311後の学術活動

 日本教育工学会に出席したことに関してはりんラボ・ブログに書いた。

 あのような文章を表ページとも言えるりんラボ・ブログに書くのは珍しいが、もちろん、もっとディープなお話があるからこそ、である。

 「国際重視・国内軽視」というのは極端な表現なので、そんなことを考えている人はいない!とお叱りを受けるかも知れない。しかし、そのように受け止められる余地がある以上は、あながち間違いな表現でもないと思われる。

 そこで、否応なく連想したり重ね合わせてしまうのが、311(東日本大震災と原発事故)以後の出来事である。

 特に原発事故に関係する情報の一部は、国内重視・国内軽視の姿勢に則って流れていたのではないかと思わざるを得ない。

 国際社会や機関に対しては情報を提出しなければならないのでルール上出すが、国内社会や関係者に対しては何かしらの理由をつけて情報を隠蔽していたことは周知の事実である。

 もっとも、こうした現実は、国際重視・国内軽視が理由とは言えないかも知れない。全く逆に「国際軽視・国内重視」だからこそ、海外にはホイホイ情報を出すが、国内には危機管理やパニック回避の理由から情報公開を渋ったと説明することも成り立つ。

 結局、私が言いたいのは、方輪走行の滑稽さなのだ。

 そして、積極的に情報公開を行ない、共有した情報をもとに議論を展開することの方を私は好むということである。

 もし無差別的な人々による議論の拡散やあらぬ誤解によって間違った展開をすることを懸念しているというのなら、それこそ学術研究共同体が責任を持って情報掌握と議論を代理していくことこそ大事だろう。その場合でも私自身は広く情報公開されるべきと思っている。

 私が心配しているのは、国際重視・国内軽視みたいなことを無意識にやっていると、そのうち研究者というものは足下救われちゃいますよ、ということだ。

 日本の文脈を離れて研究することは良いこと。けれど、日本の文脈はいつになく困難な事態を迎えているというのに、それについて何もコミットしないのは、いかがなものか。私にしてみると、国内の面倒くさい部分は先達の人たちに押し付けて見て見ぬふりをしているようにも思えてしまうのである。

 確かに日本の文脈は大変特異でロジカルに説明したり、問題を解決しようとすることが困難だったりする。

 だったらそんな面倒な部分は閑却して、海外事例などの分かりやすいところで研究を進めたくなるのももっともな話であるし、それを日本の文脈にあてがって論じてみた方が速く感じることもあるかも知れない。

 けれども、それにしたって国内の問題をどうにかすることを後手に回せば、世界から相手にされなくなる時はやって来る。

 いや、もうやって来ているのかも知れない。