新しい地平を見たあとに

 教育らくがきの更新がパッタリと途絶えたのは、書き出すことよりも、いろんなことを眺めて見ることに力を入れていたことが理由とも言える。

 2010年に起こった出来事は、私にまた違った地平の景色を見せてくれた。その景色が、私自身の考えてきたことや知っていること知らないこととどう関係づけられるのかを必死に追いかけていた。

 私はカリキュラムを専門に出発した研究者なので「情報通信時代の教育内容とは何か?」という問いを基調に活動をしてきた。

 情報通信時代の教育内容…それは現代的な事象を踏まえた未来にも通用する知識の集合体、とでも答えられそうなものである。

 しかし、この時代にふさわしい教育内容とは何かという問いは、70年代からの学校化に対する社会学的議論をくぐり抜けていく中で、教育方法と共に権力政治問題と分かちがたい共犯関係を論難され、単なる内容構成の問題で済まされなくなっていた。

 よって、教育という場で展開するコミュニケーションと密接な関係、言い換えれば教育の場における「知の扱われ方」のことを見極めることで教育内容とは何かが明らかにされなければならないと考えられているわけである。

 これは学習論の観点から言うと、知識伝達型から知識構築型への重心移動とも関係する事柄である。

「知っていること」の意味が,「情報を覚えて暗唱できること」から「情報を発見し利用できること」へと変わろうとしている(Simon, 1996)

 といった知識学習に対する捉え方の変化は、21世紀を迎えて10年、もはや対岸の火事としては見られなくなってきているのである。

 けれども、一方で、従来の教育内容についても、かなり他人事のように扱ってきた歴史がある。

 たとえば、教科書中心主義と称される教育は、教育内容の構成を不問のまま、内容の伝達技法を研ぎ澄ませるという積み重ねを強いてきた。

 何のために教えるのかを問わないまま、伝達と習得を評価する作業が繰り返される中で、「教育目的に照らして評価する」という基本的な構造がすっぽり置き忘れられてしまったのである。

 教科教育学は、基本的に教科書中心主義の世界観において強固な基盤を構築する努力を続けてきた学問群であり、それも教科を越境をすることはない分断された状態にある。そのため、教育目的という場合のそれは「教科の教育目的」であり、それに連なる教育目標を煮詰めている。

 よって、学校教育全体の教育目的が情報通信時代において新しい捉え方を要請されているのだとしても、全体の教育目的が教科の教育目的のところと接続する回路が乏しい状況では、方向性を示すだけでは届き難いという現実がある。

 つまり、個々の教師の教育実践にインパクトを与えるためには、実質的な教育環境の変化によって行動の変容を促すことも考えなければならないということである。もちろん方法は多様だ。

 教育の情報化に関して、私は教師の周辺における情報化を優先的に行なうべきだと考えている。それは、単に校務の情報化というだけでなく、教師の専門性を発揮する様々な場面(教材研究、教材開発、授業支援 etc..)に自在に活用できる環境をつくることを想定している。

 しかし、現実に進行した情報化は、子どもたちが使用するコンピュータの整備を優先的に行ない。大小の成功失敗を繰り返してきた歴史であった。教育の情報化が子ども達の学習に役立つと言えば聞こえはいいが、それは容易ならざるハードルの高い目標であり、まして日本の場合、そう簡単には成功と認めてもらえない領域である。積み重ねを考えれば、攻めるところを間違えているとしかいえない。

 昨今、ようやく教師に1人1台のコンピュータが整備されるようになり、電子黒板と提示用電子教科書(デジタル教科書)の本格導入が始まろうとした。かなり出遅れたが、まともな循環に入り始めたところだった。

 ところが、2009〜2010年に起こったことは、ようやく始まった妥当な流れを遮った上で、教師用が主なターゲットだったデジタル教科書に「児童生徒用」を持ち出し、またもやハードルの高い領域へと最初に攻め込もうという機運を生むことになった。

 将来的な展望として、児童生徒用のデジタル教科書がめざされてもよいと考えているが、しかし、その前に教師にとってのデジタル教科書が十分整備されたり、教師としての専門性を高めるための情報環境がリッチにならない限り、児童生徒用の成功はあり得ない。

 それに、私たちは、情報通信時代の教育内容とは?という問いを追究するための方法論さえまともに確立していないことを忘れてはいけない。その問いに対する議論の積み重ねも無いところに、どうしてデジタル教科書なるものが受け止められる可能性が生まれようか。

 そして2010年、私は国の事業に関わる仕事を請け負った。

 事業全体からすれば、末端の一協力者でしかないから、何か偉そうなことができるわけではない。

 ただ、そういう仕事に関わらない私から見たとき、そういう仕事に関わっている私に何を期待するのかをいろいろ考え、できるだけそれに沿うようにしようと思った。

 末端の協力者とはいえ、事業に関わる関係者に「会う機会」が生まれるし、そういう人達に何かを「言う機会」も得られる。関係者から詳しいことを「知る機会」だってある。

 そういう新しい地平から見える景色は、必ずしもバラ色ではないし、どこかもどかしささえ感じることも多い。

 どこかに訴えることで解決する問題ならば大声で叫んでやりたい気にもなるが、残念ながらそう簡単な話ではないことも分かってくる。だとしたら、私にできる事は関係者に問いかけて、議論をもっと深くに掘り下げてる糸口を見つけ出していくことだけである。

 過去の文献を紐解く度に、同じ問題が発生していて同じような課題提起がなされ、今後打開されていくことの期待が記されていることを、重々承知している。諸先輩方は、その歴史を繰り返してきた張本人だし、私以上にその進歩の無さに辟易しているはずである。

 その鬱屈とした歴史を接ぎ木して、問題をまた先送りすべきではないと思う。今作成が行なわれている「教育の情報化ビジョン」が、新しいスタートのための希望の持てる展望を示すものであって欲しいと願う。

 大まかには、こんな感じで考えている。

 あと各論の細かいところを駄文にしたためられるようにしていこう思う。