巧みな技から力業

 小さな職場に小さな「情報メディアセンター」という部署をつくり,その仕事について2年目。情報関係の対外的な窓口の役目も担うので,業者面会の機会も多い。今日は,学事システムのデモンストレーションを見せてもらった。この分野では有名なソフト。マイクロソフト社の.NET技術を活用したバージョンがこの秋に完成したというので,どれほどのものかを見極めようと思ったわけだ。
 学事システムとは,学生の個人情報や授業履修,成績などの管理を担うもので,たとえば各種証明書類の発行の際にとても役立つものである。そしてこういう類のシステムに少しでも係わったことがある皆さんなら理解していただけると思うが,学事情報の管理や処理というのは,意外と複雑なのである。
 学生に関する記録は,頻繁に変化する。しかもその変化の仕方は個別的で,例外のようなものも少なくない。さらに,授業履修の仕組みや履修科目の内容は,学部学科毎,取得資格毎,入学年度毎に微妙に変化する。あれは,通年で,これは半期。こちらは必修だが,あちらは選択科目,しかし旧課程の学年の場合は科目名を読み替えて処理するとか‥‥。休学退学はもちろんのこと,単位を落としたり,留年してみたり,個々の学生を管理するのは,並大抵のことではない。


 そういった学事特有の仕組みを考慮して,記録された情報が連動して処理されるのが学事システムの最大の特徴である。エクセルや市販のデータベースソフトで真似事をすることは出来るが,こうした複雑な連動関係を実現するには,それなりの時間とコストがかかる。だったらある程度評価され信頼のある学事システムを導入した方が業務の効率化や確実性が確保できるというわけなのである。
 さて,この新バージョンを見せてもらう。なるほど,これまでの蓄積をもとに構築されているので,その辺の機能は十分だ。使い手が慣れるかどうかの問題はあるし,今後大学生き残りの時代において必要となる高度な分析レポート機能がないのは依然として課題ではあるが,基本的な部分は押さえられたよい製品だと思う。あと価格が高いのは難点だが‥‥。
 しかし,もっとも気になったのはそのシステム構築の裏側である。上で書いたように学事システムとは,たくさんの情報が網の目のように関係を保って連動する仕組みをもつデータベースのシステムである。こういうデータベースのことを「リレーショナル・データベース」と呼んでいる。昨今ではもっと高度なタイプもあるが,とにかくこういうものをそう呼ぶ。そしてこの関係(リレーション)の設計こそ,データベースにとっても最も大事なものになる。関係の作り方が悪いと,大変非効率的なデータベースが出来上がる。つまり,データベースの設計は,「技」の世界なのだ。たしかに設計にはある程度決まった手順があり,そのルールに沿えばデータベースの関係をつくることは出来る。しかし,使途や目的(この場合「学事」)に最適化されたデータベースを設計するには,センスも必要なのだ。ここでいう「技」とは,技巧的なものとしての技である。
 ところが,今回見たシステムは,これまでのノウハウ(技巧)蓄積によって構築されている点を除くと,あとはひたすら力業。あらゆる情報の履歴をひたすら追記していく発想なのである。それはどういう意味かというと,一度入力された情報は消去されることなく残されていくので,時間をさかのぼって処理することが出来るというわけである。つまり,昨年の何月何日という風に処理日を指定すると,その指定年月日時点の情報で処理できるのである。たとえば,数年前の4月時点で学生数が何人なのか,休学しているのは何人なのか,という情報がよみがえるのである。タイムマシンみたいな機能だ。
 だったら,むしろ便利じゃない。歓迎すべきことだとも思える。たしかに実務的には必要とされている機能であるから,そのような設計思想が悪いわけではない。卒業生の情報も処理日の指定で簡単によみがえるのだ。デメリットといえば,データ量が膨大になり,使い続けていくと処理が遅くなる可能性もあるといったことだ。
 私からすると,このような贅沢な設計思想とプログラミングは,「時代なんだなぁ」という感想だ。同時に,これは今日の監視社会の基本原理に基づいていることにも興味を抱く。東浩紀氏が指摘していたように,この世はデータベース型の監視社会なのだ。私たちはこうやって自分の履歴を残されて,いつか必要になったらたどられてしまうのである。
 それから力業という点で,情報分野にある「エレガントな解法を求める領域」というイメージが,少し薄まってしまったように思う。昔のような限られたリソースで如何に最大の成果を得るかという探究は弱くなり,現在では豊富なリソースを有効活用するという方向性が当たり前になっている。ある程度の質が保たれるのであれば,あとは量で攻める一辺倒のようである。
 毎日インタラクティブ教育ニュース記事「IT教育:教育の情報化に自治体の理解を」で,教育情報化推進協議会代表の坂元昂氏がインタビューに答えている。坂元氏が説明する状況に呆れると共に怒りさえ感じる。そこにもまた義務教育費国庫負担金の一般財源化によって懸念される地域格差の別事例が見られるし,その現状を招いてきた研究者や関係者たちの誤算ぶりに何か言ってやりたくなる。情報教育に関する研究やその成果の発表,世間に向けた各所からの啓蒙ぶりは,決して少なくないし,乏しくもなかったはずである。なのにいまこの時点で「首長さんや議員さんたちが,ご存知ないのでしょう」だぁ?
 百歩譲って,ご存知ない首長さんや議員さんたちがいるのが事実として,それを踏まえて教育情報化推進協議会を設立したことは,前進と考えよう。だとしても,懸念されるのは,2005年までに目標達成しなければならないという問題意識に絡め取られて,物事を早急に「力業」で進めてしまいかねないことだ。代表幹事会社は,その状況を手ぐすね引いて待っている。国産OSのTRONを守ることも出来ず,ソフトバンクによるスピードネットが教育機関を無償で結ぼうとした動きをサポートせず,LinuxやMacOS Xのもつ可能性にスポットライトを照らすこともしないできた流れの中で,どうして高らかな理念が信じられる?
 職場の小さな部署で,事務の真似事のような仕事をする日々。思いめぐらしているのは,特定の人々への不満ばかりというわけではない。そういうことはここで人々に見えやすくわかりやすいように書くための些末な事柄であることは,皆さんならご承知のこと。そんなことよりも,歴史に学ぶというのはどういうことなのだろうとか,私たちが積み上げている事柄は後世に胸の張れる事柄なのかということとか,領域や分野をまたいで物事を考えることの大切さとか,そんな事柄をいろいろと考える。
 それはある意味,技巧的な思考とも言える。もちろん,力業が必要なときがあることはわかっている。それでも,教育や研究に身を置く者は技巧的な思考を駆使することを求められているし,それを武器にして世界を変えなくてはならないはずである。そう思うと,「力業」でなんとかする手段をとろうとしている物事が,どうにも悲しい。