごまかし言葉である」とか「誰かに踊らされてる」とか,拒否反応に近い意見まで飛び出してくる。売り言葉に買い言葉は,正直うんざりだ。
今までやって来たことを足場に,新しい流れが生まれたならきっちりフォローしていくこと。
この単純なことが,いままでの学校教育で出来ていなかったのであれば,それを素直に反省し,責め立てずに新しい道を一緒に模索していけばよいことである。どうも,そのことが私たちに一番欠けているようだ。
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学習のメタファー(学習の喩え)に関するとても有名な論文がある。
Sfard, A. (1998). On the two metaphors for learning and the danger of choosing one. Educational Researcher, 27(2), 4-13.
英語論文(ちなみにヘブライ語版もあるそうな)ではあるが,学習に関して大きく2つメタファーがあることを整理した部分は,あちこちでも紹介されている。「獲得メタファー」と「参加メタファー」の2つである。
ただ,Sfard女史が論ずる重要な主張は,こうしたメタファー(喩え)による学習の捉え方だと対立構図(獲得メタファーよりも参加メタファーの方が良さそうだったりする)に陥りやすいけど,何か一通りのメタファーを選んで全体を捉えるようなことは危険だから止めましょうということである。
この論文は,教育や学習を論じたり語ったりすることは大概の人間に出来る事ではあるが,論じたり語ろうとする自身の言葉に対して,どう向き合ったり,距離を置いたり,紡ぎ直したりするのか,その態度や作法について個々人が自覚的でなければならないことを示唆しているように私には思われるのである。
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ただ,日本の場合,一度作り出された世論のうねりのようなものは恐ろしい。
特に感情や感覚をベースにしたものは,どこか一方的に特定の見方をかき消してしまう力を持ってしまう。
そうなると,どうしても戦闘姿勢に陥ってしまうのも無理はないのかも知れない。
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本当は,平成20年度学習指導要領を検討していた教育課程部会の審議まとめの話や,構成主義の学習論についても書こうかと思ったのだけれど,相変わらず時間切れ。
そうやって没になったブログのエントリーがたくさんある。
ああ,やっぱり歳をとればとるほど,使える時間が短くなるようだ。
さて,続きは授業で語るとしよう…。