この数日,休めなかった分を取り戻そうかとするように気の向くままの仕事をした。「気の向くまま」ってのが大事である。所詮,上手な休み方を知らない人間だから,その代わりに好き勝手なペースであれやこれや手を出している方が気楽なのだ。
無口に書斎で過ごすのが得意な父と,コメンテータばりに口出し好きな母の間に生まれ育った。噛み合ない両親二人に,兄妹三人が加わって,五人の揃っていた我が家の全盛期は毎日のように派手に家族喧嘩を繰り広げていた。ご近所にも届く大きな声量で,へ理屈から罵倒,ときには暴力を伴って展開していた。様々な事情を抱えて,そもそもコミュニケーションハードルの高い家族であったが,それにしても喧嘩状態における性格の不一致は甚だしかった。
全盛期に比べれば,家族も実家を出て一人減り,二人減り,やがて両親と私たち兄妹はバラバラ。それぞれ年齢を重ねて,だいぶ性格的にも丸くなり,落ち着いた家族間コミュニケーションを持てるようになってきた‥‥と思ったらそうでもなくて,へ理屈の知恵ばっかり増えたおかげで,スローながらも重厚感のある傷つけ合いをするようになった。まったく,人間というのは簡単には変わらない生き物だ。
冷徹な父と大雑把な母のそれぞれの背中を見て育つと,理知的に考えることの重要さと理屈に還元できない大胆さの必要性のどちらも理解できるようになってくる。物事の良い面悪い面という単純な二面性にとどまらず,その全体性を捉えることの重要さは,過酷な家族喧嘩の経験から学んだといってもいい。最も近くにいて自分を支えてくれているはずの存在に対して,感情に任せていたとはいえ,最も突き放した残酷な態度と言葉を浴びせてきた,その理不尽さを嫌というほど味わったし,自己反省で苦しみもした。
ありきたりの話?面白みはないかもしれない。けれども,足したものが二で割り切れず,余りの不安に苛まれる経験は,ありきたりだとしても,当人には逃れづらく厄介な世界なのだ。もちろん,実際は二で割るよりも複雑な割り算であることは言うまでもない。
何かが欠けているというのなら,癒しを求める場所のなさかもしれない。正確に書けば,癒しの求め方を知らない,だろうか。誰か自分を癒してくれるような人を捜し見つけるという人生の方はどうだろう。状況は芳しくない。癒しの求め方を知らないことが災いしているのかもしれないし,そもそも癒しを与える余裕が私から感じられないというのだから,近寄る人もいないだろう。両親に言わせれば,そうらしい。楯突くとまた怒りそうだから,一応認めておこう。
どっちにしても,今日も誰からか恨みを買っているような夢を見た。被害妄想も甚だしくて,心の病気なのではないかなと自己分析してみる。欲求不満なのだろうか。けれども,この程度の悩み事は世間に伍萬とある。こうして駄文にしつらえて書けるのだから,まだ軽症もいいところなのだろう。ちなみに,そんな脅迫的な夢を見ているからといって,何か悪さをしているわけではない。悪さをしている人間が「悪さをしている」と書くわけもないから,そもそもこんな風に書いても信用してもらえるものではないが,未熟さはあっても悪さはしていない。人知れず誰かを傷つけているとは思うけれど。
久しぶりに両親と会い,外食をした。毎度,会って喧嘩なんかするつもりは全くないのだが,しゃべり始めると口喧嘩になり,険悪なムードで終わる。理性で喧嘩しまいと誓っているはずなのに,家族とは感情的に接してしまう面が大きいことを改めて感ずる。かといって一度火がつくと,下手に理性的に戻すだけ火に油を注いでしまう。要するに私たちは会えば自動的に家族喧嘩をするような体内仕掛けが出来上がっているのである。それは誰のせいでもない。
昔のように思い切り喧嘩してみるのもいいが,何より不安なのは両親が年齢的に身体的にも精神的にも「無制限の喧嘩」には耐えられなくなっている事実である。長年の喧嘩経験から,いくらでも相手をイライラさせて,相手の揚げ足を取り,論破することは(喧嘩なのだから)可能ではあるが,本当にそれをやったら喧嘩だけでは済まない。確かに理解の難しい相手だし,個々にプライドだけは強くて気に喰わないが,この国で生きてきた間の唯一の拠り所であったし,やはり愛しているのだから,何かあっても困る。
だから,私たちの体内にある自動喧嘩装置が働かないように,なるべく距離を置くことが実家の家族の幸せの手段だと考えている。ありきたりの日本人家族として存在しなかったがゆえに,この国で不自由なく暮らすため父と母のたゆまぬ努力がなくてはならなかったし,そのことについては一点の曇りもなく感謝をしている。だから,この割り切れなさを授けられたことにも,愛おしさを持って接していけると思っている。自動喧嘩装置のせいで,そのままの気持ちを伝える機会はないけれど,それもまた心の真実だと記しておきたい。
問題は,そんな大きなものを他の誰かに背負わせることに躊躇いを感じる,自分の臆病さなのだ。