今日は委託研究プロジェクトの定例会。いつもは産学双方のメンバーで行なうが,今回は研究者チームのみで集まり,研究議論と成果発表の展望を共有した。あらためてプロジェクトで動くことの意義や実際を確認することができ,だいぶ見通す先が晴れてきた。もっとも,今日の天気はどしゃ降り…。
多くの研究世界がそうであるように,教育研究の世界にも,文系的研究スタイルの分野と理系的研究スタイルの分野がある。同じ研究対象にもかかわらず,この二つは研究成果の組み立て方や評価規準もだいぶ異なる。そして私といえば,この間を文系から理系へと越境しようとしている最中なのである。
細かい事実を端折れば,文系的研究スタイルは孤独な文献渉猟や主題思索の上に一本一本論文を書いて成果を出す。渉猟と思索を重ねるのが研究の核であるから,論文を書くにあたってそれらが足りないというのは困る。とはいえ,終わりはないのが渉猟と思索の旅である。上手く問題設定をして切りをつける必要があるというわけなのだが,これも下手に設定して問題を矮小化してしまう怖さと闘わねばならず,私のような大言壮語する人間にはなかなか難しい。
そしてまた細かい事実を端折れば,理系的研究スタイルは共同作業の計画的な設計と実行によって部分部分の考察を世に問い,最終的にそれら部分をもとに研究主題に関する一本の論文を書いて成果を出す。全体を部分に分けて計画的に実行するのが研究の核であるから,そのプロジェクトのマネジメントが不十分では困る。とはいえ,様々な課題や障壁,人的物的資源はマネジメントの知恵の輪である。上手く采配をふるって問題を切り分けたり,分担したりして,計画通り進行させる必要があるというわけなのだが,これも下手に采配をふるい全体構成が破綻してしまう怖さと闘わねばならず,私のような小心者にはなかなか難しい。
文系的スタイルの方を入口にした私にとって,理系的なスタイルは何がどうなっているのかよく見えなかった。頭で理解しているものと,表面的に見えているものが上手くリンクしないのだ。だから,業績の積み上げ方とか評価のされ方も実感として落ちてこなかった。まあ,自分にとって肝心の文系スタイルの方だって,十分にクリアできていなかったんだから,そりゃアンタの理解力不足の問題だと言われればそれまでだけどさ…。
それで最近になって,研究プロジェクトに加えてもらったおかげで,理系的な皆さんがどんな展望でプロジェクトやら研究を進めているのか,実感を伴って見え始めた。まさに「習うより慣れろ」である。
そして思ったのだが,独りでやっているより精神的に楽である。ああ,別に手が抜けるという意味ではないのだが,少なくとも終わらない旅をし続けるような途方もなさからは解放される気がしている。
ただ一方で,文系的な頭は「そんな割り切った問題設定でいいの?文句言う人いないの?」と老婆心を発揮する。システム開発の研究がシステムの普及推進までは問題としないことに違和感を覚えるのもその一つだ。
けれども,その問いへの応答は,分野の越境努力にこそ期待されるのだと思う。だから口ばっかりじゃなくて,自分で飛び込んでみることにしたのである。そしていまはそのための準備体操中である。
アクティブな皆さんと仕事をご一緒することで,自分自身も活性化されていくのが分かる。かつての職場でも,志ある仲間との仕事はこんな高揚感を味わえる数少ない機会だった。
けれども,プロジェクトを展開していくことは,上にも書いたように簡単ではない。プロジェクト内部と外部の温度差が原因で,プロジェクトで立てた目標が,組織内で非難されたり阻害されたりすることもある。そうなると目標達成は難しいし,何よりかけた努力がむなしくなる。意欲喪失,組織停滞,辞意転職。っと,これ以上は言うまい…。
プロジェクトを守るのは,プロジェクトマネージャーの力量や政治力にかかっているのかも知れない。でもそれだけでなく,プロジェクトの内と外をどうやって橋渡しするのかも考えていきたい。それはマネージャーでなくても意識すべきことだし,出来ることは何かあるかも知れない。
何かの縁があって,私はプロジェクトの内側で仕事が出来るようになったけれども,かつて外側にいた私自身に対して,いまの私は何が出来るのかを考えたいと思うのである。