学校図書館格差

 今日のNHKニュースで学校図書館の問題が取り上げられていた。異なる自治体の小学校を取り上げ,一方は120万円ほどの潤沢な図書整備費で蔵書数の豊かな小学校,一方は国の基準の3割にも満たない蔵書数の小学校を紹介していた。
 この蔵書数の違いが,授業における調べ学習に大きな影響を与える。同じ日本に住む子ども達にもかかわらず,蔵書の少ない小学校の子どもは「もう少し本があったら…」とインタビューに答えている。ニュース映像は,この問題の深刻さを分かりやすく見せていた。

 このニュースを読み解く際には,いくつかのレイヤーが考えられる。学校図書館の蔵書数や図書整備の不備という問題と,それによる学習活動への影響の問題。さらに図書整備費に関して,自治体の財政格差の問題と補助金と交付金という予算配分の在り方。もっと広げれば,お馴染みの教育行政における国と地方自治の在り方も関係する。
 何より,昨今の教育問題の奇妙な語り難さについても,このニュースから垣間見える。時を経て,文部科学省(旧文部省)を頂点とする教育のピラミッド行政から,地方分権によるピラミッドの分断化へ。教育問題の根源は国による行政のまずさだと吐き捨てれば批判の態をなしていた時代も終わった。
 このニュースでは,文部科学省は図書整備費を増額したり,教育委員会・教育長は学校に直接予算配分する必要性を訴えたりする。何者が配分される図書整備費を消し去ってしまうのか。もはや,当事者達の中にその犯人が居らず,ただただ,その場所と時期に居合わせたことによる必然による結果に過ぎない。
 もしも原因とされるものを探すとすれば,過去にさかのぼるしかない。

 教育に関わろうとするならば,過去の歴史に学び,常に未来を指向して行動しなければならないと思う。それは必然的に未知の挑戦をすることでもある。それゆえ,過去の歴史に学ぶのだと思う。
 私たちが政治家を信用しなくなったのは,彼らが過去の歴史に学んだようには見えないからである。あるいは,彼らが学んでいるものが,私たちと共有できるものではないから,ともいえる。
 教育再生会議が批判されるのは,臨教審,国民会議の歴史を振り返ることも学ぶこともせず,中央教育審議会以上に都合よく利用できるお墨付き生成装置として機能している体たらくにある。
 そこに私たちは自分たち自身を見てしまうのである。きっと私たちはそこに責任転嫁するだろう,そのことが分かっているからこそ,そんな分かりやすい責任転嫁先を作ってくれるなと,私たちは責任転嫁的に怒っているのである。

 今回のニュースに関しては,全国学校図書館協議会にページに情報がある。参照されたし。