物事の終わり-02

 有終の美。「有終」とは「終りを全うすること」であると広辞苑にある。最後までやり通して立派な成果をあげること。そうやって終りを迎えられれば,満足感が得られ,次に繋がるということだろう。ゆく道が階段だろうと登山だろうと,そこには最上階や頂上といったゴールがあって,ひとつひとつを制覇し有終の美を飾ることこそ,人々に求められていることなのかもしれない。
 悠久の時。「悠久」とは「果てしなく長く続くこと」であると広辞苑にある。終りがないとは言わないが,私たちが生きるこの世は,私たちが去った後も後世の人々によって生きられるとすれば,果てしなく続く世界なのだろう。そこには無数のひとつひとつの出来事があるとはいえ,そうした物事の総体として悠久の時が織り込まれていくのだと考えても間違いではないと思われる。
 本当に力のある人は,悠久の時に思いを馳せながら,ひとつひとつの有終の美を飾れる人なのだと思う。

 個人的な思い出話を掘り返しても仕方ないし,ご興味ないかも知れないので,私なりになるべく手短に書く。「教育らくがき」という駄文Webページを始めることになった経緯は,開始当時のインターネット上における教育関連コンテンツの少なさにあった。その不満が次第に解消され,もはや過剰な事態である。
 よって本ページの当初の役目「枯れ木も山の賑わい」は終わり,教育周辺をフラフラ漂う人間の駄文記として惰性のまま続けようかというものになっていた。しかし,いよいよそのようなWebページの存続さえ「?」となった次第である。
 長らく読者の皆さんはすでにおわかりと思うが,この駄文たちは,幾重もの予防線と意味付けとメタメッセージといった添加物が,たっぷりと塗りたくられながら披露されていた。ブログメディアでありながら,その特性を無視して長文を書き続けたのも,結果的には「安易なコメントお断り」を言外にまとうためであったといえる。
 インターネットの歴史とほぼ重なる10余年の間,2ちゃんねるの登場やGoogleやブログの登場などによって個人発信の利便と危険が爆発的に増した。そんな時代を乗り切るために,変な知恵のようなものをつけてしまったのかもしれない。そもそも私自身はパソコン通信(アスキーネット)時代からの「ネットワーカー」である。20余年も通信生活と隣り合わせたのだから,皆さんがお読みの文章が何故こうも芝居がかった胡散臭いものであるのかは,そこから推して量っていただきたいと思うが,そんなことする必要はこれっぽっちもないことは,皆さんならもうよくおわかりのことと思う。
 つまりこういうことなのだ。私が駄文上で私自身を卑下すれば,そう受け取らない人もいるだろうし,場合によっては真正直にそう信じ込む人もいるということである。こうした多少の混乱を駄文にまぶしておくことで,何か書いてあるようでいて,結局は何も書いていないという風に読ませることもできる。まじめに取り合うに値しない文章が一丁出来上がりというわけである。
 そのような駄文スタイルを確立するに至る経過は,残してある過去駄文をご覧いただければ結構だが,いよいよその過去駄文を私自身のサイトから抹消し,駄文書きを「終演」しようと決意した,というのが今回のテーマである。

 継続こそ力なり。「継続」とは「受け継いでつづけること」であると広辞苑にある。大学受験ラジオ講座(ラ講)で印象深く聞いた言葉だ。しかし,どうも私は継続派というよりは,飛躍派のようであった。「飛躍」とは「正しい順序・段階をふまず先に進むこと」であると広辞苑にある。何をどう間違ってか,先にだけは進んでしまったので,いまさらながら巻き戻し中である。
 巻き戻しに半年以上の時間がかかるというのも,まあ,それはそれで恥ずかしい話だ。とにかく巻き戻ったところで,いざ再びレコーディングするにあたって,今までと同じように駄文を公開し続け,駄文を書き続けるべきか,大きな問題になったわけである。ポッドキャストで能天気にしゃべっている裏側では,いろいろ考え続けていた,と書いたら少しは格好がいいものだろうか。
 そして一本の電話を機に,(別にその電話がすべてではなくきっかけとして)腹が決まった。
 継続こそ力なりとも考えた「教育らくがき」という駄文書きを,次回で終わらせることにしよう。
 物事の終わりは,突然やって来るものだ。
 



 幸い,教育フォルダのリンク集は便利に使っていただいているようなので,そちらは(更新作業も含めて)残すことにして,「教育らくがき」として記録されたものを自身の手で公開することを止めることにする。
 ただし,すでにインターネット上に公開されたものである。オリジナル公開サイトが消えたくらいで,ネット上から完全抹消になるわけもない。場合によっては「いやこの冬にぜひ君の駄文を読みたいんだよね」という奇特な方がいらっしゃるかもしれない。というわけで,慌てて消す必要もないから「年内までに消す」というくらいの削除予定にしたい。
 過去駄文に関わって問題が発生した場合の対応については,ケース・バイ・ケースで対応するしかないと考えている。その対応方法や姿勢が駄文に記録された過去の自分の意見や考えと異なることもあるやもしれない。そんな,目の前に昔の自分が現れてケンカする時にはどうすればよいのだろう。何か良い知恵のある方は,その時に教えて欲しい。
 ポッドキャストはどうするんだ?という素朴な疑問もあるだろう。まあ,教育らくがきとして継続することは難しいと思うので,別の展開を考えたいと思う。最近リスナー数が増え出しているのは,うれしい反面,何かの間違いで登録動作が繰り返し発生しているんじゃないかと思う。それでも,聴いていただいた皆様には感謝。

 忘れ物はないかな。忘れたら,ここに書きに帰ってくると思う。ははは…。

物事の終わり-02」への3件のフィードバック

  1. たなか@とっとり

    「駄文」大大ファンです。
    思いをいろんな表現で、でもとても率直に出してくださるからこそ、それを受ける私たちは、新鮮に自分自身やその周囲の状況を見つめ直すことができました。
    教育に関する率直なご意見、もっとお聞きしたいと思います。

  2. わたなべ

    やめてしまうんですか?
    いつも楽しみに読んでいました。
    気持ちや記憶の外部化と共有は、作用の不確定さはありますが、個人的にはなんとなーく好きです。
    ほんとうにやめてしまうなら、残念でなりません。
    りんさん
    山内先生のブログで、教育用語の英語対訳表を教えてくれた方でしょうか?その節はありがとうございました。
    間違っていたら、ごめんなさい。
    最後に来て、あれ?
    そういえばと思ったもので。
    駄文継続を期待しております。

  3. エン

    気持ちよくわかるよ。
    実は私は今本当の自分を探している。心いつも不安でたまりません。もはや何をやっても、意味がわからなくなったので、突然たくさんの物事をやめることにした。まるで自分の人生が突然止まったような感じ、時間が止まったような感じ、、、
    できるだけ外部と接触しないし、無理な笑顔も作りたくない。自分が熱心に没頭してた学業を休学し、太極拳と英会話の会にもお休みになった。自分が本当に求めているものは何か、じっくり考えている。
    りんの教育らくがきは本当に教育に関する愛の気持ちが伝わってきたし、教育に対する無関心である日本社会にはいろいろアドバイスしたよ。「教育は愛である」っておしゃった教授に二人巡り合えた。好きな教授でした。私はまだ教育に対する愛は足りない、りんにまけた。
    りんの駄文から本を出版することができるような文才があるように見えた。
    何より本当は、これらの駄文は駄文ではなく、心の話である。自分を失わないような自分と対話する心の文である。自分の人間性の成長の印であり、書く時間は自分の中の自分の心の余裕を持つような貴重な時間である。これらの文の中から、りんは自分自身の喜怒哀楽がわかり、心の本当の気持ちをわかるのである。
    安易に止めないでくださいとは言えず、たぶんまた再開するだろう。あるいは他の形でまた綴ることにするだろう。

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