月別アーカイブ: 2005年6月

文献屋さんの身体性

 古巣の大学図書館に出掛けた。ジャーナル(論文雑誌)の中身を読みたいと思ったからだ。久し振りに利用したので,館内のパソコン環境などが変化していた。自動貸出機なるものまで登場している。蔵書検索端末を操作して目的の論文を探すが,肝心の雑誌は教育学部の図書分室に保管されていて,土曜日に閲覧が出来ない。
 ただ,目的のジャーナルは「電子ジャーナル」も発行していて,端末上でPDFとして読むことが出来る。大学図書館は購読契約しているから,館内なら無料で見られるというわけだ。読めないと話にならないので,PDFファイルを表示させて,画面上で眺めていた。
 しかし,不慣れな英文の電子ジャーナルを画面で読み続けると疲れる。単語がわからないと,自分のパソコンなら辞書ソフトで即座に調べられるのに,図書館のパソコンにはそれがない。学外への持ち出しはおそらく禁じているだろうから,家でゆっくりというわけにもいかない。慣れない状態で読んでいたら,閉館時間がやってきて,目の前のパソコンが自動終了。ええええ‥‥。

 文献屋は本を読めばいいと思われているかも知れないが,実は身体を使わないとダメなのである。ダメという意味は,「歩かないと図書館に行けない」とか「夜遅くまで読書する体力」とか,そういう皮肉っぽいものではない。まあ,もちろん移動も体力も必要だが,文献屋は本という物理的実体との格闘に関わる身体的な行為のすべてを駆使することによって,まともな思考が働く。
 パソコン上で調べものをして,そのままワープロ・ウィンドウにコピー&ペーストして加工するような作業は,成果の量産には好都合なのかも知れないが,思索には役立たない。だから私は,図書館にパソコンを持ち込まない。大学ノートとペンを持参して,ひたすら書き写したり,メモるようにしている。もちろん,その後パソコンに入力する場合は二度手間になるが,二度目の手間にも思考の俎上に乗せることが出来るため,より注意深く情報に当たれるのである。二度目にミスが入り込む余地と比べても,総じて見れば繰り返し思考できることのメリットの方が大きい。
 もちろん,これは一人きりで仕事をこなそうとする寂しい文献屋の古くさくて非効率的なスタイルだし,私個人のスタイルなので,万人に通用するものではない。昨今は,共同研究を通して互いに思考を切磋琢磨し合うようになってきたし,効率的な研究成果の創造が求められているため,こういうスタイルは嘲笑か非難の対象にさえなりつつあることは了解している。

 それでも,私は皆さんにノートとペンを手に取っていただき,思索の時間を過ごしながらメモをとることをおすすめしたい。ときに文献資料を漁って,頁と頁の間を行き来する動作をまじえ,膨大な情報を削ぎ落としたり,凝縮する作業に挑むことになるだろう。そこに私たちの身体性が関わっているのであれば,それがある種のバランサーの役目を果たすのだと思う。

教員を取り巻く現状への理解を

 最近は他の人たちの教育関連ブログを楽しんでばかりで,自分の駄文書きが滞っていることをちょっと反省。ただ,いよいよ「教育らくがき」終焉の時代が来たのかも知れず,このままフェードアウトするがいいのかも知れない。

 「YOの戯れ言」さんの「専門職大学院構想(また意味のない形の提案)」エントリー(投稿記事)を見た。読売新聞の記事を紹介されているので,私も読んだ。

教師力向上へ、専門大学院
[解説]中教審の議論迷走
 教職専門職大学院についての記事と,義務教育費国庫負担金問題に関する記事で,どちらも6月7日付けの記事。

 教職専門職大学院については,私も「教職専門職大学院」と「アン・リーバーマン女史」のエントリーで駄文を書いたが,そういう懸念はまったく閑却されて構想がまとめられたようだ。
 佐藤学氏が『論座』2005年2月号と『現代思想』2005年4月号に寄せた論考で,教職専門職大学院を導入しようとする進行中の議論に対して特大の危機を表明したにもかかわらず,なんら対論を示さないまま「相変わらずの調子」で進んでいる。

 義務教育国庫負担金の問題に関しても,記事では「「財政再建に迫られる国の負担金制度と、改革が必要な地方交付税制度のどちらが安定的か」という水掛け論になる可能性もある」として,いかにも悩ましいジレンマがあるように表現している。
 しかし,「e-Japan戦略」における「教育の情報化」に関して,地方は明らかに国策を理解できないまま,せっかくの予算措置を不意にしている現実がここ数年続いている。とうとう最後の2005年度になって,教育分野だけは達成度が著しく低いという体たらく状態から,いかに駆け込みで達成率を上げるかという情けない議論が展開しているのである。
 これだけ取り上げても,ごまんとある地方自治体の基礎体力がそれぞれバラバラで,「信用して任せてくれよ」という言葉を信じられるところと信じられないところがあることは明白。それなのに議論に決着を付けられないのは,みんな面子で仕事しているからである。退場世代は,ここまできてもまだ次代に禍根を残そうというのだろうか。

 現実には,退場世代が本当に退場する時がやってきたとき,教員の人手不足は深刻で,さらには教員給与にかかる総額も退職金のおかげで右肩上がりの膨大なものとなる。「人がいないから人を雇いたいけど,人を雇うためのお金が足りないから,どうしよう‥‥」という時代が来る。そんなときに,教職専門職大学院という新たな教員養成コストがかかる機関をつくり,さらにそこを出て現場で活躍する人たちには無い袖を振って給与を優遇しましょう,と中教審のワーキング・グループの人たちは言っているのである。
 幼稚園児でも「おかしい」とわかる理屈を,有識者たちがまとめているのである。こういう大人の恥になるような,つまり,子どもたちに示しのつかない非教育的な活動を,どうか止めていただきたい。

 このZAKZAKの記事は,地方公務員法で禁止されていたアルバイトを「した」という悪気がある出来事だったのか,あるいは「させてしまった」という教育現場の仕方のない現状での出来事として考えるべきなのか。真実はどちらだと思われるだろうか。
 新幹線の車内誌でもある『WEDGE』2005年6月号の記事「進む教員の高齢化/教育現場は疲れ果てている」は,教員を取り巻く現状についてコンパクトにまとめている。記事の最後を結ぶ文章は,「教員は「聖職」ではあるが,学校は「聖域」ではない時代に入ったようだ」となっている。なかなかうまいが,聖域ではない場所に聖職者が宿り続けることもないし,教職は聖職だが,教員一人一人は生身の人間だ。だから高齢化の問題を議論しているのだろう。

 そうそう,もう一つだけ。夜回り先生・水谷修氏について,水谷氏の存在をどう捉えるのが一番いいのか,いろいろ考えていたが,すでに明快な答えを出していた論者がいた。諏訪哲二氏は『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ/740円+税)で,はっきりと「夜回り先生は「教師」ではない」と明言してくれていた。その考えの真意は,本を読んで確認して欲しい。

 教員を取り巻く現状を踏まえようとする努力を怠ってはいけないと思う。

デジャヴ

 地下鉄とバスで通勤をしていると,いろいろな人たちとすれ違う。何の因果か女子学生ばかりいる職場環境に身を置いているため,他の世代や業種等の人たちと接触する機会は,通勤途中くらい。ぼんやりと眺めながら,あれこれ想像をめぐらしてみたりする。
 同期とか,同僚とか,そういうものの存在があったとしたら,もう少し楽に生きていくことが出来るのだろうか。時々そんな風に思うことがある。男同士が仕事や趣味について会話している様子を見ると,羨ましく思う。同期の男女の同僚が仲良くおしゃべりする様子を見ると,和気あいあいとした職場の様子を思い描いてみたりする。上司がいて,部下がいて,厳しいながらも組織として仕事をする人たちの共同体について,あれこれ想像をめぐらしてみるのだ。
 ただ僕は,事務仕事が得意なタイプではないので,会社員として仕事をするのは向かないだろう。羨ましい反面,自分のペースで仕事をさせてもらえることに感謝もしている。もっとも最近ではあまり許されなくなったけれども‥‥。
 男女の同期や同世代が一緒に仕事をするような職業に就いていたら,出会いも広がって,今頃は結婚して家庭でも持っていたのだろうかと空想してみることもある。職場には同期も同世代もいないし,異性に対する関係距離の徹底確保は職業病にも近いから,たまにそんなことを考えてしまうのだ。
 地下鉄に乗る。自分とは向かいの座席に,若い女性が座った。キレイな人だなとか,着ている洋服のセンスがいいなとかの感想を持つのはごく自然なこと。ただ,どこかで見たことがあるという既視感が次にやってくる。いつも乗り合わせているのだろうか。記憶をたどりながら行き着くところは,教え子のひとりに似ているんだという結論。その教え子自身?いや違う。目元はそっくりだけど,背丈が違うとか。そもそも私の生活圏に教え子が紛れ込むのはまれ。
 それがたまの一度や二度なら微笑ましい既視感である。似ている人がいるもんだなぁで笑って済ますところだ。しかし,これがいろんな人に対して起こるから厄介である。年齢も問わない。あの教え子が歳をとるとこんな感じのおばさんになるのかなとか。この女の子は大きくなったら,誰かみたいになるのかなとか。誰も彼もに既視感を抱いてしまうのである。
 こういうのは不幸ではないとしても,幸の薄い日常のような気がする。つまり,ある種の緊張状態が持続しているからだ。そして幻想を抱ける余裕もない。既視感が連れてくる記憶の方が先に立ってしまうためだ。
 今日見た人は,昔好きだった女性に似ていた。あれから彼女はどうしているだろうか。僕がもっと寛容で隙間をそのままに付き合える性格の人間だったなら,別の道筋もあったのかも知れない。ただ,そんなことをぼんやりと考えてみても,結局は,自分がそんな風にはなり得ない,別の道筋を選ぶわけもないという事実の発見にも行き着く。望むべくして今を歩んでいるのだと思う。
 既視感はいろんなエピソードを脳裏に連れてくる。それが忘却のかなたに消えていくまでは。

デジタル万引き

 J-フォン(現ボーダフォン)が2000年末に初めてデジタルカメラ付きケータイを発売してから5年も経過していないが,巷にあふれるケータイのほとんどがカメラ付きとなり,写メールやムービーメールがやりとりされ,テレビ電話さえも馴染みになりつつある。これは大学生が,入学してから卒業して就職先に慣れた時間に等しいが,変化というものはそういうものなのだろう。

 ケータイにデジカメがついていると,いつでも気軽に撮影ができる。無類のカメラ好きである日本人にとっては,使い捨てカメラ以来の大ヒット機能というわけだが,あっちで「パシャ〜」こっちで「パシャ〜」とみんなが片腕突き出して撮影している様子は,使い捨て時代よりマシとはいえ,あまりエレガントではない。
 そして,どこでもカメラの使い方を誤ることで引き起こされるのは,盗撮画像漏洩やデジタル万引きといった行為(※盗撮はプライバシー侵害になるが,デジタル万引きは私的利用に限って犯罪行為とはならないようだ)である。一応,そのような行為がし難いように「パシャ〜」とシャッター音が強制的に出るようになっているのだが,騒がしく混雑した街中では,たとえ聞こえてもどうしようもない現実がある。

 書店で立読みをしながら,片手でケータイを取り出して一押し「パシャ〜」とやれば,簡単に内容を記録して持ち去ることができる。もちろんこれまでも暗記したり,紙にメモ書きして写す行為はあった。矢野直明は,これらとの違いをデジタル情報として制約のないサイバー空間と繋がっている点にあると指摘する。要するに複写された情報が漏洩し流布されることによって想像以上の損害を引き起こす可能性がある点で,大きく問題視されるわけである。

 そして,つい先日,書店で本を漁っていたら,デジタル万引きの現場に遭遇してしまった。

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文献貧乏

 学会発表や研究会参加など,今年度に入ってから思い出したかのようにあれこれ研究活動の再起動をかけている。少々乱暴な振る舞いなのかも知れないが,そうでなければずるずると堕ちていくことになりかねない。なにより,新たな勉学の刺激は本来心地いいものである。その感覚を思い出すためにも立ち回らなければ。
 新しいことを勉強するには,それなりの出費も覚悟しなければならない。ここ数ヶ月は,手当たり次第に書籍を買い込んでいる。そのために家計は火の車。夏のボーナスでチャラになるのをひたすら待つ状態だ。扶養家族がいないのは唯一の救いか。
 ところで研究者には,研究費なるものがどこからか支給されるとお聞き及びの方々もいると思う。確かにそういうものが支給されるのであるが,ほとんど多くの場合,雀の涙のような金額で,1回出張に出掛けたりするだけで使い果たすという研究者も多い。そこで力のある研究者は,外部の機関が提供している研究補助金を獲得することで賄うのである。
 私は,所属している職場からいくらか研究費を支給してもらえる環境にある。その点では幸せなのだが,実は,購入する文献はほとんど自腹で購入していて,研究費を使っていない。いろいろ事情はあるのだが,文献資料を手元に置いて有効活用するためには,自らの所有物にするのが一番シンプルなのである。自分の行動範囲に適当な図書館施設がない場合は,特にそうだ。
 文献貧乏の日々。それでも積まれている書籍から受ける知的刺激は何物にも代え難い。そのような恒常的な知的刺激によって醸成したとき,様々な発想がもたらされる。でもお腹空いた,夕飯つくろう。