月別アーカイブ: 2009年4月

教育情報誌『BERD』終刊

 その存在はあまり知られて無かったのかも知れないが,教育情報誌としては内容も体裁も高い水準を目指して頑張っていた『BERD』がこの3月の16号をもって刊行を終えることになっていた。引越し前の住所から最終号が転送されてきて,ようやく知った。

 教育情報誌というのもいろいろあるが,『BERD』は研究者向けという扱いで発刊されていた。確かに調査・学術研究の成果を掲載することが主だったので,読者も研究者かそういった次元の情報を望む人々におのずと限られていたところはある。

 しかし,実際にはもっと多くの人たちが目を通すべき雑誌だった。そもそも一般マスコミの流す教育情報は,安易なステレオタイプにもとづく論考か,パーセンテージだけ見てインパクトのある調査データの紹介で終わり,教育を深く考えるための材料を提示しているものは少ない。その点,『BERD』は,研究者らの研究成果を的確さを失わず読みやすく伝えていた,数少ない良心的な教育情報誌だった。

 情報を伝達するための努力は特筆すべきものがあった。一つには,インターネット上に最新号のみならず,すべてのバックナンバーを公開しているという点。二つ目は,その紙面作りの質の高さである。

 『BERD』はすべての論文や記事をPDFファイルとしてインターネット上に公開している。つまり無償で内容を見ることが出来るのである。そして申し込むことによって,印刷されたものを毎号送ってもらうことも出来た。
 そのフルカラー印刷された紙媒体も質の高いものであり,本来であれば1000円程度の値段が付いてもおかしくないものだった。たぶん,それでも足りないと思う。

 さらに『BERD』の紙面は,レイアウトとグラフィックに力を入れており,論文には必ず表やグラフなどの図版や執筆者のポートレート写真が掲載されていた。

 研究成果において黒子ともいえる研究者自身を前面に出し,ポートレート写真を掲載するということは,一見すると無駄にも思えるかも知れない。しかし,発信者の姿をしっかりと映し出すことによって,研究成果の伝達に強さや勢いを持たせることが可能になる。そのために,ちゃんとプロのカメラマンに撮影をさせていたと聞いている。研究者が一番格好良く写真に収められている雑誌はどれかと問われれば,それは『BERD』だったと断言してもいい。

 この2点が,何を意味しているかというと,編集者が内容面だけでなく,読んでもらうための雑誌を作るという点においても努力を怠っていなかったということ。それを「研究者向け」雑誌でちゃんとやっていたことが素晴らしかったと考える。

 もっと多くの人に,この雑誌が読まれることをずっと願っていたが,残念ながら終刊とのこと。とにかく,関係者の皆様,大変お疲れ様でした。雑誌は終われど,そのコンセプトは立派だったし,また復活すべきと思う。

 追記20090419:『BERD』創刊時のニュースリリース。創刊に至るための背景事情はいまだ変わらず,必要性はますます増大している。この雑誌を支える土壌や文化をつくれていない私たちの体たらくを厳しく反省すべきだろう。

リキッドな私

 新しい職場も第3週目が終わろうとしているところ。一週間が過ぎるのは速い。授業のための作業や校務もそうだが,引っ越して仕事に就いたことを知人の皆さんにご報告することも後手に回っている。いま名刺をパソコンの読み込ませたり,年賀状を整理し始めているが,それだけでも時間がかかって仕方ない…。

 『現代思想』4月号恒例の教育特集に,松下良平氏の「リキッド・モダンな消費社会における教育の迷走」という論考があった。そこで扱われている社会学者のジグムント・バウマン氏の著書(『リキッド・モダニティ』等)が気になったのであれこれ取り寄せたのだが読めていない。そういえば書店で『コミュニティ』という本が並んでいたなぁ,そっちも読みたかったのに。

 流転漂流するのに慣れた私にしてみると,リキッド・ライフ(液体的・流動的な生活)と改めて言われて,そのような生き方があまり望ましくないと指摘されると,ちょっとハッとする感じになる。

 普通は,就職したら,嫁さん見つけて,家でも建てて,落ち着いた生活や人生を送るのが健全なのかも知れない。実際,そういう近代の側に立つバウマン氏は,一連の著書でリキッドな社会や生活を批判している。

 でも,携帯電話やそれに類する道具が普及して,ユビキタスな環境が現実化する今日において,社会はリキッドたることをけしかけてくる。それも消費という誘惑を使ったり,雇用という条件をちらつかせたりして。

 都会と地方都市では,その影響の大きさがだいぶ違うのかなとも思う。結局,物事がつながっているので,まったく影響がないわけではないが,やはり地方は土着の共同体風土がリキッドになりにくい要素として残っているのではないだろうか。

 共同体やムラ社会,日本人の意識みたいなところは,山岸俊男氏の社会心理学のお話をもうちょっと丁寧におさらいをしないと…。ああ,でもあれこれやってからだな。

子どものICT利用実態調査[速報]

 ベネッセコーポレーションの調査機関であるBenesse教育研究開発センターでは,様々な調査研究を行なっており,その成果を広く公開している。(Benesse教育研究開発センター > 調査・研究データ

 この度,「子どものICT利用実態調査」の結果がまとめられ,速報版として公開された。4月14日には記者発表会も行なわれ,調査と結果に関する説明が披露された。

 文部科学省の携帯電話等に関する調査の速報が2月に発表されたが,あちらは文部行政のための基礎資料を得ることを目的とした網羅的力技的な全国調査。

 一方,ベネッセが行なった「子どものICT利用実態調査」は,対象とする子どもたちを人口規模や密度を考慮して有意に抽出した調査となっており,なるべく子どもたちの目線に近づくことを特徴とした調査である。

 たとえばINTERNET Watchの記事などで,記者発表会と調査の概要が紹介されている。
 (追記:さらに翌日には追加のWeb記事が掲載された。この調査に一番興味深い部分の紹介である。)

 Benesse教育研究開発センターのサイトにある「速報版」を最後までご覧いただければ,何やら気がつかれると思うが,私も調査・分析のメンバーに加えていただき,ご一緒にお仕事をさせていただいた。

 この種の調査は,似たようなものが多いので,新たに取り組むにあたって何を大事にすべきか,えらく悩んで考え続けていた。独自性を持たせるというのは,言うのは簡単だが,奇をてらっても使える調査データになるとはいえない。かといって,単純な実態調査では,文部科学省の調査みたいな網羅的力技的な調査が存在するところで意義が見出しにくい。

 そんな風に相変わらずうんうん悩んでいる私をぶら下げながら,調査企画チームの皆さんのご努力によって調査が進られ,子どもたちの目線から見えるものをわりと素直に反映した調査成果を出すに至ったわけである。それはとても良かったと思う。

 来月には,調査・分析メンバーによる原稿を含んだ調査報告書が刊行される予定。私が何を書いたのかは,またそれが公開されてからご紹介するとして,その原稿の続き(?)も書いてみたいと思う。

【教師が研究を志す日】00

 今回から,現場教師の皆さんが研究を志すことになる際に知っておきたいこと,考えておきたいことを書いてみようと思います。長期シリーズとして続けていきますので,どうぞよろしくお願いします。

 私は長らく,このようなテーマで駄文書きすることを躊躇っていました。実際には,学問や研究について沢山述べてきたにもかかわらずです。

 理由は簡単。私にその資格や力量があるとは思えなかったからです。

 実際に,現場教師として研究に携わっている先達がいらっしゃるし,大御所の研究者となって活躍している方々もいらっしゃる。私よりも現場教師と密接に関わっている研究者先輩もいらっしゃる。その方々を差し置いて,私が研究の何たるかを書くことは,以前の私には出来ませんでした。

 しかしここ数年,自分なりの問題意識で分野を越えた領域を学び直してきて,見えてきたこと,逆に見えなくなりそうな事柄が分かってきました。

 もちろん,研究というもののすべてを知ったわけではなく,どこまでも私の偏った見方なのでしょう。それでも,いまなら先達とは違うことが書けて,自由に刃も向けられるだろう(半分冗談)。ご恩を返すとするならば,ズレたところの考える素材を提供することだろうと思ったわけです(論文書けってのは別にするとして…)。

 現場の教師は,たくさんの研究活動をしています。授業研究,教材研究などの実践研究です。そして今日では,専門性を高めるために学術研究との連携が重視されています。

 教員養成系の大学院,教職大学院はもとより,研究者を伴った民間の自主研究活動といった場が増え,現場の教師にとって「研究」という行為がどんどん高度化しているのです。

 実践研究と学術研究では,似ている部分もありますが,異なっている部分もたくさんあります。そのため,実践研究から学術研究へ手を出し始めたときに,あるところまではついていけるけれど,あるところから急に苦しくなる事態に直面します。

 苦しみながら進んで慣れていくのも一つの手ですが,根底にある考え方の違いを理解すると,もっと可能性が開けていくはずです。現場で活躍している教師の皆さんが,根底にある考え方の違いを理解すれば,それを土台に,職業研究者よりも素晴らしい教育研究を展開することが出来ると信じます。

 最終的に,私が如何に役立たずの教育研究者なのかが浮き彫りになり,お読みになった現場の先生方が研究を志す敷居を下げることが出来たなら,試みは成功です。

 さあ,それでは拙いシリーズを始めることにしましょう。

memo20090412

・「幕張インターナショナルスクール」(千葉市美浜区)開校
 →正式な義務教育小学校として初のインターナショナルスクール(K-12)。他の小学校と同等に卒業したとみなされる。

・首相,「経済危機対策」発表[4月10日]
 →文教関係にも予算。経済産業と結びつけた「スクールニューディール構想」および先端技術開発・人材力強化のための教育研究投資を中心に。現場には朗報,教育学にとっては困惑な展開。平成21年度第1次補正予算として提出予定。

現在位置 [再スタート宣言]

 「教育らくがき」という教育関連の駄文サイトは,かれこれ13年間の長きにわたって続いてきた。中断も一時的改名もあったが,教育という世界から逃れられない「私」の言葉のやりくりを書き綴る営みは,まだまだ続きそうである。

 教育らくがきは,教育にまつわる事柄について考えることを目的としたサイトとなっている。そのため,思考や議論に対して様々な刺激を加えるための言葉が並ぶ。ここでは,それを「駄文」と称している。

 教育について考えるきっかけをつくろうという純粋な目的のために書かれる文章を「駄文」と称するのには理由がある。一つ目は,書き表された文章の出来が文字通り稚拙であること。二つ目は,書き手である私の見識の低さを棚に上げて書かれる文章であること。三つ目は,教育の議論が前進したなら捨て去るべき文章であるのを願っているためである。

 思考の刺激となるために,基本的には「批判的」な姿勢をとる駄文が多く書かれる。書かれるものだけ取り出せば,この人は何に対しても文句や不満がある人なのだなということになろうし,認識の甘さや見識の低さを読み取ることも可能である。

 教育らくがきに対して(また書き手である私に対して),どのような評価が下されようとも一向に構わないのであるが,それが,思考を停止させることや,議論を前進させないことの理由にはならないと考えるし,むしろ建設的な議論へと結びつけていくことの方が大事だと考えている。私自身は吹けば飛ぶような存在だが,議論すべき問題自体はそうもいかないのである。

 これが,教育らくがきが長らくとってきたスタンスであり,どちらかといえばある種の距離感を保ちながら私自身の日常を通して教育や社会の現実を考え,その思索を切り取って書き綴ってきたわけである。
 あまり万人受けしないのは,どこかしら好戦的で堅苦しい雰囲気があったことと,丁寧な文脈説明を抜きにして思索を書き連ねた長文が多かったためだろう。たとえば,いま書いているこの文章がまさにそれである。

 教育らくがきを再開するにあたって,基本的なスタンスを変えようとは考えていない。しかしながら,もう少しオープンであろうとは思っている。たとえば,もう少し分かりやすく丁寧な解説を書くとか,短く読みやすい小出しの文章を書くとかなど,工夫の仕方はいろいろあるだろう。

 私自身の七転八倒な日々はまた別の場所で展開するとして,ここでは,新生・教育らくがきのスタートである。