【番外】辺境を歩きながら

 自分の蔵書を眺めると,その系統性の無さに呆れる。普通,自分の師匠が継いでいる学派とか学説とかの影響を受けるものなのだとは思うが,若き日についた師匠達はみんな独創家で,そういう先生達を追いかけるには闇雲に勉強するしかなかった。私自身の元来の無節操さも加わって,理系とも文系ともつかない辺境を歩んでいる。

 教員養成学部を卒業して,大学院で学んだのはコテコテの文系教育学だった。新しいものに対する批判的な態度を基本として,思索を繰り返し,ねちねちと言葉を紡いでいく日々だった。部分的な新規性や説明可能性よりも,全体に対する整合性や本質的問いへの耐性を重視することが多かった。

 カリキュラム論を研究した。記述された「教育課程」と実践された「教育実践」を媒介する過程に「カリキュラム」という領域を読み取ることを哲学・社会学の知見を援用して論じた。理論と実践を超克するのが流行っていた時代である。そういう空気にかぶれていたし,自分なりの足掛かりはそれしか得られなかった。

 影響を受けた学者は誰か。最初の修論で好んで引用していたのはピエール・ブルデューというフランス社会学者の文献だった。教育を分析対象とした『再生産』も興味を引いたが,どちらかといえば『ディスタンクシオン』や『実践感覚』において構築された理論を援用できないか考えることに興味が湧いた。たぶん,その副産物が知識人批判の態度だと思う。

 今にして思えば,「理論社会学」ならぬ「理論教育学」といったような研究を好んで,それにのめり込んでいったのかも知れない。ただ,そのとき私自身が気がついていなかったのは,私個人が「根っからの実践指向」なので,理論研究をすることが私にとってはバランスを均衡させるためであったけれども,端からすれば「理屈屋さん」に見えるということだった。

 根っからの実践家だった私にとり,ブルデュー社会学が「文化資本」などの概念を使って理論構築し説明する世界は,大変魅力的だった。コミュニケーションや文化的な環境のデザインが重要であることも,こうした理論世界の思索からも了解しえたことだった。その上で,それを逆手にとろうという妙な意気込みで最初の修士論文を書いたのだった。

 その後,小学校の先生になっていれば,苦しくはあれど平穏な人生だったかも知れない。しかし現実には,タイミングに誘われるまま,大学世界で教員をすることになった。情報教育の教員として雇われた日々は,振り返ると楽しくもあり,苦しくもあった。

 ただ,どうも自分が学んできた世界とは違うルールで動いている世界があって,大学・学術の世界はそちらのルールが優勢になっていることを感じた。「理工系」的な時間進行は,「人文系」的な余裕(緩さ?)を許してくれないらしい。そのことが,高等教育政策として蔓延し始めた。気がついたら国立大学は法人化し,助成事業の申請準備は年中行事になった。

 途中から,大学教員ではなく「大学職員」として働くことにした。そうした割り切りが無いと自分を支えられそうになかった。すでにそのときには辞めることを覚悟していた。同時に研究者としての自分の限界も悟った。自分なりの仕事の目標を達成したら,辞めて勉強し直そう。それだけ考えていた。

 恥ずかしい話だが私は,学術世界の処世術の指導を受けたことが無かった。

 もともと優秀な人材ではないから,雲の上の手合わせと称される駒操作にも縁が無い。

 それに,ブルデュー社会学を学ぶ過程で,いわゆる知識人集団の場の特権性に注意深くなるまなざしを得たりしたので,自分を含めて学者集団の作り出す雰囲気に対しては,どうしても懐疑的になる。

 ところが,ルールはどんどん相手側有利に変わっていく。短いスパンで成果を出し続けなければ研究者にあらず。誰もがそう唱える時代になった。

 「このままでよいのだろうか。」懐疑の眼は自分にも向けられる。

 相手を批判することは簡単だけど,相手の立場になることは容易なことではない。

 だったら,勉強し直してみよう。

 一度身に付けた性質を消すことは難しいが,学ぶこと自体は出来ないことではない。

 当てはほとんど無かったが,とにかく場所を移して,学び直すことにした。

 入り直す大学院の選択は,悩ましい問題の一つには違いなかったが,いろんなご縁が絡み合って,とある研究室にお世話になることとなった。そのことは幸運だったし,人文系に限らず理工系の世界を知るのによい場所だった。

 けれども,そういう夢のような環境に触れた経験がなかったせいもあって,現実にその環境に触れる段になって,私自身のディスポジション(構え)は極端に引きこもってしまったように思う。それまで自分自身が闇雲にやってきたことが一つ一つ否定されていく感覚がついて回る感じだった。言葉としての「アン・ラーニング」は理解できるとしても,それがどれだけ自意識を直撃するのかは,経験してみないと分からないことだった。

 最初の一年間は,本当に方向性を見いだせぬまま走っただけだった。自分の感覚としてルールが納得できるようになるには時間が足りない。その後も周囲の圧倒的な力量を目の当たりにしながら,誰かに頼れるはずもなく,もがく自分へのいらだちも募り,結果的には周囲に対して最後まで迷惑をかけてしまった。

 それでも,理工系の学術ルールというものが少し実感として見えてきた。自分に足りないものも教えられた。この歳になってからでは,いくらか手遅れのものもあるが,それでも分からないまま歳をとるよりはマシだろう。

 教育工学の領域で授業実践記録の研究をした。記述された「授業実践記録」が授業づくりのための話し合いにどんな影響を与えるのか実験し,結果と分析を報告した。インターネット時代にあって,蓄積流通する実践の記録が有効に活用されるためには,どんな記録であることが必要なのかを探りたかった。

 いや,最初はもっと大きなテーマを考えていた。カリキュラムデータベースの在り方みたいな話を研究の主題にしようと思っていたのである。もちろん「在り方」なんて題目はどんな分野においてだって大ざっぱすぎるが,教育工学的にはほとんど何も限定していないのと同じだと言われて,絞り込みを迫られた。

 最初の一年間に迷っていたのは「研究単位」の解像度を根本的に変える必要があったからだ。師匠達が口にするヒントや示唆を繰り返し吟味しても,そもそも解像度が粗いから言葉は分かっても実質的な理解に及ばない。その苦しみを解く鍵になったのは「メールソフトのバックアップ機能」の例え話だった。

 その山を越えてからも大変だった。あらゆることをその単位で考え直さなければならない。過ぎ去った時間のロスは,最後の最後まで影響した。やりたい主題は,あまり前例らしきものが無かった。その上,実験を記録して,プロトコル分析をかけるなんて方法も慣れていたわけではない。協力者集めもご迷惑をおかけした。

 論文を書く段階で一時期,「百本足のムカデ」のお話の如く,一歩も踏み出せず,一語も書き出せなかった。長いこと思考は沈黙したままだった。冗談半分に日本海に行って帰らないと周囲に漏らしていたが,半分は本気で行方不明になろうかと思っていた。師匠にも協力していただいた先生方にも面目が立たない。でも思考が動かない。

 幸い,逃げ道を持っていなかった。酒もタバコも薬もやらない。金も女もありゃしない。残されていたのは,論文書くことだけだった。コミュニティもへったくれもなかった。自分が招いた事態である,自分が解決するしかない。少しでも迷惑かけないように。迷惑かけちゃった分は…,またあとで考えよう。

 そうやって多くの人々に協力していただき,とにかく書いたのが二度目の修論だった。

 自分はこの世界に向いてないとほとほと思い知ったこともあり,大学の職に執着はなかった。不況下において,どんな職でも就けるだけ有り難い。最悪の場合,蔵書は研究室に寄贈するなど処分し,身軽になって貧乏暮らしから始めようかとさえ考えていた。

 そういう自分勝手な想像とは裏腹に,現実にはいつくかの大学の職にも応募した。それがダメなら,いよいよ貧乏暮らしの始まりである。大学世界にさようなら。

 ということにはならなかった。遠く離れた徳島にある私立大学が教育と情報の出来る人を探しているという。まるで仕組んだみたいな話だが,とにかく師匠から新しいご縁をもらって,再び大学教員としての生活を始めることとなった。

 新しい職場での仕事は,教育と情報に関わる授業を幅広く担当すること。そのこと自体は,根っからの実践家なので,嫌いというわけではない。学生達の気質が様々なので,戸惑うこともあるが,基本的にはうまくやっている方だと思う。

 この先どうなるのかはわからない。ただ,これまでの道のりと関わってくれた人々に感謝するだけ。今後も自分なりに頑張るだけだ。