日本教育工学会初日

 東京大学で行なわれている日本教育工学会全国大会に出席。わりと早く着いたので,人がごった返す場面にあわず,受付を完了し,研究室にご挨拶。あとは発表やシンポジウムを聞き,自分の発表を済ませ,Yくんと再会を祝して夕食。

 シンポジウムは,メインの「学習指導要領のスタートに向けて「教育の情報化」のために教育工学は何をすべきか」とサブの「ICTを利用した教育・学習システムの目標設定と評価法」の2つ。

 教育の情報化ですべきことはもう分かり切っているので,サブのシンポジウムを聞きに行った。そう考える人は多いのか,かなり盛況だった。

 シンポジウムを始める前に,S先生から論文誌に新たなカテゴリーを新設するとの方針が披露された。「教育システム開発論文」と「教育実践論文」という枠は,従来の「論文」枠とともに併設され,投稿の際に予め選択することになる。

 従来,何かしらのシステム開発を企図した研究は,その開発に関する研究部分とシステム運用の実験部分という性格が異なるパートを論文に盛り込まざるを得ず,そのため不幸にも論文自体がリジェクト(返戻)されてしまうことが多い。

 そのような不幸を減らすためにも,教育システムの開発部分とシステムの実践評価部分を分けて論文化しても適切な査読評価を得られるように,新設枠が提案されたのだという。

 それはそれ自体として歓迎すべき告知であったが,困ったことに,シンポジウムの理解に不要なバイアスをもたらし混乱が生じてしまったように思われる。

 正直なところ,不思議な議論展開をしたシンポジウムであった。

 開発物をめぐって研究者の思惑と学校現場などの協力を得ることの難しさを言及する発表。教育システムが学習パフォーマンスに与える因果連鎖において,システムそのものよりも依って立つモデルや技法が大きな影響を与えることを指摘するもの。ツールのみを評価するのではなく,活用する人間の活動と一体となった関係性を含めて捉えていく必要性を指摘する発表。教育工学が当然視(あるいは結果的に隠ぺい)している事柄を問い直し,量的・実証的アプローチが目指す脱文脈的な研究ではなく,質的アプローチによる文脈的な研究を重視していく重要性を指摘するもの。

 教育・学習システムに関するそれぞれの問題意識や指摘は,(文系教育研究畑からやってきた)私には目新しいものではなかったけれども,どうやら教育工学の世界ではようやく議論が始まったばかりだという。

 私が登壇者でもあるO先生の授業の席を立ち,教育工学と出会うことなく距離を広げたのは,まさにその問題をO先生が議論し始めた直前のことであった。もしあの時,その事情を知りえたなら,その頃からともに問題を考え,根っからの教育工学研究者になっていたかも知れない。そう思うと,運命のいたずらが少し悔やまれるが,いずれにしてもあれから14年が経過した今になって,ようやく問題が共有され,議論が始まったところだということに,やるせなさを感じる。

 いずれにしても,教育・学習システムの開発と評価を行なう研究について,これまで様々な苦悩があったとして,今後は,文脈や実際の利用者からの声を積極的に繰り込んでいくような質的アプローチによる研究を推進していくことで,少しでも研究的にも実践的にも有意味な研究と論文が生成されていくことを目指していく提案は,了解しえる。

 ところが,フロアの中には「発表はいずれも論文化ということを絶対視している。社会貢献することを目指す在り方もあるのではないか」といった理解を示す人もいたし,「研究者と教育現場の実践者とのコミュニケーション(意思疎通)の問題」として問題を考えているような質問・コメントも聞こえた。

 もしも論文化における採択の難しさが問題だという趣旨でシンポジウム発表が理解されていたとすれば,S先生が披露した新たな論文枠の設定は,問題の解決を図ったものなのかという混乱した理解も引き連れてきそうである。

 シンポジウムの議論は,様々なレベルや位相の各論の狭間に紛れ込んで,司会者もどこに焦点化すべきであるのか迷ってしまった。

 私にわからなかったのは,文脈に沿う質的アプローチを重視することによって教育・学習システム研究の活路を見いだそうとするとしても,「教育の情報化」の理不尽な停滞状況が解き放たれた場合にどうなってしまうか。その想像図が不明瞭であるということだ。

 このシンポジウムでは,もし「論文化」が「実験的評価の実証性」ばかりを問うてしまい「実効性あるシステム開発」に何がしかの障壁を生んでいるとすれば,むしろ「全体を捉え」「利用活動を一体と見なし」「目標にとらわれない経過に焦点化した」評価が重要だと論じたのであった。

 しかし,「本当に実効性のあるシステム開発がしたければGoogleにでも行って開発すれば?」という声に対して,シンポジウムの主張はどんな対抗する言葉を持ち得るのかよくわからない。

 圧倒的なブランディングとグローバル戦略でサービスを提供するGoogleが教育・学習システムをどんどん提供していくことを想像したとき,研究者が論文化の問題で質的アプローチによる険しい道のりを歩み始めている間に,教育の情報化を取り巻く状況はどんどん変わってしまい,「教育・学習システムの開発を研究すること」のメリットを見出し難くなってしまうのではなかろうか。

 社会的に貢献する教育・学習システム開発を優先し,その経過や成果を後付けで論文化するような方法論に対し,教育工学のような学術研究としての教育・学習システムの方法論が打ち勝つための最後の砦はどこにあるのか。

 シンポジウムの議論を聞きながら,内部での努力も必要だが,外部に対する備えも必要ではないかと思えた。