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ここに来たあなたへ

こんにちは。

ここに来た皆さんに知っておいて欲しいことがあります。

ブログやSNSは「片づけてない自分の部屋」と似ているということです。

「似ている」ということは同じじゃないところもあるわけですが、とても似ていると思います。

このブログは、その時、その時に考えたことを自由に書いたものです。とても古い文章もあります。読んで面白いかどうかは分かりませんが、興味を持つ人もいるのかも知れません。

ただ、これは整理整頓されたものではありません。掃除していない部屋みたいなものです。

今は考えが変わってしまっているので、捨てなきゃいけないものも残っているかも知れません。見られて恥ずかしいことが書かれているかも知れません。もしかしたら、誰かは嫌な気分になったり、傷ついたりするかも知れません。

皆さんも自分の部屋に友達を呼ぶとしたら、普通は掃除をしたり片づけをしますよね。

だから本当なら、ブログやSNSも片づけをする必要があります。このブログもときどき掃除して何か変わったり消えたりすることはあります。でも、ブログやSNSは部屋と違って、全部を整理整頓したり、掃除することが難しいのです。

それに、キレイにしすぎちゃうといつもの自分の部屋じゃなくなり過ごしにくいのです。なので、このブログは整理もせずにそのままになっています。

皆さんは、いま、片づけてない私の部屋をのぞいているのです。

片づけてない部屋を見られてしまっていることは、インターネットの世界なので仕方ありません。

入口は開いていたかも知れませんが、片づけてないので招待したわけでもありません。

片づけてない文章のことは恥ずかしいのでからかわないでください。

片づけていない文章を読んでも、そのことをあまり気にしないでください。

考えたいことがあったら、書いてあることは忘れて、一から自分で考えてみてください。

そういう風にそっとしておいてくれると嬉しいです。

令和四年皐月十九日

開発作業が一段落した。

まだ取り組みたい開発案件は残っているので,しばらくはこうした作業を続けていく。

昨日あたりから外部からの連絡が急激に増えた。今年度の様々な計画が動き始めたということか。

お声掛けいただくことは素直に有り難く思うし,その度に区切りながらお引き受けしたいと考えている。とはいえ,代わり映えのしない全体構図の中で再生産のための仕事をするだけなら,次代の人たちに任せたい気持ちもある。この国はいろんな事柄がずいぶん停滞したままじゃないかな…と思う。

学校に情報端末が児童生徒数規模で導入されて数年経つという時間の流れである。

こういうときの説明概念としてロジャーズのイノベーション普及理論における5つの採用カテゴリーとか,米ガートナー社のハイプ・サイクルとかがある。またPuentedura(プエンテドゥラさん?)のテクノロジー統合融和の段階モデルも時間を追う形で用いられることがある。

自分や他人の現在地をどこかにあてはめて考えると,これらが周辺的なものへの理解を助けてくれる。

クラウド前提の情報端末環境は,まだまだ多くの人々を招き入れる段階にあるし,ここから苦い経験を積み重ねて沈殿するものを踏み固めたり,あるいは勢いあるうちに跳躍してみたりする長い時間が待ち受けている。

マクロには,少し気長に眺めているのが良策かなと思っている。

ミクロには,クラウドが全体に提示された状況下で,ローカルに面白味が感じられるタイミングかなと思う。

この場合のローカルは,学校内ネットワークとかではなく,学級内ネットワークというか。もっと言えば近距離通信を利用する場面で想定されるような「この場」のイメージである。

みんながクラウドに目がいっている状況で,至近距離を結ぶローカルなネットワークをコネコネするのが,密やかさを含んだ面白味を生むのではないかと感じている。

そのための武器としてRaspberry Piのような小型コンピュータを導入することを推していきたい。

残念なのは,現在,Raspberry Piも含めた電子機器の在庫状況が厳しく,価格高騰もあって,入手が困難であることだ。そうした状況が改善することを願う。

令和四年睦月三日

帰省が続いている。

実家は仕事に集中出来る環境確保が難しいため,ほとんど何も出来ない日々を過ごす。仕事を進めるには帰省しない方が都合がいいが,その選択をすることも難しい。こればっかりは相手があるだけに自由が利かない。

それでも,電子書籍をちょこちょこ読み進めるくらいのことはする。

奈須正裕先生の『個別最適な学びと協働的な学び』(東洋館出版社)を読んだ。

奈須先生の書くことは,普通に考えればそうなるよねという論旨展開をされるので,期待を裏切らない。自分とも近い考えであることも多くて,今回の書物も,ほぼ異論が無い。こうした文章を事例を交えて淡々と書ける才能は尊敬に値する。

この本では,山形県天童市立天堂中部小学校での実践事例をベースに「雀の学校」と呼ばれる従来の一斉授業的な学校教育との決別を唱えている。主なキーワードは次のような感じ。

  • 令和の日本型学校教育
  • 近代学校の誕生
  • 新教育運動
  • インフォーマルな知識からのアプローチ
  • 文脈把握
  • キャロルの学習の時間モデル
  • クロンバックの適性処遇交互作用
  • 互恵的な学び
  • 四十一人目の追究者
  • 個別的と協働的の相互促進的関係
  • 自己決定学習
  • 幼児教育に見習う環境を通した教育
  • ICTによる道具立て
  • ユーザーアカウント
  • 教師の専門性
  • 教師は何のためにいるのか

今次の学習指導要領が目指している方向性を事例でイメージしながら理解したい人には良い文献だと思う。やはり,現場とのつながりを持っている研究者は強いなと思う。

私も以前,「そもそも学校は、何のために「デジタル化」するのか」という見開き記事で,ちょっとだけ似た様なことを抽象的に論じたことはあったけれども,そういう文章はどうも反応が無くて,評価されなかった。

さて,今年は少しでも何かを書きためたいと思うのだが…。

令和四年元旦

失意したような4年前の駄文から途切れていた教育らくがきの再始動である。

いまさら無為に流れた時間の言い分けはしない。私も昨年,五十路を迎えたので,確実に人生の折り返しは通り過ぎたのだから,もと来た道を引き返してみてもいいんじゃないかと思う。

というわけで,令和に入っての「教育らくがき」である。

初めての皆様は,浅はかな駄文が書き綴られているだけの私的なブログが放り出されているとだけ理解されたし。

また新しい年が明けた。2022年は令和4年である。

ここまでの振返り

2020年より始まったコロナ禍は,デルタ株が猛威を振るった後でワクチン接種が広まったおかげでしばし沈静化していた。ところが,この年末年始あたりからオミクロン株という変異種が感染拡大するようになり,新たな局面を迎えつつある。

悪い方に振れる予測に照らせば,事態が落ち着くまでに二,三年はかかりそうだという雲行きは想定内だったが,社会全体が受けた影響の大きさは想定外だった。

私個人といえば,混乱の中ではあったが,あれこれ挑戦する場面に恵まれて,これまでと違った日々を過ごした。

たとえば,大学は対面授業の代替としてオンライン授業を実施しなければならない事態となった。そこで,これまで技術的な取り組みでしかなかった動画収録や配信の試みが,実際の仕事に適用されるようになった。

最初のうちは,収録・配信の環境を整える作業を賑やかにやっていた。機材をアップグレードすることもした。タイミング的にはテレワーク需要に巻き込まれて,機材購入が難しくなったりもした。

Blackmagic DesignのATEM miniはコロナ禍前に入手していた機器のひとつで,せいぜい一部のマニアックなユーザーが購入するニッチな商品化と思われていた。ところがコロナ禍需要で,多くの教育関係者が購入するアイテムと化した。一時は,入手に数ヶ月かかる代物となった。

基本的な環境が整ったら,あとは日常的に活用するだけ。個人的には一発撮りをリアルタイムで配信したり,オンデマンドで視聴してもらう方が手離れもよく楽なので,動画編集のような作業はほとんどしていない。

コロナ禍に翻弄される世の中が気になって仕事に手が付かない日々を送ったり,その傍らでScratch3.0拡張機能をプログラミングしていたり,そうこうしているうちにAppleシリコンによる新しいMacが登場してジタバタしていたりして,2020年は過ぎ去った。

続く2021年は,年度末までバタバタと過し,春からは感染確認数の様子を見ながら対面授業を再開した。そこで面談した学生の感染が判明。私は濃厚接触者となり隔離生活も体験した。幸い陰性であったが,2021年度のスタートは,否応なくコロナ禍を再認識させるものとなった。

GIGAスクール端末に関わる事柄にはほとんど関わらずに過していた。それでも徳島のGIGAスクール端末の不調問題などについてブログ記事を書いて,新聞に取材されたりもした。ただ,それも一過性の関心で,すぐに話題にされなくなった。あとは学校コードを利用してAppSheetベースでGIGA顛末調査アプリをつくってみたりもした。

後半には高知や奈良からお仕事の依頼があったので,少しばかり表舞台みたいなところでも仕事した。しゃべる機会はほとんどないので,聴衆が何を求めているのか皆目見当がつかず,面白くないともっぱらの評判ではあるが。

あとは生活者として日々をせわしなく生きていた。そうそう,電動アシスト自転車のVanMoofを購入したので,生活の移動可能範囲が広がったのはよかった。小さなトラブルは時々発生するものの,総じて正常に動作してくれている。

そして年末年始は,久し振りに実家で過している。

ここからの予定

2022年はまず,開発しているScratch3.0拡張機能を利用した教材やその活用案の作成に力を入れたい。プログラミング教室のイベントも近く予定されているので,それに向けて。

あとは流れのままにといったところだが,積み残している宿題がたくさんあるので,それを少しずつ進めたい。

それと,そろそろ実家に戻らなければならないタイミングも近づいている。そのための準備も取り組んでおかなくてはならないと感じている。人生の決断なるものが,いずれは来るのだと覚悟しなければ。

健康に気をつけて,前進できるように頑張ろう。この「教育らくがき」も今後は継続的に書いていきたい。

そして新年…2018

年が明けた。

2017年は、文字通りあっという間に過ぎた。あっという間に過ぎたのではあるが、まさか最後にそれが来ようとは思いもしなかった。

率直なことをいえば、12月に入ってからは、時間が上手くは進んでいない。それまでも上手く進んでいたわけではないとしても、あれこれに囚われては立ち止まることばかり。何かから逃避しようとしていること自体に囚われてしまってもいた。教育らくがきTwitterの更新も止まったままである。

そこに駄目押しがくることも想像だにしなかった。

それはいつもなのだ。年末年始というものは、いつも私にそういう苦々しいものを連れてきては去っていく。それがわかっているのだから、この年末年始は何事もなく過ごそうとしていた、そうするために他事のようなものを入れようとすらした。

ところが思いがけずそれは発生した。これはどうしたことなのか。年末年始とはそういう仕組みなのだろうか。ずっとそのことばかり考えてみるが答えらしきものが無い。

直に雲散霧消するだろう、苦さだけを残して。なぜそうなのかは分からない。

そうでない道はあるのだろうか。可能であるなら…とは思う。

引っ越し完了

 教育らくがきのデータ移行だけが取り残されていたが、数日前に無事に移行できた。

 性懲りもなくあちこちにコンテンツサービスを立ち上げたはいいものの、内容を書き込むまでいかない状態が続いている。やりたいことがあれこれあるうちは、まだまだ青臭いということは重々承知であるのだが、やはりいつまでたってもやりたいことが減らないものであるし、諦めるという潔さがなかなか身につかず落ち着かない。

 ただ、残り時間みたいなものが限られているのだということの意識は日に日に強くなるので、この数年のうちに棚卸しの準備が出来るようにしておきたいとは思っている。若干力業的にやらないと、いかんともしがたい状態なので、まだ力を集中させることに時間がかかりそうであるが、ここぞというところでひっくり返せればと思う。

 とりあえず、日々は相変わらずドタバタとくだらないことを続けて行こうと思う。

平成二十九年睦月十八日

というわけで徒歩通勤なのである。自転車がないわけではないし、場合によっては自動車を使ってしまえるのであるが、どんなに寒い日でも、何故か徒歩通勤がデフォルトになっている。

確かに最初は健康のためとか、そういう理由で歩いていたように思う。けれども、今になってみると、そういうことにこだわっていると言うよりは、そうすることがごく当たり前という域になってしまった。

時々、自転車で来れば早いかなとか、自動車で来ると荷物が楽かなとか、思うことはあるし、そうすることは難しいわけでもない。けれども、いつも淡々と歩いてしまう。

G7教育相会合 倉敷宣言全文(2016年5月15日)

Kurashiki Declaration
倉敷宣言

はじめに

1. 我々、G7 各国の教育大臣は、G7 教育大臣会合のため、2016 年 5 月 14 日、15 日に岡山県倉敷市に集まった。歴史と伝統文化が息づく地域一体で教育を支える、この倉敷において、教育の課題について深く議論し、今後の教育の在り方の多くの側面について合意を得るに至ったことを感謝したい。

2. 今日の急速な社会・経済的な発展は、我々の社会に多大な変化をもたらしている。グローバル化や技術革新により、多様な社会、より広く情報にアクセスする新たな機会、人々の交流の活発化、生活の質の向上への扉が開かれた。AI(人工知能)やインターネット・オブ・エブリシング(IoE)を含む技術的進歩により、生産性が増し、一部の仕事が自動化され、新たな仕事が創出される可能性を指摘する研究もある。一方で、我々は、貧困、拡大する収入格差、紛争、テロ、難民・移民の大量流入、環境・気候変動問題などの地球規模課題に直面している。

3. このような(社会の)発展及び課題を踏まえ、グローバルな視点から教育政策の方向性を議論する重要性を認識する。私たちはこれ以上、収入格差や対立の根深さを放置することは許されない。国際社 会の平和を守り、持続可能な発展を促進するためにも、倫理を尊び、他者を理解し、(特に社会的少数者の)人権に配慮し、主体的に行動するには、ひとえに教育の力に拠らなければならないことは自明の理である。人々が自らの可能性や夢を実現し、社会を発展させる上で、教育は極めて重要な役割を果たす。

4. 特に、暴力的な過激化・急進化 、テロを阻止し、これらに対抗するため、我々が協調して取り組む中で、教育によって、基本的な価値観である生命の尊重、自由、民主主義、多元的共存、寛容、法の支配、人権の尊重、社会的包摂、無差別、ジェンダー間の平等を促進するとともにシティズンシップを育成することは、極めて重要である。

5. 教育の重要性に基づき、我々は、以下について宣言するとともに、それを世界的にどのように実行に移していくかを示す G7 教育大臣の行動指針を設定する。

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環境整理

 このブログを更新する頻度がガクンと落ちてから,どれくらいが経つだろうか。そんなことを気にし始めてからもだいぶ時間が流れて,書かないまま一年が経過したりしている。

 その理由がSNSの利用だとかいろいろ書いていたが,端的には更新のしやすい条件にあったかどうかということである。TwitterもFacebookもモバイル端末からアプリなどを使って気軽に更新できる上に,反応も返ってきやすかったので,やはりそちらを利用しがちだった。

 一方のブログは,パソコンで入力していたところからアプリに移行するのに若干ハードルがあったし,使いやすいブログ更新アプリも最初のうちはほとんどなかった。そのうえ,ブログを収容しているレンタルサーバーの仕様変更やなにやらで,使っていたアプリから更新できなくなってしまい,そんなこんなで縁遠くなってしまったというところである。

 SNSで事足りることも多いため,何を今更ブログという感じではある。けれども,海に投げ出すボトルに封入する手紙のように,宛てのない文章を書くという気楽さがブログにはあるように思われる。中途半端な思索は人を惑わせ不快にするのかも知れないが,そのことを押し付ける程度はSNSでするよりも軽いだろう。少なくとも読みたい人が読めばよいのだから。

 Facebookとの距離をどう取るのかは,ずっと気にしていろいろ試していた。「友達」を整理しようとしたこともあるし,以前もFacebookアカウントを凍結して利用を控えた時期があった。

 今回も,とある事情が発生してからFacebookアカウントを凍結している。

 誰かが,つくべきでない嘘に基づいて,私の繋がりとコンタクトをとった…ことが発端だった。

 そもそも私はFacebookを実名での仕事やその周辺の交流関係に利用していた。職場外部の方々との連絡や緒活動をご一緒するための道具として。そして基本的にはフル公開してきた。

 そこに意図せざる出来事が起こり得ることは日々覚悟しているものの,実名基本の空間で起こることなら,誠意を持って対応する姿勢である。今回はそうではなかったということだ。

 私が取り得る対応として,今回は私以外の人に対してこれ以上嘘をつかせないために,私のアカウントを凍結することにした。私のアカウントがそこにいなければ,そこで嘘をついてコンタクトを取る必然性がなくなる。

 そんなこんなで,意図せずFacebook絶ちをしているところだ。私との連絡手段にFacebookを使っていた周りの方々に迷惑をかけてしまっていること,お詫びしたい。

 というわけで,便利な道具が使えなくなった時に浮かび上がるは,使っていなかった道具の姿。なんとかしたいと思っていたブログやWebサイトを見直ししようと考えた。

 もう一度,更新がしやすいようにブログシステムを改修することにした。見た目は以前と変わっていないが,裏側は独自ドメインとネームサーバー設定やサーバーの契約見直しなど大掛かり。

 今回はレンタルサーバーとクラウドサーバーを一つずつ契約して,それぞれに振り分けることにした。いずれはVPSサービスで一本化したいが,いろいろ実験する余地を残すために,今回は2本立てにした。

 あとは,ブログとWebサイトを引っ越ししたり,再構築したりという作業。今後は,モバイルアプリでの更新もしやすくなる。どうしても長文を書く癖が抜けないが,短い文章を頻繁に更新するTwitterスタイルをブログでも取り入れられたらと思う。

担任業務

 今日は朝からずっと担任業務に縛られっぱなしであった。せっかくの研究日だというのに…ん?単に授業が無いというだけの業務日だろうか。もう「研究日」なる単語を誰からも聞かなくなって久しい。

 5月後半からの1ヶ月は毎年,出張や外部仕事が集中していて,普通でも厄介な日々。今年度から本格的に学生指導業務が始まって,やりくり一層大変である。

 担当している学生たちは,若いのだから未熟なところがあるのは当然としても,わりと話を聞く余地は持ち合わせている。彼/彼女らが社会人に近づく中で,どれだけ「問い」を投げ掛けられるだろうか。そのことがここ最近の心配事である。

 残念ながら私自身には,大学時代に携帯電話やスマートフォンをベースに友達とつながって時を過ごす経験が全くなかったので,そういう風景の中で学問や専門知識がどのように見えるのか,どうすれば魅力的に見せられるのかといったことが正直分からない。現代のネット社会においても持久し得る「問い」の構造がまだはっきりと捉まえられないのである。

 ネット上を探索すれば得られる「回答らしきもの」を寄せ付けず,その深みにハマるような「問い」。それはずばり「古典」だ,ということは簡単であるし,私もそうなのだとは思っているのだけれど,その辺を今どきの学生たちにどう伝えるべきか,少々困っている。

 そういえば最近,書店に『哲学用語図鑑』という軽快なイラストの本がベストセラーになっている。そこから始めてもいいのかなと考えている。