逃げ場のつくり方

 午前中に自宅で仕事をしてから,昼過ぎの遅い出勤をした。昼過ぎの地下鉄は,おじさんおばさんがメイン乗客のはずだが,この日は試験期間で早くに終わったのであろうか,中高生たちが賑やかに乗り込んできた。
 私の隣りに2人分の空席があったので,中学生(もしかしたら高校生か?)と思われる女子が2人座った。2人楽しくおしゃべりしながら,私の隣りに座った女子がお菓子の袋を取り出して一生懸命開けようとする。「え〜!」と心で思って,止めようかと思ったところで封が開いてしまった。間髪入れずにもう1人も菓子袋を開けて見せた。
 地下鉄車内でパクパクとお菓子を食べ出した女子2人。その姿はまるで自分の部屋にいるような調子で,スカートに落ちた破片や手についたカスを車内の床に払い落としたりしている。
 「おいおい,おまえら」と心で思ってみたが,さて,どうしようか。たまに睨みつけてみたりもするが,全然認識されていない。周囲は女子2人に対して完全無視モードだ。この状況が嫌い。


 しかし,公共の場で注意をするのは,かなり勇気のいることになってしまった。ケータイ・カメラによる書店での商品撮影行為への注意にしても,バスや公共施設での順番抜かしへの注意にしても,いままで教育らくがきでは,果敢に注意を促す行為を挑戦し続けてきたが,やはり毎回苦しい。
 いかにスマートに相手の行為をたしなめるか。それはとても難しい課題だ。なにしろこの課題の難しさは,スマートにきめたにしろ何にしろ,必ず自分自身や自分が所属する「大人」集団への強烈な自己反省を連れてくる。私たち見本を示すべき者が,その役目を全うしていないからこんな事態に遭遇するし,だから遭遇したときに無視をして自己反省を回避しようとするようなる。
 今回も,この女子2人にどう言ってやろうかと考えを巡らした。ちょっと味見して終わるんなら,それを待つのも手かなとも思った。私だって,願わくは余計なことにエネルギーを注ぎたくない。「まったく,昨今の常識は変わってしまったな」と嘆いて済ませれば,そのうち忘却の彼方だろう。
 しかし,そうやって事実上容認していくことが,世間の常識を下手に変えてしまっている根本原因だとしたら。そう思うと,隣りで他人がお菓子を食べているという不快感と併せて,どうしても何かアクションを起こすべきだと意志決定せざるを得なかった。
 ただ,「車内でお菓子を食べるなんて非常識だよ」とストレートに注意してみたところで,その効果はどれほどだろうと考えた。直接にこちらの意図を伝えるには良いが,メッセージの受け手にとっては他人からそんなことを言われるのは青天の霹靂。「げっ,怒られた」とムカッとする感情が沸き起こるに違いない。しかも,こういう場合,女子2人だから,お互いに「何か言われたよ」と不機嫌な感情を共有し始めるので,隣りで座り続けなければならない私にとっては,注意したことで居心地が悪くなり始める。
 女子2人の側に立てば,「なんで私たちだけ怒られるのかしら」「いまどき誰でもやってるし」「大人だって恥ずかしいことしてるじゃん」「前は注意されなかったのに何で?」とかいう変な理屈で居直られる余地が生まれる。結局,たった一回の注意行為によって,私の居心地の悪さばかり増える,という風なのだ。
 たった一回の注意が,少しでも効果的に女子2人の現状を変えるためにはどうすればいいのだろうか。メッセージが受け損なわれたり,捨て去られたりしないよう,ある程度受け止められやすくなくてはならない。私の真意は「電車内で菓子を食べるな」であるが,これを直接的にメッセージとして送るのはリスクが大きい。伝われば○だが,逆ギレされて伝わらない可能性も同じくらいにあるので×だ。
 だとしたら,真意からは遠くなってしまうが,相手に「逃げ場」を用意し,こちらが用意した逃げ場に追い込んでしまうようなメッセージに変えて,注意する戦略をとる方が,たった一回の注意においては効果的ではないかと思う。かなり妥協的な考え方かも知れないが。
 私からすれば,電車内でお菓子を食べるのは非常識だというのがそのときの考え。しかし,女子2人にとっては電車内でお菓子が食べたかったのだろうし,食べてもいいよねというのがそのときの考え。その時点の考え方がまったく異なる両者がコミュニケーションをとろうとする際,かみ合わないまま平行線になる可能性をできるだけ低くするには,お互いの主張を緩め,接点を作り出さなくてはならない。これは均衡点を探すようなものだ。
 私が彼女たちへ発した注意はこういうものだった。「車内でお菓子を食べるのは勝手だけど,カスを落とすのはどうかと思うな」。私にしてみれば,主張の核心であるはずの「車内でお菓子を食べるのは非常識」をあきらめた格好だ。正直,立場的には悔しい。けれども,私が女子2人の親でもなければ,教師でもなく,日々持続的に接触する人間でない以上,たった一回のコミュニケーションを最大限活かすためには,それくらい大胆な「逃げ場」をつくらないと相手を掴まえられない。
 一方,彼女たちからすれば,「げっ注意された」という感情は生まれるが,メッセージの内容が直接的に「お菓子を食べる行為」ではなく「カスを落とす行為」に向けられていることから,メッセージの吟味を始める余地も生まれる。そもそも「お菓子を食べる行為は注意される行為である」ことを彼女たちは最初から知っている。それでも食べているのは,もちろん問題なのだが,そこの理不尽さを直接的に叩くと全否定されたような感覚になってコミュニケーションから降りてしまうことにもなりかねない。だから,むしろ筋道としては,コミュニケーションを通して女子2人を理不尽さと向き合わせ,お菓子を食べている行為に自発的に変化を加えられるような「逃げ場」を用意しなければならない。「カスを落とす行為」への焦点のずらしは,そういうことを意図している。
 どうなったのか。彼女たちは「げっ,注意された」という反応を短く示した後,お菓子の袋をカバンにしまった。良かった良かったと思ってみたら,我慢できないのか,しばらくしてカバンのお菓子袋に手を伸ばして,一つつまんでパクッと食べる。はぁ〜,まあ仕方ないのか。少し遠慮気味になったことだけでもマナーを意識し始めたのだと思って良しとすべきなのだろう。この場合,変に妥協的な注意をするのではなく,「ダメなものはダメ」と言えば良かったのかも知れない。ただ,直接的な注意をして険悪な空気を味わうことも覚悟しなければならないが。
 それからまたしばらくして,私たちの前におばあさんやおじいさんが乗車してきた。ちょうどいいので,私は席を立って譲ることにした。うんざりしていたので,特に女子2人に目線をやることはしなかった。ただ,目的の駅に着き,降りる段になって見てみたら,女子2人も席を譲ったようだ。なかなかやるじゃん。一つ一つのきっかけが,良い状況をつくれるのだと,少しホッとした気分となった。
 そして,私は思ったのだ。結局,女子2人の行為にしても,最近の若い世代の常識の変化についても,良い悪いは別として,すべてはそのようにさせてきた私たち上の世代の在り方に関係してくるのだなと。
 電車内で平気で化粧をする女性に不快感をおぼえるとしても,女性にしてみればそうせざるを得ないほど時間的に忙しいという現実なのかも知れない。マンガを読みながら朝食の菓子パンを電車内で食べる若いサラリーマンにしても,そうでもしないとやってられないという毎日なのかも知れない。
 「そうせざるを得ない社会」であることに悲観的になるか,「そういうこともできる豊かな社会」になったと楽観的になるかは人それぞれかも知れない。いずれにしても,そういう異なる立場がそれぞれある以上,同じ社会で共生するための均衡点やコミュニケーションの確保を模索していかなくてはならない。
 まぁもっとも,人から注意されたり,人に何かを聞いたりする前に,自分でもっとよく考えてから自発的に行動してくれるようになってくれれば,こんな面倒くさい模索や「逃げ場」づくりをしなくても済むとは思うのだが‥‥。そういう努力もその意味も,あまり理解してもらえないものである。

逃げ場のつくり方」への1件のフィードバック

  1. 同業者N

    あまりにおいしそうに食べていたら、
    「それ、おいしいの? ひとつちょうだい」と聞いてみると思います。
    そうでなければ、「あー、日本は平和だよなー」とか、
    「今ここでこいつに何か言っても、こいつと同じようなヤツはあちこちにいるから、たいして意味ないよなー」とあきらめます。
    私が一切募金に協力しないのもそのためです。
    ひとたび始めるとキリがないからです。
    忸怩たる思いはありますが。

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