平成二十四年卯月二十四日

 今週は可燃ゴミから不燃ゴミまで、一通りの種類のゴミ出し日が連続する週だ。家事をおろそかにした分だけ家の中のモノが増えて荒廃していたので、これを機にゴミ出し。

 一人旅の思い出は、記憶を分かつ者が居ないだけに様々な物に刻んでおくしかない。そうしてたくさんの物が残されていたのだが、特別な物を除いて、それらも捨てることにした。

 自分の過去を知る者が限られているのは、気楽である反面、煩わしくもある。

 前職を辞めた時、過去に区切りをつけて現在や未来を生きられるのかなと少し考えた事があった。まったく違う人生を歩み始められるだろうかとか。

 けれども、現実はそう簡単ではなかった。

 現在が空っぽの人間に対して、常に過去が要求されたし、過去が責めてくる時もあれば、過去が助けてくれる時もあった。

 物を捨てるほど簡単には、過去は捨てられないのだという事を改めて思ったものだった。

 破壊的なイノベーションという言葉があちこちで踊っている。

 言葉のイメージでいくと、旧来のものに爆弾をぶち込むような変革(まるで革命ようなもの)を創造してしまいがちだけれども、実際にはまったく別のところにフィールドを生んで活動することを意図している事が多い。

 つまり、ゲームで強さを発揮して勝つのではなく、ゲームのルールを書き換える、むしろ置き換えるといった風に強みを発揮する事である。

 そうして結果的には旧来のものを駆逐してしまう事になる。まるでそんなものがなかったかのように記憶もごっそり失いがちに。

 インターネット以前を思い浮かべ難い。携帯電話以前を思い浮かべられる人は限られてくる。テレホンカード以前を思い浮かべる事もない。ファクシミリを知らない時代がまた巡ってくるかもしれない。

 それでも私たちが今日を知るためには過去が必要だ。捨てたとしても忘れたとしても、過去はいつも私たちについて回る。

 たぶん、未来の選択もまた過去から逃れられないのかも知れない。

 未来は過去に刻まれている。そんなことをゴミ出ししながら考えたりする。