月別アーカイブ: 2006年11月

シンポジウムとその夜に

 諸々のイベントが終わってすっかり夜も更けたというか,しばらくすれば夜が明けそうというか…。語らったり,盛り上がる機会をもてるというのは,なんと嬉しいことだろう。
 詳しくは後日書きたいが,2日目のシンポジウムは最後の最後で私もフロアから発言することになった。シンポジウムのテーマに即して考えるべきことは何なのか,あれこれ思案しながらシンポジアストの皆さんの話を聞いていた。
 21世紀に入ったにもかかわらず,そしてWindows XP(すぐにでもVistaへ)やインターネット,Googleがインパクトを与えている日常になっているというのに,そのことに呼応した見解を述べなくてもよいものだろうか。私がこの世を去り,まだ見ぬ子ども達が私たちを振り返ったときに,彼らが何を思うのかについて想像力を巡らさなくてもよいものか。
 私にしてみれば,せっかく同時代に生き,こうして同じ場に集って語る機会をもった者同士,もっと大事にし合いたいと思うのである。とはいえ,単なる理想論というよりは,シビアに現実を見ることから始めるべきだというのが,私の主張だった。結局私たちは,分かってもらえる相手とコミュニケーションしてる振りをしているだけで,外に対しても内側においても,分かり合えてない相手とのコミュニケーションに欠けていたのではないか。
 まあ,また後日詳しく書こう…。
 懇親会と飲み交流会では,ご挨拶程度しか出来ていなかった先生方や大学院生の皆さんとしっかりお話しできる機会をいただいたり,とても有り難かった。大胆なことは好きだが,元来恥ずかしがり屋(そのうえ,うっかり屋さん)なので,たくさんの方々に失礼をしていると思う。それぞれの皆さんとちゃんとお話しできる機会がやって来ることを辛抱強く待ちかまえていたい。

日本教育工学会2日目

 一昨日の夜から関西入りして,昨日からの日本教育工学会に参加している。この学会とのご縁は2001年にさかのぼり,そのときは他分野の人間という感覚での参加だった。しかし,いよいよこの分野のフォーマットの上に則って自分の研究を展開しなければならなくなったから,あれこれ意識しながら発表などを聞いている。
 1日目のシンポジウムは「ICT教育とそれを支えるシステム」というテーマを聞いた。別の部屋では「社会人学習環境を創る」という,これも興味深いもの開催されたが,やはり教育現場関係のシンポを選んだ。
 あらためて,シンポジウムというのは難しい。いや,設定されたテーマが難しいのかも知れない。ICT教育がどうなるのか。そんな問いかけに陥ってしまったら,きっと議論百出だし,なにより今は政治問題と化しているのだから,研究者集団として何かをアピールすることは出来ても,問題対象を研究するというアプローチからどんなに迫っても,実りはないのかも知れない。損得で動くゲーム盤の上にのっかる覚悟があるかどうかを問われてしまう。
 (そういう意味では社会人学習環境を創るのは,団塊の世代からのニーズもありそうだし,世代交代によって薄まりつつある企業ノウハウや知識の喪失危機という意識が市場を生み出す損得世界が広がっていて,まだ夢があるのかも知れない。それを夢というかはいろいろ議論もあるかも知れないが…。)
 様々な一般発表を聞いて,分野の幅広さと様々な関心があることを改めて認識する。応募総数は過去最高数だそうで,確かに会場中を走り回らなければならないくらい。
 やはり体力は大事ということか。ちなみに関西大学は街から離れた自然多き場所にキャンパスがあり,街を見下ろせるその展望は素晴らしい。今朝は正門でバスを降りて大会会場まで歩いてみたのだが,学生さん達が朝から声を上げてスポーツしていたり,秋の気配を漂わせるキャンパス内の山道は,優雅な気持ちを抱かせてくれた。
 周りが木々に囲まれているだけに,学舎周辺の空間には大きな木のようなものはなく,現代的な建物でシャープに空間が構成されているので,そのコントラストがまた興味深い。
 さて,これから2日目のシンポジウムが始まり,懇親会があり,夜の交流会とイベント続き。そういう機会にいろんな人を知ってみたいと思う。人見知りせずに,上手くは話せるといいのだけれど…。

わたしもタイゾーか

 エクセルで調査結果のグラフ化作業。エクセルは万能ソフトといわれるくらい高性能なソフトだが,フォントを変えて微調整したいときなど(DTPソフトではないので)難しかったりする。研究発表資料とはいえ,できるだけ図版の見栄えも意識したいと思う。
 青森(…ですよね ^_^)の先輩から電話をいただき談笑。学生の甘えた態度に怒り心頭といったご様子。特に女子学生の集団を相手にする場合,緩急のバランスや距離の取り方などが難しく,私も前職ではいろいろ悩んだことがある。
 ゼミで厳しく指導すると凹んだり落ち込んだり,飲み会の付き合いを諸々に配慮して断ると「付き合いが悪い」だの「じゃお金だけでも」と平気で言ってきたり…。いやはや,「お客様」相手は大変。真面目にやる人ほど神経すり減らします。
 私の場合,通常状態が「怒らない」という印象なので,「怒ると怖い」という評価を植え付けるように,たまにドカンと怒るようにしていた。たとえば,授業などで学生達から見ても「それやりすぎだ」という場面を捕まえてドカンと怒る。けれども,わたくし半分役者なので,ドーンと怒った後ケロッとまた元に戻る芸当をしたりする。それだけだと「のど元過ぎれば」になってしまうので,その授業時間が終わるまでに通常状態で振り返ったりする。
 あんまり効果のあるやり方じゃないかも知れないが,わりと学生達との距離の取り方としてはやりやすかった。許容のさじ加減で迎合してしまいがちな側面がないでもないが,その辺は臨機応変にやっていたように思う。
 高等教育という場でそんな苦労が展開しているのは,あまり感心できることじゃないかも知れない。ただ,知的領域でもそういった苦労はどんどん増えていて,(しばらく述べたくないのだが)例の高校の科目履修問題も絡んで悩ましい自体が進行中である。たとえば立花隆氏のWeb連載記事でも高尚なグチが展開している。原田武夫『タイゾー化する子供たち』(光文社2006)は私も心情的に共感する部分が多いし,著者の優秀さに「同年齢なのに努力不足でごめんなさい」という気持ち。ただ「タイゾー化」という言葉は,世間の優秀なタイゾーさん達に失礼かなと思っていた。分かりやすいとはいえ,取り上げにくいよね,ちょっと。あ,でもこれで取り上げたことになるか。
 私自身,学ぶスピードが昔から遅く,今だとさらに遅いのに,まだまだ学ぶべきことが多いので大変である。生涯学習時代だといわれて,ある程度寛容な態度で見てもらえるようになったが,やはりいろいろ障壁も多い。
 そもそも学ぶ意欲そのものが何処かへ飛んじゃった(「学ぶべきものがあったなんて知らなかった」みたいな)感じになったら,学び自体が発生しない。どうやらそういう事態が進行して,かなり危うい場所にいるということを改めて皆が気づき始めたみたいだ。結局,崖っぷちに立って初めて世間は気がつくという変わらぬ風景があった。
 もっとも私はダイソーで買い物する方が好きかな。家計が崖っぷちなので。