待ちこがれた休みの終わり

 夏休みが終わった。やっと雑務から解放される日が来た。明日は東京に出かけて研究会に出席する。こんな本末転倒な日々の様子を書かなければならないなんて,大学以前の私自身も想像だにしなかった。長期休業の方が忙しいなんて。
 今日は職場のオープンキャンパスだった。ネットワーク工事も一段落したところに間髪入れず予定が入る。諸々の事情で日本教育学会の大会に出かけることも出来ず仕舞い。明日の東京の仕事を終えて,ようやく緊張状態が解かれるといった風なのである。当事者でない限り,想像しようもないことだが,本当に8月直前から今日明日まで,朝から晩まで強迫観念にも似た緊張状態が続き,安らかに時間を過ごす余裕はなかったのである。死なない代わりに小さな事故を起こしてしまったほど。精神的にも体力的にも,あまり健全とは言えない日々だった。
 催し物が終わり,職場で残務。同じく残って頑張っていた職員の人たちの仕事を少しばかり手伝い,ようやく学校を出たところで,春に卒業した学生たちがクラス会のために集合している現場に出くわす。まだ四,五ヶ月しか経っていないので,集まる気力が残っているようだ。このクラスには,いろいろな形で関わった実績があるはずだが,友達との再会に比して教員との再会には大した感動もないようで,ニコニコ笑顔で手を振ってくれる子達を除くと,まるで「見たことある人に出会った」といった調子なのである。


 だからと言って,全員揃って感謝の言葉を述べることでも期待していたのかと問われれば,もちろんそんなことはありえないし,実際,現実はこんなのが本当のところであるというのもわかっている。
 こうしていつもの分析癖を駆使して得られる結論は,「そんな場面に遭遇するんじゃなかった」という運の悪さへの悔やみであり,教え子達との再会なんて,よっぽどのことがない限りない方がよい,ということになるのである。そうでなければ,「学生のために」と取り組んでいる普段の物事すべてが,結局は忘却の彼方に葬り去られるような徒労だったのかという意味もない感覚に襲われて,音を立てて崩れかねないからだ。
 少なくとも私は,(給与対象外ともいえる)余剰教育分を切り捨てるほど女王様にはなれないし,かといって余剰分がただ消失する運命にあることを素直に認められるほど出来た人間でもない。ある種の幻想を見込んで落ち着かない教員ということなのだろう。残念ながら私というのは今はまだそういう「人」なのである。
 少しでも意識の共有が出来る職員さんと夕食を共にする。このメンバーに共通するのは,それぞれ今の職場の物差しだけではなく,外部の世界や他分野の物差しで評価されることの経験や意味を実感しているという点。内へこもるような愚痴大会ではなく,外への広がりを目指そうとする語り合いになる。だからこそ職場の物差しの小ささや古さに不満が膨らむ。
 この何年間も僕らはある種の幻想を抱くことによって,職場にとどまり,組織や活動の一つ一つを変えてきた。その効果はいろいろな形で芽生え始めているが,相変わらず周囲の抵抗も根強い。私自身,教員として,また研究者としての立場を顧みたとき,変化に巻き込まれて教員や研究者としての勤めを果たせていないことに不安を募らせて立場がぶれる。そのとき「学生のために」とか「大学の将来のために」とかの想いが空虚なものだと割り切ることは,沈み行く船上で悠然と行く末を待ち構えるのに似てるとして,潔いことと考えてもいいのだろうか。
 夏休みが終わり,ようやく数日程度,意識の解放日がやってくる。もちろんすぐにでも9月。8月の途切れない緊張とは打って変わって,9月は様々な断片が詰め込まれた目まぐるしい月になる。それだけ方々に迷惑をかけることにもなるので,すでに気持ちは重たい。とにかく自分なりの努力をもって対応していくしかない。頑張ろう。